真っ白な原稿の行方
澤田慎梧
真っ白な原稿の行方
――否、肇が向かっているのは原稿用紙ではなく、パソコンのテキストエディターの画面なので、もっと正確に言うと――。
伊太川肇は、まだ一文字も書けていないテキストエディターの画面の前で、頭を抱えていた。
肇は専業の小説家だ。小説を書くことを生業とし始めて、かれこれ十年近くになる。
専門ジャンルは特に無し。なんでも書けるのが長所だが、特定のジャンルに強い訳ではないのは短所とも言えた。
それでも、肇がこの厳しい業界で生き残ってこれたのは、安定したスピードで一定以上のクオリティの文章を確実に量産出来る、その手腕からだ。
もちろん、肇の強みはそれだけではなかった。
肇は、他人の作った企画の趣旨を把握し、それを小説に落とし込むのが上手いのだ。
具体的には、例えば映画やアニメのノベライズ等だ。他人の作った基本ストーリー、設定、登場人物をすばやく正確に理解し、それを小説の形に「翻訳」していく。
業界の人間からは「イメージ通りのノベライズを実現してくれる作家」として、一定以上の信頼を得ていた。
だが、映画のノベライズのような、いわゆる「版権モノ」の場合、印税は通常の半分程度になるのが殆どだ。
普通ならばそれだけで食べてはいけないのだが、肇はとにかく筆が早い。おまけに執筆依頼もひっきりなしだったので、食うに困らない程度の稼ぎを得ることが出来ていた。
もちろん、運も良かったのだろう、と肇は思っている。
さて、そんな「はやい! やすい! うまい!」を体現したような作家である肇が、今は真っ白な原稿を前に頭を抱えていた。
と言うのも――。
「今更『好きなものを書いてください』なんて言われても……何も思い浮かばない!」
――そう。肇は今、出版社から「完全オリジナル新作」の依頼を受けていたのだ。
しかし、そのアイディアが全く浮かばない。驚くほど浮かばない。
肇も小説家と名乗る以上、その昔はオリジナルものを書いていた時期もあった。
けれども、そちらは鳴かず飛ばず。ノベライズばかりが評価されるので、「仕事」と割り切ってそちらに十年近く注力してきた結果……「自分の書きたい小説」というものを、すっかり見失っていたのだ。
「かつての自分」にそれを教えてもらおうと、昔の作品を読み返してみれば、あまりの稚拙さ、青臭さに赤面するほど。
ピュアな十代の恋愛ものや、はたまた中二病マインド溢れる王道バトルもの等などが目白押し。とてもではないが、今の肇には書けそうにもない。
映画や漫画、ドラマのノベライズを数多手がけてきたこともあって、ジャンルはバラバラ、想定読者層もバラバラ。
読者の年齢層に合わせて文体も変えてきたので、作者名を伏せたら同じ作家の作品だとは思われないかも知れない。
――どこにも「小説家・伊太川肇」の姿が見当たらなかった。
「頑張って書いてきたつもりなんだけどなぁ……」
実際、肇はよくやっていた。
出版不況の叫ばれる中でも、十年近くコンスタントに仕事をこなしてきた。
亡くなった父から引き継いだ家屋敷を維持し、母の面倒も見られる程度の稼ぎは得てきた。
――唯一引け目を感じるところがあるとしたら、未だ独身で子供もいないことくらいのものだ。
それも、今の晩婚化・少子化の社会においては、責められることでもないだろう。
今後のスケジュールも、みっちりと埋まっている。
単行本の仕事だけではなく、雑誌やパンフレットに載せるような短編小説の仕事だって貰っていた。
仕事の量も稼ぎも、胸を張って「プロの小説家」と言えるものだ。
にもかかわらず、肇は今、作家としてのアイデンティティ消失の危機にあった。
「何でも書ける」ことが取り柄の小説家が「何も書けない」だなんて、皮肉以外の何ものでもない。
――自室の中を見回す。
ベッド以外には、仕事用のデスクと、大量の本が詰め込まれた本棚しかない、肇にとっての小宇宙だ。
本棚にあるのは、自著の他にもベストセラーや流行り物の小説、辞書や辞典、各種資料。そして趣味で読んでいる実に様々な小説だ。
(この中に、参考になりそうなものは――)
と、そこまで考えて、肇は頭を振った。
流行り物や自分の好きな小説からインスピレーションを得るのは悪いことではないが、果たしてそれが「肇のオリジナルかつ書きたいもの」と呼べるだろうか?
苦し紛れに「どこかで見たような」作品を生み出してしまうだけではないのか?
「……はぁ。他の作家さんは、こういう時どうしてるんだろう?」
肇にも、同業者の知人・友人がいないわけではない。
だが、彼ら彼女らの多くは、専業作家では食っていけず、二足のわらじを履いている人達ばかりだ。
作家仲間の中でも順調に稼いでいる部類に入る肇が、「書きたいものが思いつかない」だなんて言ったら、嫌味にしかならないだろう。
だから、同業者に相談するのは最後の手段。
担当編集も「先生の書きたいものを書いてください」としか言ってこないし、頼りにはならない。
――いや、それは信頼されている何よりの証拠、か。
「まさか、自分の書きたいものを書く……自分の為に書くってことが、こんなに難しいだなんて……」
増えるのは独り言ばかり。アイディアは欠片も浮かばない。
時間は刻一刻と過ぎていくばかり。そろそろ手を動かさないと、他の仕事にも影響が出かねない。
――そんな状況で焦りが出たのか、肇はパソコンのブラウザを立ち上げると、プロ作家失格なのではないかというキーワードで、ネット検索を始めた。
『小説 何を書けばいいのか』
すると、出てくる出てくる、様々な検索結果。
しかしそれらの多くは、いわゆる「小説投稿サイト」に寄せられた「小説執筆講座」系の記事だった。
とてもではないが、プロとして十年近くのキャリアを持つ肇が参考にしていいものではない。
「そりゃそうだよね……」
自分のバカさ加減にげんなりしながらも、律儀にそれら記事を一つ一つ丁寧に読んでいく肇。
……中身は思ったよりまともだが、当然、プロとしてのキャリアを持つ肇には不必要な情報しか書かれていない。
中には異次元の理論を唱えているものもあって、それはそれで興味深かったけれども、参考にはならない。
だが――。
「あっ――」
ある記事を目にした時、肇は思わず声を上げてしまっていた。
そこには、こんなことが書かれていた。
『何を書いたらいいのか分からない? そんな時は、読者の顔を思い浮かべてみましょう! 性別は? 年齢は? 普段はどんなことをしている人?
それを思い浮かべるのが難しい場合は、範囲を思い切り狭めてみましょう! 例えば、あなたのお友達や親兄弟なら、どんな小説を読みたいと思うのか? どんな小説を読めば喜ぶのか?』
「――そうだ、そうだよ」
その記事の何気ない言葉の数々に、肇は思い出していた。自分が「作家」を志したきっかけを。
小説を書き始めたのは、中学生の頃。友達と自作の小説を持ち寄って、読み合いっこする為だった。
そして更にそれ以前。肇が物語を作り始めたきっかけは――。
「――母さん! 母さん! ちょっと!」
自室を飛び出した肇は、母がくつろいでいるリビングへと駆け込んでいた。
その勢いに、ソファーに横になりながらテレビドラマを楽しんでいた母親が目を丸くする。
「な、なんだい!? Gでも出たのかい!? 殺虫剤なら浴室の棚の上だよ!」
「そうじゃなくて……あのさ、母さん。――今、読みたい物語って、何かあるかな?」
――そう。肇が物語を作り始めたきっかけは、母だった。
毎日絵本を読んで聞かせてくれた母に、「お返し」と称して自作の物語を語って聞かせたのが、全ての始まり。
(あの頃は、いかにも子供だましの物語しか作れなかったけど、今ならきっと――)
「読みたい物語って……う~ん、そう言われてもねぇ」
「なんでもいいんだよ! 観たい映画やドラマでもいいし、読みたい漫画でもいい。どんなジャンルの……どんな物語でもいいからさ! ほら、最近ハマってるドラマとか、ないの?」
「う~ん。と言われても、あたしゃ海Pが出てるドラマくらいしか観ないしねぇ……」
『海P』というのは、肇の母が熱を上げているイケメンアイドル俳優「
一年でテレビドラマに出ていない季節はない、と言っても過言ではないくらいの売れっ子である。
「じゃあさ、海Pが出てる最近のドラマで、特にお気に入りのはなかった? 話が気に入ったやつとか」
「ええ~? 話が気に入ったやつ? そうねぇ~、強いて言えば今やってる『救急ヘリ大爆発!』みたいな、手に汗握りつつきっちり恋愛要素も入ってくるやつかしらねぇ?」
「救急ヘリ大爆発!」なら肇にも聞き覚えがあった。
海P演じる若手エリート医師が、救急ヘリ隊に配属されて、何故か毎度爆発に巻き込まれるというバイオレンス系医療アクションだ。
――海Pのイケメンぶりに頼った大味なドラマだが、母が読みたいというのなら、肇もそういうジャンルに挑戦するのもやぶさかではない。
「……なるほど。イケメンが活躍する派手めのアクションでいいの?」
「そう言われると、何だか身も蓋もないわねぇ……。う~ん、そういうのが読みたいかって言われると、ちょっと微妙ねぇ……。あ、そうだ!」
そこで肇の母は、なにか思いついたと言わんばかりに手を叩いた。
「ねぇねぇ、こういうのはどう? 海P似の若いイケメンくんが、ある日独身をこじらせたアラサー小説家と出会って、恋に落ちるのよ!」
「――え?」
母の言葉に、思わず肇は嫌そうな表情を浮かべてしまった。
何故ならば――。
「最初は年の差もあって、二人の仲は進展しないんだけど、小説家の母親が背中を押してあげて遂に二人は……というのはどう? 夢があるでしょう?」
「……いや、母さん。それはちょっと」
「なんで?」
「なんでって……そのアラサー小説家って、明らかに私のことでしょう!?」
――そう。母の言っている「アラサー小説家」とは、あからさまに肇のことを指していた。
「あたしゃねぇ~、あんたがねぇ、イケメンのお婿さん連れてくるのをずっと待ってたのよ~? それなのにあんたには、結婚どころか彼氏の気配すらない! 少しでも悪いと思ってるなら、小説の中だけでも夢を見させてくれないかしら~?」
「ぐ、ぬぬぬ……」
――実際、肇にも結婚願望が無いわけではない。いや、むしろある。
だが、ただでさえ出会いの少ない作家業。結婚どころか彼氏だってろくにいた
「結婚しない」のであれば母もうるさく言わないのだろうが、肇の場合は「結婚できない」なので、母も遠慮なく、しょっちゅう嫌味を言っていた。
そしてそれは実に痛い所を突いているので、肇も下手に言い返せないのだ。
「『どんなジャンルのどんな物語でもいい』って言ったじゃない~。ねぇ肇ちゃ~ん、書いてよ~。ママ、読みたいわ~」
「……普段は『ママ』とか言わないくせにぃ! 分かったよ! 書くよ! 書けばいいんでしょ!? すっごい作品書いて、母さんの度肝抜いてやるから!」
――かくして、「売り言葉に買い言葉」を実践するかのように、肇は母の挑発に乗って、「若いイケメンとアラサー小説家が恋に落ちる」小説を書き始めた。
もちろん、「二人の背中を押す母親」を入れるのも忘れない。
そして数カ月後、伊太川肇の約十年ぶりのオリジナル小説「年の差ラブは小説よりも奇なり」が
同作は多くの評論家から、「作者の願望が溢れすぎてる」「夢小説」等と酷評されたのだが……その一方で、一部読者層からは熱烈な支持を得て、複数回に渡って版を重ねることとなった。
結果として、業界での肇の評価は上がり、仕事も更に増えたのだが……当の肇は釈然としない気持ちでいっぱいだったという。
主に、毎日のようにドヤ顔を見せてくる母親のせいで――。
(了)
真っ白な原稿の行方 澤田慎梧 @sumigoro
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