祈りの手触り

三津凛

第1話

1.

「髪を切ったから、もしかしたら気付かないかもしれないよ」

そう呼びかけると、マチ子は笑った。

「そんなことないでしょう。何処にいたって絶対にちゃんと分かるわ」

「ふうん、だといいけどさぁ」

すっかり軽くなった首回りをなんとなく触りながら、私は唇を尖らせる。

「それで、そっちはどうなの?」

「うん、楽しいよ。月並みな言い方だけど、文化の違いはすっごく感じるのね」

「例えば?」

そこでマチ子はふっと黙った。何を言おうか、少し考えているようだった。私とマチ子との間には偶にこんな沈黙が流れる。私も静かにマチ子が唇を開くのを待つ。

抜け目のない商人が、麻袋の中からとっておきの宝石を取り出すように、マチ子も静かに話す。

「特別なことじゃないんだけど……例えばご飯を食べる前はみんなで手を繋いでお祈りを捧げるとか、日曜日は教会に行くだとかさ。そういうのって、ないじゃない」

私はマチ子の置かれている異国の食卓を思い浮かべようとする。冬のアイルランドはもっと寒いだろう。マチ子の話だと、この1週間晴れた日はない。冷たい雨の中を、綿のように膨らむ白い息を吐きながら彼女は英語を習い、ホームステイをしているのだ。

「映画の中みたいね……」

「うふふ、私は映画を観たことはないけれど」

今度は私が黙った。マチ子の声に責めるような色はない。

「祈りの手触りって、分かる?」

「どういうこと?」

「私はどんなに立派な教会に入ったとしてもね、はっきりとは分からないじゃない?どんなステンドグラスがはまって、どんなに美しい十字架にイエスが架けられているなんて。だから、人々が腰掛ける椅子とか読み古されたボロボロの聖書なんかを触って、時々賛美歌が遠くの方から聞こえてくるの。ほっぺたの横があったかいのを掠めたら、それは蝋燭だったんだと思うの。それから……英語なのかラテン語なのかで、誰かが祈ってるの。静かにずうっとね。それが静かに昇っていくのが分かるのよ。自分も静かにしていれば……それが、祈りの手触りなの」

私はぼんやりとした橙色を思い浮かべた。柱のように太い蝋燭の列。その中を、雨でコートを重くした人たちが巡って椅子に腰掛ける。白い髭の先にも雨粒がのっている。それから聖書が何ページか、気まぐれにめくられていく。思い思いの祈りが続いて、それは次第に古典音楽のような重なりを見せていくのだ。

「……私も、目を閉じれば分かるのかしら」

「うふふ、そうかもよ」

「でも、やっぱりそんな風には思えないかもしれないわ」

「どうして?」

マチ子は微笑みを含んで聞き返す。私だって、「どうして」って思うわ。

喉元まで出かける言葉を飲み込んで、おどけてみせる。

「私はそこまで繊細じゃないから」

そんなこと、とマチ子は声を上げて笑う。薄いiPhoneを通してもその笑い声はよく響いてきた。異国の昼間と日本の夜が張る帳を超えて。

私は少し力を入れて自分の耳に押し当てる。冷たい廊下の向こうから、微かに足音がしたような気がする。

「ねぇ、次の長期休みの時は一緒に何処か行こうよ」

私は静かに頭を沈めた。

「うん」

はっきりと足音が聞こえてきた。

「そろそろ切るね……明日早いから」

「うん、ありがとう」

マチ子に気づいた気配はなかった。私は安心してiPhoneの電源を落とした。

それと同時に巡視の看護師が病室の扉を開けた。マチ子と電話するために点けた枕元の電気スタンドの灯りが向けられる視線を遮らなかった。

「もう寝ないとだめじゃない」

すっかり顔馴染みになった看護師が唇を尖らせる。

「本を読んでたんです。もう寝ますよ」

看護師がそっと視線を私の手元に目をやった。そして少しきつい顔になった。

「本は持ってないようだけど」

「電子書籍なんですよ。紙の本は重いでしょう?」

私の嘘は滑らかに出てきた。

看護師は呆れたのか、諦めたのかそれ以上は何も言わなかった。

「眠れないのは分かるけど、なるべく早く寝なさいね」

「はい」

私は目を閉じて見せた。扉は静かに閉められて、乾いた足音だけが遠ざかって行った。

私はすっかり軽くなった頭をかいて、暗い窓の外を目を開けて眺めた。

マチ子がアイルランドから帰国してくるのは、まだ2週間も先のことだった。



2.

雑踏の中でも、あの足音をきっちりと聴き分けることができる。私には自信があった。誰かの肩が触れる。物も言わずにその主は何処かへ立ち去っていく。

私は時差ボケの残る息を吐く。朝の匂いがする。冬の乾いた空気は空港の中にいても分かるのだ。

手すりと足裏に感じる点字ブロックの感触、頭に思い描いた地図を辿って、私は到着ロビーに出た。

あの子は飛びついてくるように声をかけてくれるはずだ。その前に聞こえてくる、あの足音。

私はいつも以上に耳を研ぎ澄ませる。

一向に聞こえてこない。私は少し焦った。淡い光の方に顔を向ける。ぼんやりとした輪郭ばかりが無数に通り過ぎていく。誰も立ち止まってこちらに駆け寄ってくる陰はなかった。

腕時計を触って時間を確かめる。教えた時間はとっくに過ぎている。私はひたすら待った。静かに足音を待った。

でもあの足音は遂にやっては来なかった。



「ごめんね、怒ってる?」

いつもより低いところから聞こえてくる声に、私は鼻の奥が微かに痛む。

「うん」

「ごめんね」

「そうじゃなくて……」

私は少し声を落とす。

「黙ってたからよ。病気だって」

結局帰国の日に会うことはできなかった。そのあとで、彼女が脳腫瘍で治療をしていることを知ったのだ。

私は立ったまま、ベッドに横たわっている彼女と向き合っていた。そっと手を伸ばしてみると、微かに冷たい指先が伸びて私の手首を捕まえる。

「ここ」

彼女は自分のでこに私の掌を置いた。それだけで疲れたのか、重い溜息を吐く。

軽くなった頭は奇妙なほど滑らかだった。

「髪を切ったから、もう誰か分からないでしょ」

彼女は軽く言った。

私はその意味を考えながら、首を振った。

「これは髪を切ったというよりも、剃ったって言った方が近いわね」

「どっちでもいいけど、分からなくなっちゃったでしょ」

「そんなことない」

私は彼女が疲れないように、祈りを込めて薄くなった頰を撫でた。私のぼんやりした視界の中で、随分と小さく細くなった輪郭がこちらを向いている。

「声とか匂いとか手触り……そういうのは変わらないから」

「そうなの?」

「そうだよ」

「ふうん」

私は手探りで椅子に座って、しばらく黙っていた。

聞きたいことは山のようにあるのに、いざ相手を前にすると何も言えなかった。

「もう、先は無いかもしれないの」

私の心を透かして見るように、彼女は呟いた。その声があまりにも無感動で、抑揚の欠けた調子だったのに私は驚いた。


もしも目が見えていたのなら。


私は初めてそんな風に思った。目の奥にある心まで、抱きしめてやれるのだろうか。

私はそっと彼女の頭を撫でた。そこから頰へ降りていって、肩に手を置いた。幾分滑らかな頭皮と、薄い張りのない皮膚と、骨の感触に私は心を痛めた。

「どうしてマチ子が傷つくのよ」

彼女が笑って言った。

「え?」

「傷ついたような顔してる」

「だって……」

「優しいのね、でもどうにもならないことだってあるじゃない?」

淡々と彼女は言った。

「それは分からないわ。神様は意地悪なのよ、死ぬ気でいる人間のことはそうすぐには連れて行かないかも」

彼女は少し黙って、私に聞いてきた。

「ねぇ、祈りの手触りの話しを聞かせてよ」

「え?」

唐突なものに私は少し躊躇った。アイルランドなんて、もう遠い何処かに置いて来てしまっていた。それでも今の彼女が望むのならと、私は静かに記憶を呼んだ。



マチ子は涙を堪えているようだった。私は不謹慎にも、彼女の目が見えなくて本当に良かったと思った。灰色の瞳は静かに澄んで、冬の空を映した海のようだった。

マチ子はアイルランドの教会を、静かに語っていく。私も目を閉じてそれを見ようとした。

冷たい石の壁。目の回るような、螺旋階段。重い扉の向こうは微かに温かい。人々の躊躇うような足音。頭を上げれば、神と視線が合うような気がする。色の落ちた古い聖書を繰る音。外国語の祈り。蝋燭の太い群れ。どこかで聖歌隊の練習する歌声が細く聞こえてくる。

その中を、たった独りで歩き回るマチ子。東洋人の若い女の子は目立つかもしれない。マチ子はまるで導かれるように教会の音を廻るのだ。淡い光と輪郭の中で、整然と並んだ椅子の背を触りながら……。

教会の音は次第に降り積もって、古典音楽のように聞こえてくる。それ全てが祈りの声であったのだ。


マチ子は話しを終えた後、私たちはしばらく黙っていた。異国の残り香を、私たちは逃さないようにしていたのだ。

「死ぬ前に、マチ子の感じたような祈り……っていうの?体験してみたいな」

マチ子は何か思いついたように、私の頭を撫でて病室の中を歩き回った。マチ子は躓くこともなく、前から知っていたように滑らかに歩く。

「何してるの?」

「ここにだって、小さな祈りがあるわ。ちょっと、消毒の匂いがきついけどね」

マチ子はちょっと揶揄うように微笑んだ。

「嫌だ、薬の匂いのする祈りなんて」

私はすかさず文句を言った。

「ふふふ」

天井を仰ぐ。

ものが二重に見えることは、マチ子には分からないままだろうと思った。もう文字すら気持ちが悪くなって書けないし、読めない。いつまでこんな風に自分を保っていられるのか分からない。手術はできるだけ早く、と告げられたまま検査ばかりしてなかなか行われないままだった。それはせめてもの慰めなのだろうか。見たこともない、私の白い脳味噌はメスで切り分けられたその時から自我を失って、私という人格すら奪っていくのかもしれない。

だから、医師も看護師も躊躇うのだ。

絶対に助けることができる。そんなことができるのは神様だけなのだから。彼らは神じゃない、人間なのだから。そして、私が命を託すのも結局は神ではなく同じ人間なのだ。

マチ子は再び椅子に座り直す。

「2人で、何処でもいいから行こうね」

「うん……」

マチ子は焦点の合わない瞳でこちらを見ようとしている。私もまた、正確にはマチ子を捉えられないままだった。それでも、視線が向き合う瞬間があるのだ。

ふと、マチ子の感じた祈りの感触はこんなものかもしれないと思った。

朧げで淡い光の輪郭。見ようとしても見ることのできないもの。だから人は指と膝を折って、埃を払うことも忘れて祈るのだ。

神様は随分と意地悪だ。

私そう思って、残り短い自分の一生とマチ子の人生を思った。ただの友達なのに、重いだろうか。

私は涙で盛り上がる視界の中で、マチ子を見つめた。輪郭がぼやけて二重に三重に見える。目を開けていると酔いそうだった。それなのに、マチ子の瞳の色だけは不思議と鮮明に見えてくる。

美しい灰色だった。冬の空を映した海のように、騒ぐことなく凪いでいる。

マチ子の光だって、脳腫瘍で奪われたのだ。それでもマチ子は生きている。私はどうなるのか、分からない。

この世は修羅だ。生きたい、生き続けたいと思うほどに囚われる。蜘蛛の巣に迷い込んだ微細な虫みたいに、もがくことしかできやしない。

それなのに、多くの人々は日々を祈るのだ。

「神様は、本当に意地悪なのね」

マチ子も頷いた。

「そうでなければ、人は祈らないからかもしれないわ。皮肉だけれど、よくできてるのよ……」

「私は死ぬと思う?」

「私だっていつかは死ぬもの。あなただけじゃなく……」

マチ子は私の耳元に口を寄せて呟いた。

「そうね」

私は頷いて目を閉じた。マチ子は見えなくなった。それ以上目を開けていることができなくて、マチ子のことは2度とみなかった。



3.

2月のアイルランドは雪よりも雨を降らせる。どうしてこんなに寒いのに、水滴は凍らずにそのまま落ちてくるのだろう。

1年前にホームステイをした家族とはずっとエアメールのやり取りを続けていた。また会いたいから来いと、彼らは誘ってくれた。大学の長期休暇を利用して、私はまた彼の国に降り立ったのだ。

私は道行く人を捕まえて、ここから1番近い教会は何処かと尋ねた。教えてもらった通りに歩いて、重い扉を開ける。

温かな群れは、多分蝋燭だ。私は彼女に語った祈りの手触りがやって来るのを待った。整然と並んだ長椅子の隅に腰掛けて、20時間ものフライトの疲れを今更感じる。冷たい木の感触が尻を打つ。

隣に誰か座ったようだ。

私は静かに目を開いた。ぼんやりとした、淡い光の輪郭。

私の目が見えていれば、もっと彼女の顔を見ながら慰めてあげることはできたのだろうか。

手術は行われたものの、彼女が帰ってくることはなかった。まだ見たこともない、繊細な脳味噌。絹豆腐のように柔らかなそれは、呆気なく彼女とその命すら奪っていったのだ。

私はかろうじて、光と命を引き換えにしたに過ぎない。それすらも、慈悲ではなく罰であるのかもしれなかった。


神は意地悪で、残酷だ。

そればかりか、自分を愛さない民は平気で滅ぼし地獄へ堕とす。

たとえ自らの子であっても、磔刑にかけられる時ですら黙ったままなのだ。


祈りの声が、細く聞こえてくる。聖歌隊の練習にはまだ早いのか、歌声は聞こえてこない。その代わり、パイプオルガンの音が聞こえてくる。その旋律が聞いているうちに、パッヘルベルのカノンであることに気がつく。

私は目を開いた。相変わらずあたりはぼんやりとしか見えない。ふと隣を見ると、不思議と懐かしいような人がいた。私とそう歳の変わらない若い女の子だった。それと分かるほど、奇妙なほど鮮明に美しく輪郭が見える。

彼女だと思った。

役に立たないはずの私の瞳が、光の描く輪郭を捉えたのだ。次第に小さかった感動がさざ波のように連なって大きくなってくる。私は静かに指を伸ばして、彼女の頰に手を触れた。

祈りの手触りがする。

「神様だって、優しいところもあるじゃない……」

私は国も場所も、時間すら忘れて彼女に言った。彼女は黙ったままで、唇を開くことはなかった。それでも、私の言葉には黙って、頷いた。

私は我を忘れて、そこにずっと座っていた。彼女と見つめ合いながら……もう泣かないと決めていたのに、泣いてしまった。


黙って頷いたその瞳があんまり優しくて、泣いてしまった。

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祈りの手触り 三津凛 @mitsurin12

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