顔のない男

@teamnishinomori

顔のない男

気付けば真夜中の2時を過ぎていた。


自宅のリビングテーブルにて私はノートパソコンで仕事をしていた。


聞こえるのはキーボードを叩く音と、時計の秒針が刻む音のみ。


まるで辺り一面が無機質な膜に覆われ、あらゆる外界と断絶されているかのように、リビングはそこにふわふわとただ佇んでいた。


対して仕事に熱中していたわけではない。特に面白くも何ともない仕事だった。


その些細で粗雑な仕事内容が、よりいっそうその場の空気の熱を奪い、機械的な空間に仕上げていたのだ。


ふと時計を振り返ると、2時過ぎ。


思ってた以上に、時間が経過したことに驚いた私は、換気扇の下でタバコに火をつけた。


灰色の煙が換気扇に導かれ、一筋の小さな気流を巻き起こしている。


普段気にもしないことが、妙に目につき、その光景はひどく私の胸に不安の影を落とした。


今夜はこの辺で仕事をやめよう。私はきりのいいところで、ノートパソコンの電源をオフにしようとした。


その時だった。


どこからともなく呼吸音のような音が聞こえる。


ヒュウヒュウ。


ヒュウヒュウ。


この家には私以外誰もいない。私以外の呼吸音などありえるはずがない。


それでもその「ヒュウヒュウ」という音は確かに聞こえる。


私は耳を澄ました。この音は、もしかしたら自分の呼吸音かもしれない。


だがそのヒュウヒュウという音は私の呼吸音ではなかった。


私の呼吸音は規則的だったし、ヒュウヒュウという音ではない。


私は改めて意識をその「ヒュウヒュウ」という音に向けた。


やはり聞こえる。


厳密に言えば鼓膜に響いている感じに近い。


そう。この音は脳の奥に直接響いているようだ。


私は自信をもった。この音は聞こえているわけではない。私は今、空気の振動を直に感じているのだ。


この現実で空気の振動を直に感じれるとは、なんという幸運だろう。


私は滅多に経験することができない現象を今体感している。私の鼓動のスピードが若干上がったようだった。


私はゆっくりとテーブルの向かい側を見つめた。


すると私の目の前には「顔のない男」が座っていた。


といっても、首から上が存在しないという意味ではない。顔は間違いなく首と繋がっている。


それは主張せず、それでいて、堂々と首の上にあった。


私はその男の顔を眺めた。


だが、なぜかピントがずれたレンズ越しのようにぼやけてしまう。


この男に顔はある。


だが認識できない。


そうしてその男は顔をなくした。


顔のない男は唐突に言った。「僕は愛を知らないのです」


その声には一切の抑揚がなかった。まるで膨大な資料の中から一文を選び、記録係が業務の一環として読み上げた、そんな風に聞こえた。


「僕は愛というものが一体何なのか分からないのです。答えがあるなら教えてくれませんか?」


私の反応を気にすることもなく、顔のない男は続けて言った。


私は彼が言いたいことを推測し、できる限り丁寧に答えようと努めた。顔のない男は私に何かを期待している。


その期待にはできる限り応えなければいけない。


「答えはないし形もない。だからそれを明確に定義することはできない」


これは本心だった。私にこれ以上の何が言えるだろうか?ある意味では、私の中では「愛」の答えは、この瞬間までこの一言に集約されていたのだ。


私は顔のない男の期待に応えることができただろうか?


彼の顔色をうかがおうと私は表情をじっと見つめたが、やはり、彼には顔がなく、その表情に隠された意図を読み取ることはできなかった。


「人間は愛を尊びます。それは答えを知っているからなのでしょう」


その時、男は瞬きを一度もしていなかった。その目は何の感情も含まず、ただ見開いているようだった。


どうやら私の答えは気に入らなかったらしい。それはひどく私を落胆させたが、まだ私にも言えることはある。


私は言った。「答えを知っているから大事にしているわけじゃない。漠然としたものや理由がないものにも人の心は反応する。それは理屈じゃないんだ」


顔のない男はふと笑みを浮かべたように見えた。だが実際は無表情だった。


この時、私の脳内では、くっきりと色鮮やかに「文章」が浮かび上がっていた。


「笑みにも似た無表情」


「音の無い音楽」


相反するこれらの文章は、やがて私から余裕を奪っていった。誰が考えたのか、何の意図があるかも分からない矛盾したこの2文によって、私は日常の平穏がかりそめだったことに、うっすらと気付いた。


私の日常は平穏ではなく、危険なものだったのだ。


「平穏な毎日」と名付けられた絵画の下には、もう一枚の絵が描かれていた。この絵は普段は目にすることがない絵だ。今、私は自分の手で上書きされた絵を引きはがしている。


真っ白な絵の具にほんの少しでも黒を落とせば、その白は永遠に純粋性を失う。


つまり私は今それを目の当たりにしている最中なのだ。


顔のない男が笑みを浮かべたように見えたのは、きっと必然だったのだろう。


「心、ですか。つまり愛を知らない僕には心がない、そうとも言えるわけですね?」


「心がない人間など存在しない」私は断言した。人生においてここまで断言したことは私は一度もない。私には自信があったのだ。人間には必ず心がある。


このコミュニケーションを通じて、私は今まで知らなかった私と出会うことになった。


夢ではなく、れっきとしたこの現実で。私は今まで「心」という漠然としたものについて考えたことはなかった。


あるべきもの。なくてはいけないもの。道理。


私は自分が発した言葉に、感動すら覚えた。こんな自分がいたとはそれまで知らなかった。


それはまぎれもなく美しい感傷だった。危険な日常を察知した私にとって、顔の無い男との対話は、居心地が良いものだった。


だが、そうした私の自信は一瞬たりとも具現化しなかった。


沸騰した水のように、私の自身は目の前で蒸発した。


私が断言したことに顔のない男は一切の反応を示していない。興味すら感じていない。


世界中の人間が一瞬で消えてしまったような絶対的な孤独を私は感じた。


「心があるから人は人でいられる」


私は続けざまに言った。慰めにも似た気持ちだった。この男を目の前にしていると、私は私ではなくなってしまう。私は奪われてしまう。


一瞬前の美しい感傷は単なる不安となり、胸の奥でじわりと広がっていく。


自分に言い聞かせるように私は言うしかなかった。


顔のない男は微動だにせず、やはり抑揚のない声で言った。


「本当にそうでしょうか?その言葉はよくある定説を鵜呑みにしているように僕には聞こえます。その証拠にあなたの声は震えている。まるで怖い夢から覚めた子供のようだ」


そうだ。そのとおりだ。私は恐い夢から覚めた時のあの感じ、まさにあの感じを今体感している。


現実と分かっていても、終わっていない悪夢。


どこまでも追ってきそうな悪夢。


残りかすでしかないと分かっていても恐怖は不安を煽る。それによって生き続ける。


ついさっきまで私は顔のない男と対等でいたはずだった。それがいつの間にか私は劣勢になり、危機に瀕している。


なぜこんなことになったのだろう?いつから私の劣勢は始まっていたのだろう?


腋から一滴の汗が腰まで直線的に垂れていくのを感じた。それは冷たくひどく粘着質だった。


だが私はここで心を折るわけにはいかない。私には人生があり、豊かでいたいという願いがある。顔のない男に惑わされるわけにはいかない。


「心がなければ、愛がなければ、それは機械だ。人間とは言えない」


私はじりじりと後退している自分を感じながらも、必死で声を発した。


「あなたはなぜ僕に怯えているのですか?愛を知らない。心がどこにあるかも分からない。でも僕はれっきとした人間です」


その響きには憐れみも蔑みも、温度も雰囲気もなかった。この男は本当に愛を知らない。私の直観がそう告げた。


その時、ふと私の心が軽くなったように感じた。顔のない男は率直で誠実な男だったのだ。


彼は充分すぎるくらい他人を考慮している。ただ彼は愛を知らないだけなのだ。


「君が言っていることは真実なんだろう。君は確かに愛を知らないようだ」


「そのとおりです。だから教えてほしいのです」


私は熟考した。おそらくこれも人生初といえるほどの高濃度の思考だ。愛を知らないという顔のない男に私は何か教えることができるだろうか?


どうやら私は迷路に迷い込んだらしい。真っ暗で先は見えない迷路。それでいて不思議と恐ろしさは感じない。


きっと顔のない男は優しい男なのだろう。


私も彼を見習い、率直に、誠実になろうと決めた。


「私には教えることはできない」


「なぜですか?」


「さっきも言ったが愛に定義はないからだ」


「ならばなぜ人は愛を尊ぶのですか?定義できないものをどうして信じられるのですか?」


「定義の問題じゃない。理解も必要ない。この世界に愛はある。それが事実だ」


「あなたにはある、と?」


この時だ。


この時、私は自分が切り立った崖に立っていることに気付いたのだ。


「…ある、と思う」


「曖昧な物言いですね。断言しないのは適切です。なにせあなたが立っているのは崖」


そう言いながら顔のない男は、私を見つめた。


顔のない男の視線は、私の瞳と直線的に交錯した


そうして、また脳内に文章が浮かぶ。


微風ですら凶器になる。


ここは切り立った崖なのだ。微風でも私は崖から落ちてしまう。崖において風は命に関わるほど重要な問題となる。


「君はもしかして私が答えられないのを知ってて私に質問してるんじゃないか?」


私は初めて、顔のない男に怒りをあらわにした。この男は私に一体何をさせたいのだろうか?


私に何かしらの判決でも下すつもりなのか?冗談ではない。


どんな些細な内容であれ、私はリビングで仕事をしていただけだ。


顔のない男に、私を流刑に処すような権限はない。


「おっしゃるとおりです。あなたには答えられない」


なぜかこの言葉には軽い抑揚めいたものを感じた。


僕は決してあなたを責めているわけではありませんよ。そういった意図を込めている、いや、そうではない。受け取る私がそう感じるような言い方を彼はしたのだ。


「君は私に何を求めているんだ?」


「あなたは愛が何であるか、感覚的に知っているかもしれない。でも答えられない。僕はあなたに知ってほしいのです。あなたが立っている場所を」


私は今崖に立っている。確かにそうだった。ほんの少しバランスを崩しただけで私は落ちて死ぬ。いつからここに立っていたのだろうか。この男と会った時からか?


いや、違う。きっと私は生まれた時からここに立っている。ただ気付かなかっただけだ。


「今気付いたよ。私はずっとここに立っている」


「くれぐれも忘れないでください。やさしいそよ風ですらあなたを殺します。でもそこに立っていることは決して理不尽でも不幸でもありません」


私はその時、はっきりと分かった。


それが愛だ。


男は立ち上がり、空気中の何かを見据えたまま、言葉なく私の前から姿を消した。まるで蜃気楼に溶け込んでいくように。


最後の瞬間、顔のない男は確かに笑っていた。


私は空を見た。太陽は高い場所で地球を照らしていた。


それに応えるかのように大地がゆっくりと回っているのを私は体感した。


理屈ではなく、そう感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

顔のない男 @teamnishinomori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る