最終章:凡人
中学時代、和泉翼は学年で最も優秀な生徒だった。
勉強、運動、どちらも秀でていたし、特に勉強の方は中学校と言う狭い世界の中でだが他の追随を許さなかった。彼女が勉学の方に重きを置いたのは、それゆえである。運動は専門職の人間には勝てない。だから勉強のスペシャリストになる。
実際に彼女は頂点に立った。
そういう振舞いに角が立ち、孤立したこともあったが、自分の優秀さに惹かれたのか葛城善と言う友人も出来た。あの時代、たった一人の友人にて――
自分の優秀さを認めてくれる人。
知人や表面上の付き合いはいくらでもあったが、放課後まで一緒にいたのは彼一人であった。自分を持ち上げてくれる相手、一緒にいて心地よかった。
そんな人、周囲には誰もいなかったから。
芸術家である父は言った。
『お前は凡人だ。だから好きに生きることが出来る』
学者である母が言った。
『無理をしなくていいの。好きじゃなきゃ続かないものよ、何事も』
幾度百点の答案を見せても、彼らの目が変わることはなかった。
其処には才能を持たぬ凡人の娘しか、いなかった。
自分が歪んでいる自覚はある。
大人になった今、心底そんな自分が嫌いなのだ。
でもあの頃は、まだそこまで理解できていなくて――
『葛城は馬鹿だなぁ』
そうやって優越感に浸っていた。
ある日、他クラスの女子の視線を見出した。背がひょろっと高く、髪は伸び放題で目も見えないような少女。おばけ女などと言われている噂も聞いた。
何度も視線が合う。その理由はすぐに理解できた。
隣にいる彼を見ているのだ。
『…………』
その時、和泉翼は唯一の彼を奪われると思った。だから、あえてその視線の間に立った。彼と彼女の、九鬼巴の視線が重ならないように。
恨まれているのは理解できた。それでも彼女の中では自分のものである彼に手を伸ばす行為自体が許せなくて、ほんの一欠けらの可能性も与えなかった。
彼は相変わらず締まりのない顔でのほほんとしていたが。
でも、その彼が自分を追いかけ、背中に触れるところまで近づかれた。模試の結果に喜ぶ彼を直視できなかったのを覚えている。学校が異なっても時間を作って会ってあげよう、と思っていたのに。追いつかれ、肩を並べられる。
同じ地平に、彼が立つ。
根本的に自分に自信がないから、その時彼女はこう思った。並んだら、一緒にいる理由がなくなる、と。彼が次の目標を見つけてしまう、と。
だから、彼が受験に落ちた時は少し、喜んでしまった。
これで、格付けは明確になった。学校が離れても、これで一緒にいることが出来る。今思えば本当に歪んだ考え。異常者であろう。
最初の定期テスト、これで一番でも取ったら話のネタにして、また会いに行ってあげよう。学校のルールで部活に所属せねばならぬ以上、面白そうな部活に入ってそれも話のネタにしよう。自分が優秀に見えるようなネタを作って――
しかし、その全てを彼女が阻んだ。
部活はほとんどが素人スタートだと言われている薙刀部に入った。実際に体験入部では誰よりも筋が良く、皆に褒められた。すぐさま入部を決めた。
これで彼にいい話が出来る、と。
だが――
『今日から練習に参加する九鬼巴さんです。おうちが道場なので練習参加は限られますが、これからは私たちの仲間として試合に臨んで頂きます』
九鬼巴と言うスペシャルが全てを破壊した。
先輩たちが触れることすら出来ず、赤子の手をひねるようにやられていく。髪をかき上げ、防具をまとい、構えた彼女の眼光の鋭さたるや――
彼女とでは練習にならない。自分たちにとっても、当然彼女にとっても。
『筋がいいですね、和泉、ちゃん』
『あ、あ、ありが、とう』
一生かかっても届かない、絶対的な壁。天才と凡人の境界線にすら自分は立っていなかった。めまいがするほどの距離。
『道場、来ませんか? 和泉ちゃんならきっとうまくなりますよ。一緒に部活を盛り立てていきましょう。みんなの、ために』
それなのに彼女は自分を逃がす気はなかった。
三年間、徹底的に見せつけるつもりだったのだ。ここに彼が、葛城善がいないから、彼女もまた容赦なく寄り添い、自分の持っていたちっぽけなプライドを、葛城善を縛り付けようとしたモノを、破壊しつくす。
そして、勉強でも――
『すごい、九鬼さん。クラス一位おめでとう』
『ありがとう。たまたまですよ』
県下トップの進学校、その厚みが和泉翼を打ち壊す。全員が各学校のトップクラス、その集団ともなれば上位の成績など努力で取れるものではない。そういうテストでは優劣がつかないから、彼らが優劣をつけられる問題しか出ない。
結果、和泉翼はクラスで四番目。学年では二十八位。
精一杯努力して、そこ止まり。そこには分厚い壁があった。
凡人と天才を分ける境界線が。
そして九鬼巴は、中学時代爪を見せることのなかった彼女は、和泉翼への敵愾心だけであっさりと彼女の努力を捲り、天才集団に食い込んだ。
『秘訣は集中力です』
理解及ばぬ天才の視界。まざまざと見せつけられる、凡人の自分。
葛城善に連絡することが出来なくなった。自分が凡人であることが、優秀ではないことがバレてしまうから。だから、動けずに時が進み――
彼が行方不明になった。
原因はいじめだと聞いた。家族にも誰にも相談しなかった、出来なかったらしい。何度か勉強会と称して遊びに行った時、お会いしていた母親も憔悴しきっており、消えぬほど泣きはらした後が刻まれていた。後悔した。
その後、彼を探すビラ巻きなどを手伝った。テストや大会の合間に、出来る限り。しかし、ある日これ以上は大丈夫、と言われた。
距離を置いて、部活と勉強に勤しんだ。部活でも勉強でも彼女の下、そこが自分の定位置。とっくの昔に優秀な自分など存在しない。
彼女が薙刀で大学を選んでくれたから、別の大学に行くことが出来た。日本最高学府、子供の頃の夢である母親と同じ職業に就く。
そのために学部を選び、努力して入学した。
だが、そこでも壁があって、絶対に届かないことを、知る。好きなことをして生きる、そのハードルの高さを知って、完全に折れた。
つぶしの利く初等の教職課程を選択し、そこからは凡人街道まっしぐら。
ある意味で彼女は優しかったのだ。九鬼巴がいなければ、もしかしたら自分は勘違いしたままだったかもしれない。諦めずにしがみ付き、社会に出て取り返しがつかなくなってから気づいて、後戻りできぬ状況になっていた可能性もあった。
そうならなかったのは彼女のおかげ。
今、隣にいる九鬼巴のおかげである。
「大学で薙刀、続けなかったんですね」
「あはは、自分の凡人っぷりは十分理解できたよ」
「筋が良かったのに、残念です」
互いに酒を飲めるようになった。あっという間に、そんな時間が過ぎた。
「九鬼さん、武者修行の旅に出てたって本当?」
「あ、それ気になってた。一時期あったもんね、神隠しにあったんじゃないかって。ほら、九鬼ちゃん有名人だったし。薙刀姫だもんね」
九鬼巴はいつもの笑顔を浮かべていた。それを見て和泉翼は苦笑する。この笑顔は壁なのだ。お前たちなど絶対に通さないという絶壁。
「ええ。おばあさまにうぬぼれぬよう世界中の達人に会ってくるように、と命じられまして。元々モデルのお仕事は薙刀協会の方から頼まれていただけですし、私の性分はどこまでいっても武人ですので」
「うわー、超かっこいいー」
「ほんと武士って感じ!」
「ちょっと男子鼻の下伸ばし過ぎー。バレバレだよー」
彼女が本当に心を開くとすれば、それは彼だけなのだろう。いや、敵愾心を持たれていた頃の自分には怒りだけは向けられていたが。
それとて今の自分に向けるほど安いものでもない。
「九鬼さん、好きな男子っているの?」
「俺とかどう?」
「釣り合わねえよ!」
「いますよ」
笑顔の奥が、かすかに、蠢いた。
彼女を知る和泉翼だけが感知できるほどわずかに。
「うっそー! え、それって同じ学校だったりする? それとも芸能人とか? この前アイドルと撮影あったらしいし――」
「同じ学校ですよ。同じ中学です」
場が騒然とする。もしかして自分にもチャンスが、とわずかな期待に胸躍る男性陣。逆に万が一を危惧する女性陣。
「え、何組? それだけ教えてよ!」
「このクラスですね」
盛り上がりが頂点に達する。誘った女子は顔面蒼白である。
「あー、ここまで来たら教えてください!」
男性陣の一人がマイクを向けるような所作で問う。
それに九鬼巴は笑顔で――
「葛城君、です」
そう、答えた。誰もがぽかんとする。それから、何とも言えぬ空気となった。彼らにとって葛城善は空気と呼んで差し支えない存在であった。特別仲が良い者がいるわけではなく、仲が悪い者がいるわけでもない。
いや、一人だけ――
「え、葛城ってさ。和泉ちゃんが仲良かった子でしょ」
山内の隣に座る女子がそうつぶやいた。そして視線が、和泉に集まる。
「そう言えばいっつも図書館にいたような」
「ああ、そんなこともあったっけ」
何とも言えぬ空気である。九鬼巴だけは変わらずに微笑んでいた。
「へー、じゃあ和泉ちゃんと九鬼ちゃんって恋敵だったんだー」
白々しく、女子はここぞとばかりに言葉を重ねる。
「やめろよ。ここにいないやつの話すんの。意味ねーよ」
「怒んないでよ、山内。ちょっとした冗談じゃん」
和泉翼の彼氏である山内の制止に女子も口ごもる。これ以上押し込むのは悪手だと判断したのだろう。実際、この話題は成人式でもタブー扱いだった。
行方不明、だけでもタブー扱いなのに、今は巷で噂の神隠しの可能性もある。そうなってくると気軽に触れていい話題ではなくなる。
「ま、まあまあ、とりあえず気を取り直して――」
別の男子が場を取り持とうと仕切り直そうとするが――
「葛城君の話題は嫌ですか? 山内君」
九鬼巴が、その流れを断ち切る。
「嫌とかじゃなくて、いないやつの話題は――」
「そんなつれないこと言わないでくださいよ。お二人のキューピットじゃないですか、葛城君は。私、その話をするために来たんですよぉ」
全員の視線が九鬼と山内の間を行き来する。
「な、何の話だよ!」
「あれ、伝わりませんでしたか? 貴方が虐めた葛城君のお話じゃないですかァ。誰も知らないと思っていました? 学校が違うから? 甘いですねェ」
そして、全員が絶句する。
誰よりも――
「え?」
和泉翼が、言葉を、失う。
「葛城君を虐めた貴方が、葛城君のご両親に友達だと偽って、大好きな和泉ちゃんと一緒にビラを撒いていたの、本当に許し難い光景でした。ビラ撒きを通して仲を深めて、付き合って、くく、怒りを通り越して呆れ果ててましたよォ」
和泉翼は、縋るように山内の眼を見た。そんなはずはない。いくら何でもそんなふざけた話があろうはずがない。それではあまりにも――
「楽しかったですか? 中学時代から好きだった人と結ばれるの。楽しかったでしょうね、私がその立場だったら有頂天になりますから。学校が不祥事を恐れて貴方たちの名前を公表しなかったこと、ほっとしました? 葛城君のご両親があえて名前を聞かずに、それで場を収めたこと、どう思いました?」
「黙れよ! 俺だって――」
掴みかかろうとした山内を最小限の動きで極め、地に伏せさせる九鬼の眼は冷たい怒りに満ち溢れていた。ずっとため込んでいたもの。
「俺だって? お笑いですね。この期に及んで言い訳ですか。何も知らないクズ同士、お似合いだと思っていましたが、さすがに限界です」
「……テメエには、関係ねえじゃないか」
山内の言葉に九鬼は貌を歪める。
「ええ、その通りですね。だから、今日まで黙っていた。元凶である貴方を裁くのは、私ではなく彼の権利だと思ったから。でも、彼はそうしない。彼にとってもう、始まりはどうでもいいんです。あの時、手を伸ばしたことだけを、後悔している。彼は貴方を裁かない。それを知ったから、私が代わりに裁きます」
九鬼はわずかに力を込める。泣き出しそうな顔で――
「私怨で申し訳ありません。でも、許せるわけがない」
山内と和泉、二人を睨む。
「貴方が、貴方たちがいなければ、葛城君は、葛城君でいられ――」
しんと静まり返る居酒屋。喧騒渦巻く繁華街の音量が、上がる。
中には絶叫すら、混じっていた。
「……お、俺、表見てくるわ」
この場の空気に耐えかねた数名が居酒屋の外に出る。
残った者も顔を見合わせて――
「……でも、和泉ちゃんも愚かですが、貴方も愚かですね。それだけ手を汚してようやく手に入れた想いも、結局は偽物でしかない。凡人であることを突き付けられ、無意識に心が折れた和泉翼にとっての普通、普通の女子高生が持つであろう彼氏に選ばれただけ。そこには愛情なんて、微塵もありませんよ」
「……んなもん、知ってる」
「哀れ、ですね。皆、等しく、愚かです」
最後の一線を破壊して、九鬼巴は山内を解放する。『あの彼』に出会うまで、自分からは絶対に語るまいと思っていた真実。これを裁くような彼であれば、こんな想いを抱くこともなかったのに。彼もまた本物であったから。
「おい、表ヤバいぞ! 噂、マジだった! 神隠しの怪物が暴れてる!」
「……ッ!?」
誰よりも素早く、九鬼巴はその場を飛び出す。
魔力を用いることのできない今の自分に何が出来るわけでもないが、それでも何もせずになどいられない。彼ならきっと、何の打算もなしに飛び出すから。
そう、今この時のように――
「な、なにが起きてんの?」
「化け物が『二人』、戦ってんだよ!」
そこで九鬼巴が見たモノは――
泣く子供を背に、戦う男の姿であった。
「ふざけんな、ふざけんな、ようやく手に入れたんだ。最強のチート能力、勇者の力だぞ! ひれ伏せよ、愚民のくせにィィィィイイ!」
醜悪なる巨体、トロル種の怪物と殴り合うボロボロの衣服をまとう男は、自分でもなぜ戦っているのか、と疑問を浮かべながら拳を振るっていた。
ただ、聞こえたから。
声が、聞こえたから。
「…………」
気づけば、身体が勝手に動いていたのだ。
「……葛城、くん!」
そこでは葛城善がただ一人、戦っていた。
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