第3話 Mix the paint

  店内は木目のテーブルが美しく、必要以上の機械が存在しない空間だった。タブレットどころか、呼び出しボタンも存在しない。電波時計と空調がせいぜいの店内には、上から下までさまざまな階級のものが談笑していた。多くは年若のカップルだ。

  「探せばあるんです、階級不問のお店。ここは裏通りにあって人目につきにくいので、逢引で使われているみたいですね」

  席をすすめられ、葛飾はソファ席に腰を下ろす。当然のように値段が書かれていないメニューを渡され、むっとしながらも紅茶を注文した。

  「それで、どうしたの、いきなり見ず知らずの人間誘って」

 ティーカップに口をつけながら問うと、少女は曖昧に微笑む。

  「お話が、したくて」

  「なんの?」

  「美術です。ほかにもできたら進路選択を」

  思いもよらなかった単語に、葛飾は言葉を失った。


  葛飾がまだ子供だった頃の話だ。国立大学の人文学部縮小が叫ばれ、私立大学もそれに追随した。理文高低の傾向は高まり、法学、語学、経済学以外はほとんど募集定員がない状態となった。

  美術はその教育改革のなかで、最も悲惨な目に遭った。旧来の美大と芸大を片手で数えるほどお目こぼしされ、そこにわずかな学科を残すのみとなった。他は伝統工芸を学ぶ専門大学、あるいは専門学校、職業訓練校へと姿を変えた。さらに受難は続く。一握りの芸術家、職人。加えて芸能人。これらの職業以外、芸術関係の学卒者は就職がほぼ不可能となった。それ以外の文系も、就職に直結する、社会が必要とする学問以外を選んだ結果、研究者となれなかったり、公務員になれなかったものは正規職員として働くことがコネ以外では難しい。中高年の転職希望者は就職の枠組みから弾かれる。

 すべて自己責任として一蹴され、高すぎる出国税に外へ逃亡することもできない。

  専門職に就こうにも、技術面で敗れることはざらにある。セーフティーネットだったルーティンワークや簡単な業務は機械に仕事を奪われて久しい。頭脳職もAIが進出しつつあり、給料も満足にもらえない人間が多い。こんな余裕がない社会で、グラフィティを除くと美術に触れる人間はほとんどいない。

  「……そんな、金持ちの特権の話されても、ついていけないよ」

  断ち切るように返すと、またにこやかな笑顔が自身をみつめていた。

  「賭博場で、私のことを画家みたいな名前っておっしゃってましたよね?実際、19世紀の女性画家、ベルト・モリゾにヒントを得た偽名です。特に『マンドリンを弾くジュリー』が一番好きです」

  黙っていると、さらに彼女は嬉しそうにしている。

  「葛飾さんも、その名前が仮の名前であるなら、葛飾北斎からですか」

  「違う」

  気づいたときには言葉が口をついて出ていた。

  「あたしの本名、下の名前は栄子。葛飾北斎の娘の、応為の絵が好きでね。応為は号で、名前が栄だったみたいだから、偽名はそこから拝借したの。一番すきなのは『夜桜美人図』で――」

 きらきらとした目に見つめられて、葛飾ははっとした。もう何年も口を開いていない分野の話を向けられ、おしゃべりが過ぎたのだ。

  「すごい!葛飾さんの時代って、本当に自由に学べたんですね!」

  13歳にて歪みを認識している少女の言葉に、ずきりとした。

  「……あー、まあね。大学は美術史専攻。院にも進学したよ。一応学芸員と美術の教員免許もある。ぎりぎりあたしの世代が最後なんじゃないかな、格差はまだゆるくて、どんな分野を選んでもそんなに文句いわれなかったの」

 すでに遠くなった日々。美術や文芸、音楽に哲学。将来どうなるかわからないという理由で、積極的にすすめられることのない進路はあった。それでも、自分で責任が持てるのならそれ以外にうるさいことは言われなかった。

  「――失礼ですが、そちらのお仕事には」

  「あーだめだめ。あたしが学生のときから、美術教師は県で1人の募集がかかればいいほうだった。倍率はウン十倍。学芸員は任期制がほとんどで、全国行脚してもあんまり求人はなかったな。金持ち以外くるんじゃねえっていう空気はあったと思うよ。実際問題売れない画家をするよりは収入はあるけど、食っていくにはしんどいし。でもまさか、貴族階級・経営者階級以外お断りの学問になるとは思わなかったけど。確かもうちょっとで、小学校からのカリキュラムからも消えるんだっけ」

  「はい。なにかをかくのは理科のスケッチくらいになります」

  「ついにボタニカルアートしかなくなるか」

  冷めた紅茶を飲む。彼女はこんな暗い話をするためにお茶に誘ったわけではないだろう。

  「それで、進路の相談?役に立つかはわからないけどのろうか。お茶代分くらいは働くよ」

  紅茶なんて嗜好品、飲んだのは久しぶりだったのだ。

  明るめの調子で言うと、彼女は1冊の本を取り出した。

  紙の本。電子書籍が一般化したなか、どれだけ人気がなかったタイトルでも、定価の10倍程度で取引されていることがざらである。やはり金持ちの子供だと、葛飾は嘆息した。

  「私は、この道に進みたいんです」

 ブックカバーという遺物を外された表紙に、葛飾は冗談抜きで紅茶を吹き出した。

  「も、申し訳ありません、冷めた紅茶に気づかず……風味が落ちますものね?替わりの紅茶を注文します」

  私が味のひどさに驚いて吐き出したとでも思ったか。問題はそこじゃない。突っ込む前に二杯目のお茶を注文されたので、ひとまずは布巾で溢したものを片付ける。

  「いや、違う。紅茶は普通に冷めてもおいしい。思ってもみなかった分野の本出されたから、驚いただけ」

  「そう、ですか?」

  「そうですか、じゃないよ。社会学の文献だよ?」

 まわりには、誰がいるかわからない。だから葛飾は少女のほうに顔を近づける。

  「それ、早くしまいな。階級社会に関する文献、社会学の研究者でさえ所持は国家転覆狙いでしょっぴかれる危険もあるのに」

  小声で脅すと、残念そうに本をしまいこんだ。

  「そんなの、どこで手にいれた」

  電子版化もなく、古書でも販売はない。目をつけられることを恐れ、再版の目処すらたたない社会学の文献は山ほどある。苦難に耐えながら研究を続ける学者にとって、喉から手が出るほど欲しい代物。

  「……実家が商売をしておりまして」

  「なるほど、生活に困ったパンピーから本や音楽ソフトみたいな形あるものを買い叩いて、寝かして売ったりする商売か。在庫保存のところに出入りできるなら持ってこれるな」

  社長令嬢であれば、売り物の場所に出入りしても咎められはしまい。オーナー企業が大半になった世の中、年の差より生まれの差はより露骨になった。

  「はい。倉庫で本を読むうちに、私はこの学問に興味を持ったのです。今の時代、ハイパーメリトクラシーが究極的に具現化したとは言えませんか?」

  懐かしい響きだ。

  「ハイパーメリトクラシー、日本語に訳すと超業績主義。森園すずと、つまり君は、能力を身につけた人間が必要とされ、そうでない人間が切り捨てられ、餓死者も珍しくないこの国が、能力で人を過度にはかる社会となっている、そう言いたい?」

  「はい、そうです」

  「それだったらハイパーメリトクラシーじゃなくメリトクラシーが進んだっていうべきかな。メリトクラシーは学歴や能力を重視して人を採用する。ハイパーメリトクラシーは、コミュニケーション能力や、問題解決能力みたいに、旧来の学歴にあらわれない部分で人をはかる。よって、この国はメリトクラシーに回帰したと言える」

  「でしたら、能力はあるのに教育の機会を与えられない、もしくは独学で同じかそれ以上の能力を持っても階級で判断されるというものは、能力で人をはかるメリトクラシーになっていると、いえますか?」


  葛飾の答えは、否、だ。

  能力主義をうたっておきながら、能力獲得の手段は制限されている。

 いわば格差の再生産。上流階級や、半ば世襲と化した専門職にとっては出来レースなのだ。

  「私はこんなの、おかしいと思う。私は、みんながまんべんなく学んで、将来的に役立つものもそうでないものも身分や貧富に関係なく学んで。そこから好きとか嫌いとか言って、選ぶ社会が健全だと思います」

  「……それ、実現したらあんたの地位はなくなるよ」

  「私の地位がなんだというのですか。天は人のうえに人をつくらず、です」

  苦笑するしかない。若さとは恐ろしい。夢を見て、なにかを変えられると本気で思って、しかるべき手順をとれば本当に実現させてしまう。

  「その熱意が続けば末は学者か」

  「それも心が揺れますが、社会科の教員も捨てがたいですね」

 まったく、身分にふさわしくない言動ばかり見せてくれる10代もいたものだ。

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