夢目糸市放火事件
私が
始まりがいつだったのかは明確な記憶によるところではないが遅くとも昨年の七月頃にはそういった兆候が見え始めていたのは間違いないだろう。
私がこの恐るべき宗教に関係を持つのはそれから数か月後ある男のせいだ。私の友人にSという男がいた。恐らく身元が分からなくなるほど焼け焦げた遺体の一つは彼のものだろう。Sは画家だった。何度か彼のアトリエにも訪ね絵を見せてもらったこともあるが何というか、形がはっきりとせずグロテスクで気味の良いものではなかった。Sが言っていたことはよく覚えている。
「僕の作品はね自身に、人に語り掛けることでインスピレーションを得ているのさ。おおよそ君にはこの絵を真に理解することはないだろうね。勘違いしないで欲しいのだが、君はいい友人だし尊敬できる点も多々ある。でも君は芸術家ではない。学者だ。君たちが必死にあらゆることを言語にして体系化し万人に理解できるようにするのに対して、僕の絵はねもっと根源的なものを描いているのだよ。僕たちの使う日本語はもちろん英語、ドイツ語、中国語、その他どの言語にも言い表せないものさ。だから言葉ではない絵にするんだ。もしこれが言語化できるのなら僕は詩人になっていたかもしれないね。いいかいこれはね人間が知覚できないもの、あるいは知覚するのを辞めたもの、人間の本能が自身の平穏の為に無知という大海原に逃げ出さずにはいられなかったものだ。だから人間の多くはこの絵を見た所で何も感じることはないだろう。ただ失われた感覚器官。その痕跡。より発達した感受性を持つものがこれを見たならばどうなるだろうか。」
私には仕事があったしSにも創作活動があった。その為私たちが合うのは年に数回ほどであった。Sが件の宗教に興味を持っているのは比較的すぐに理解できた。というのも以前訪れた際には見受けられなかった点がSの部屋に様々な痕跡としてあったからだ。Sは常に一流にこだわっており、それは一種の病的なものであり、部屋の家具のすべてが非常に豪華絢爛なものであった。しかし訪れたSの部屋は絵画に必要な道具を除き、そっくり部屋からなくなっていた。聞けば、Sは私財のほとんどを売り払い、売り上げのほとんどを差し出したという。それどころかSはその宗教、『大洋の教団』の幹部になったとさえ言う。また今までSの部屋に無かったもの。彫像が見受けられた。これまた奇怪な造形であり、台の上に蹲った姿勢をしている怪物の像だった。S曰くこれがたびたび夢に表れることで世界の真理を紐解くことができるらしい。近々教団で集会が開かれるとのことだったが、Sは私にぜひ参加してほしいと申し出た。私は教団に対し少しの興味も抱いてはいなかったし、一度話をした際も興味を持たれなかった事を告げたが、Sは執拗に私を誘うので渋々ながら集会に参加することになったのだ。
集会は件の教会で行われ、私が見る限り五十人前後の集まりで、S曰く教団の有力者が集まっているとのことだった。そうか、今思い出したあの集会にいた男をどこかで見た気がしたのだ。テレビだ。奴は雨傘製薬の八足研究所の副所長だ。間違いない。話がそれたが集会は滞りなく進んだ。集まった者たちが訳の分からぬ赤い液体を顔に塗りたくり、不可解な言葉と共に体をくねらせ飛び跳ねて踊りだした際はさすがに面を食らった。一体Sは私にこれを見せてどうしたかったのか。心変わりをするとでも思ったのだろうか。いまだに分からない。最後に連絡事項として男が一人話し始めた。
「最後になりますが我々はついに鍵を見つけるに至りました。といっても写真ですが。彼女こそ我々の教団に永遠な繁栄をもたらすでしょう。皆さんよく覚えて帰ってください。そして見つけ、捉えるのです。いかなる犠牲を払っても」
男がこの様に不穏な言葉言い終わるとパソコンを操作し、プロジェクターに一人の女性が映し出された。歳は二〇歳前後だろうか。半ば意識のない行動だった。私は男に素早く近寄り、そのパソコンを奪い、地面に叩きつけた。私は願う。この行為が名も知らぬ女性を救うことに繋がると。時間にして一〇秒にも満たなかったであろう。まさかあの短時間で女性の顔を覚えた者はいないだろう。私が窮地に立たされているのは雰囲気から明らかであったが、一人私に助けを差し伸べてくれる者がいた。Sだ。
「落ち着くのです。彼は私の友人です。私が呼びました。きっと彼も気が動転しているだけなのでしょう。そうだろう」
Sが私に呼び掛けてくるが私は返事ができなかった。私は嘘を付けなかった。気は確かだったし、正しいことをしたと確信しているからだ。
Sはなおも信者に呼び掛けていた
「いいかい彼に手を出すな。彼も仲間さ。証明しよう。君は僕に続いて復唱するだけでいいんだ。いいね。ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅるふ・るるいえ・うがふなぐる・ふたぐん。さあ」
これは集会の節目節目に言われていた言葉だ。おおよそ人間の発音とは思えないもので上記も無理やり日本語化していると断っておこう。彼らの中で最も大切な言葉らしい。しかし私は言えなかった。無言でいる私をみてSは発音が難しいせいだと合点したらしく、子供に言葉を教えるようにゆっくりと、やさしい口調で繰り返した。言いようもない恐怖があった。私が震えながら首を振り、拒絶するとSは一言、地下だ。というと私は信者に取り押さえられ、自由を奪われ運ばれた。部屋の隅の扉を開けると下に続く階段があり、下からは不快な生臭さが漂ってきた。階段を降りるごとに水音にも似たぺちゃぺちゃとした唸り声がどこからか聞こえ、それが私をより一層不安にさせた。階段を降り切るとまた扉があり土がむき出しの廊下を通り一つの部屋に通された。しばらくするとSが部屋に入り、二人きりになった。Sは決して私に対し怒りを覚えてはいなかった。しかしその眼には失望の色が浮かんでいた。だが、それは長く続かず、何かすがるような期待を込めた眼になり話し始めた。
「君はきっと理解してくれると思ったのに実に残念だよ。確かに僕の説明が足りなかったのは認めよう。準備が間に合わなかったんだ。君に以前話したことがあっただろう。人間の言語には限界がある。人間がお互いにすべての考えを理解しあえることはない。と。でもね、絵画だって完全ではないんだ。その点この教団は素晴らしい。僕らは前提として、君からしたら暗澹たる夢。と陳腐な言葉で済まされる夢を見ているんだ。言葉でなく、夢を通じて共通した認識、人間が知覚するのを辞めたものを理解しているんだ。そしてそれは存在する。君たち学者が闇に追いやったもの。僕らが世界を変え、すべての人間に教えてやる必要がある。遅くなったね、紹介しよう。彼女はラヴィニア。みんなはラヴィと呼んでいるよ。」
一人の女がいた。言葉で言い表すのは難しいのだがどこか不安にさせるような、彼女の仕草の端々に言いようもない嫌悪感を覚えた。
「彼女が教えてくれた。君たちのような頑固者にも僕たちの見ているものを見せることができると。そんなに心配することはないよ。痛みはない。確かに君のように見たくないものを見ず、耳を塞いできた者たちには刺激が強すぎるかもしれない。でも僕は君を信じているよ。君は素晴らしい友人だ。でも僕の真なる理解者になることはないとずっと思っていた。でも君がこれを乗り越えることができれば僕たちは今まで以上の素晴らしい関係になれると確信しているよ。」
Sとラヴィニアが近づいてくる間私はその場から動くことができなかった眼球だけが忙しなく動き部屋の細部までを見通していた。すべての壁にはおおよそ理解したくないような堕落した行為を描いたであろう絵画。きっとかつて私の友人であり、現在私に危害を加えようとする者の作品が張られていた。ラヴィニアは発音すら不明瞭な歯の間から空気が漏れるような呪文を唱え私の手とSの手をつないだ。
最初の変化は穏やかであった。ちょうど静かな水面に水を垂らしたかのように私の視界の景色が波打ち、また静まる。それがちょっとずつ速度を増し全ての空間が歪み正常に見ることができなくなった時に。それは突然だった。勢いよくカーテンを開け放ったがごとく急に視界に入った。きっと、人間が意図して退化させてきたもの。猫がなぜ、何もない空間で耳をピンと欹てるのか、なぜ赤子が急に中空を見つめるのか。理解した気がする。それは鈍く輝き、泡立ち、捻じれ、別れ、繋がる。互いを食い合い吐き出す悪意の塊。意思を持つ混沌。もはや私には分からない。正しくSの言葉の通りであり、私はこれを言い表す言葉を持ち合わせてはいない。私は悲鳴を上げていた。いや、今となっては本当に声が出ていたかも定かではないが。だが「それ」は私に気付き飲み込む為か薄く広がり被さってきた。実に不愉快な感覚に襲われた。ガラスを引っ掻いた際に出る音を聞いたような背筋の寒気、眠ることも起きることも叶わぬ微睡み、よどんだ沼の泥。そのどれとも似て非なる嫌悪感だった。するうち、私の視界に写るのはこれまた言いようもない不思議な建造物であった。石造りでありその不可解さは筆舌しがたいが、どの石柱であっても辺をなぞることができず輪郭さえおぼつかない。まるで常に形を変え私を嘲笑うかのようだった。ぽっかりと空いた穴を見つけ覗けば闇が広がり、まるでどれだけ強い光でさえ照らすことはできぬと感じるものであった。不愉快な臭いとともに穴の中から歪んだ巨大な鉤爪が現れ穴の淵に手をかけた。私は走り出した。頭部に強い衝撃を受け、瞬きをした際に私はいまだに地下室にいると分かり、目の前には壁があった。しめたことにSとラヴィニアは私の突然の動きに呆然としており脇を通り過ぎることは容易であり、私は部屋を出て、土がむき出しの廊下を走り抜けた。もはやすべてどうでもよかった。Sを助けようという気持ちは消え失せていた。もはや私の知るSはいない。私はほんのちょっぴり数を数え間違えていた。地上への階段へ続く扉はこれの一つ奥だった。なぜ私は忘れていたのだろうか。地下に降る階段から聞こえてきたぺちゃぺちゃと聞こえる人間のものではない話声を。なぜ気付かなかったのだろう地下に充満する不快な臭い、炎天下の中数時間も放置された魚のような臭いに。なぜこの扉の向こうからその二つがより鮮明に聞こえ、臭うのか。それこそが私が火を放つまでにいたった理由であり、同時に私が称えられるべき理由だ。それは最も原始的な行為であり、私が今までに見たものの中で最も胸の悪くなるものだった。その後のことはおおよそ覚えてはいないが、泥と汚物にまみれた状態で見つかり、警察の世話になったことは覚えている。
それからはあえてく必要も無いだろうが、私は大量も燃料を買い教会に火を放ち、今まで隠れている。ただ一つ気がかりがあるとすればあのおぞましき地下室までもがしっかりと燃えたかを確認することができないということだ。しかし事件についていかに詳細に調べようと地下の話は出てこない。まるで隠蔽されているかのごとく。
さて、最後になるが私が地下で見たもの火を放つに十分すぎる理由について記しておこう。初めは記すつもりはなかったのだが、いや、ただの気まぐれだと思ってくれて構わない。
数人の男女がいた。一様に裸で体をくねらせ踊り、その中心には傷つけられ無残な姿の犠牲者が天井から逆さにぶら下げられていたのだ。邪悪な儀式だった。しかしそれではない。その下だ。犠牲者の下では、あれはなんだと言うのだ。言いようもない生き物。ツルツルとした肌には所々鱗があり、魚のような頭部を持つ化け物。長く伸びた顔の両側に瞬きをすることのない黒々とした目があった。そして化け物の下には女がいた。見間違えるはずがない!最も原始的な行為だ!化け物の下半身と女の下半身は間違いなく結合していた。私はすぐに目を背けた。部屋の隅にいる女と目が合った。まるで臨月のように膨れ上がった腹が何を意味するか。それは私が想像を巡らすより早かった。女は目が合った途端苦しみだした。出産は滞りなく手早く終わった。しかし子供は母親よりも今別の女と繋がっている父親にそっくりだった。
クトゥルフ短編集 吉田君 @tt4949
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