劉裕61 安帝崩御    

安帝あんていが「何故か亡くなった」。


そこで安帝の弟、司馬徳文しばとくぶんが即位。

後に恭帝きょうていと呼ばれることになる。


恭帝、劉裕りゅうゆうを朝廷に招き、

補佐役となるよう要請。


合わせて劉裕の爵位は

公侯伯子男こうこうはくしだんの更に上、王に進爵。

すでにそう公国として得ていた封爵地の他、


徐州じょしゅう海陵かいりょう北東海きたとうかい北譙きたしょう北梁きたりょう

豫州よしゅう新蔡しんさい

兗州えんしゅう北陳留きたちんりゅう

司州ししゅう陳郡ちんぐん汝南じょなん潁川えいせん滎陽けいよう

の、以上十郡を加えられ、宋王国とした。


また義母の蕭文寿は太后に、

すでに亡き妻の臧愛親は王后に、

嫡男の劉義符は太子に称号が変わり、

王の子や孫にもそれぞれ爵位が付与。

いずれも旧来の制度に則った措置である。




天子崩,大司馬琅邪王即帝位。詔遣大使徵公入輔。又申前命,進公爵為王。以徐州之海陵北東海北譙北梁、豫州之新蔡、兗州之北陳留、司州之陳郡汝南潁川滎陽十郡,增宋國。進王太妃為太后,王妃為王后,世子為太子,王子、王孫爵命之號,一如舊儀。


天子の崩ぜるに、大司馬琅邪王は帝位に即つ。詔して大使を遣わせ、公を徵し入輔せしむ。又た前命を申し、進むめて公が爵をして王に為さしむ。徐州の海陵・北東海・北譙・北梁、豫州の新蔡、兗州の北陳留、司州の陳郡・汝南・潁川・滎陽の十郡を以て、宋國を增す。進めて王太妃を太后と為し、王妃を王后と為し、世子を太子と為し、王子、王孫に爵命を號せしめること、一に舊儀の如し。


(宋書2-16_寵礼)



「何故か亡くなった」

(要審議)


加増された封爵地について

「北」とついているのが目立つのは、晋の東遷に従って江南に新設された仮の郡が、正式な呼称になったため。

例えば譙に住んでいた人々は江南でコロニーを作った。そこを仮に譙と呼んでいた。このやり方を僑郡制と言う。

の、だが、劉裕が北伐して、もともと譙と呼ばれた辺りを再び版図に収めた。とはいえいま江南の僑郡譙に住んでいる人たちは、もはや四、五世代でそこに住んでいる。いまさらもとの譙になんぞ戻りたくもない。というわけで、元あった譙の方には「北」が付けられるようになった、

……と、推測される。


それにしても譙、梁、新蔡、陳留、陳郡、汝南、潁川、滎陽。このへんって、軒並み当時の政権を運営してたメインスタッフの本籍地なわけです。そこを封爵地として与えましたとか、意味合いとしてはかなりヤバい。「国家運営のメインスタッフたちは劉裕の隷下に収まりますよ」的ニュアンスすらある。ちょっとやりすぎでしょうこれ……。

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