第4章:大喰らい

 かつて魔界にはどこもかしこも争いが巻き起こっていた。血の気が多いなどという話ではない。彼らの血肉は全て闘争に捧げられていたのだ。

 その中にあって闘争心ではなく食欲のみで数多の魔族を、王を喰らい続けてきた怪物がいる。六大魔王に比肩し得る第一世代の中でも異色の女王、『大喰らい』フェン。常に餓え、常に渇き、暴飲暴食を続ける彼女を恐れぬ魔族は少ない。

 その土地の群れ全てをぺろりと平らげてしまうのだ。

 地平すべての生物を選別することなく喰らい、時に同族すらも喰らう彼女は常に一匹であった。彼女の通った痕には草木含め全ての生命が絶える。

 だが、食欲と共に生きてきた彼女は喰らうことに飽いてしまう。喰っても喰っても満たされぬなら、喰わぬのも同じと考えてしまったのだ。

 喰わずに百年が経った。喰わずに千年が経った。

 喰わずに万年が、経った。

 誰も近づかぬ災害。孤高の魔狼に近づこうとする者などおらず、喧嘩相手もまた意識の変化により別のベクトルを持ってしまった。

 孤高は孤独に、喰っても喰わずとも変わらぬ飢餓感。

 そんな時に現れたのだ。

 魔界の生き物であれば誰もしない行為をする男が。

『レウニールからの願いにより、貴殿の宝物を借り受けたい』

 『大喰らい』に近づき、

『……飢えているのか? 持ち合わせは、これしかないが』

 食物を差し出す愚行。一度火が付けば八方草木一つ生えぬ荒れ地と化す。ゆえに皆、恐れ近づかなかったのに、この愚か者は『おつかい』とはいえ近づき、あまつさえ食物を目の前に差し出したのだ。小さな、小さな、飴玉一つを。

『失せな。あたしの気が変わらぬうちに』

『そういうわけにもいかんのだが』

『力の差が分からぬほど愚かではないだろうに』

『大き過ぎてめまいはするが、それはいつものことだ。俺は宝を手に入れねばならない。だが、力ずくでは叶わぬだろう。だからとりあえず謁見をと』

『くっく、愚かだねえ。話し合っても無駄さね。あたしは『大喰らい』、全ての種族にとっての災害だよ。災害に乞うても仕方がないだろうに』

 鼻息一つで消し飛ばせるような儚い命。魔狼の女王は嗤う。

 久方ぶりに相対する相手がこれほど矮小なる存在か、と。

『災害というのはよく分からんが、俺にはそう見えない』

『……なればどう見える? このあたしが、魔狼の女王『大喰らい』が!』

 痩せても枯れても第一世代トップクラス。六大魔王にとて劣る気はない。その自分が威圧した、魔族であれば誰もが裸足で逃げ出す。同族ですら、同じこと。

『だから、腹が減っているのだな、と思ったんだが』

『……あ?』

『腹が減っているのだろう?』

 どうやらこの眼前の馬鹿には通じなかったらしい。いや、きっと通じていた。それでも、それ以上に彼には目についたのだ。

 餓えた老狼の悲哀が。彼の言う偽善、その対象に自分が映ったのだ。魔狼の女王にして最悪の天災『大喰らい』である己が。

 救わねばならぬと、映った。

『く、くっく、くっはっはっはっはっはっはっはっはッ!』

 フェンは嗤った。腹の底から笑った。きっと、これだけ笑ったのは魔界のトップクラスどもが自分の領土を守るために、喰らいに来た己と戦っていた時以来。

 久しくなかった、心の動き。

『このあたしを、憐れむか。それほど堕ちたか、あたしは。笑える。これほど笑えることもない。小僧、その砂粒のようなモノ、寄越せ』

 そして、万年ぶりに喰らった、自身にとっては砂粒のようなそれ。

『……なんぞ、これ?』

 舌の上で、一瞬で溶け、消えた、何か。かつて、神族との戦いにて中間地点、今となっては制限によって魔族の立ち入りが困難と化した領域に、あの蒼天の下で喰らった名も知れぬ草木の、蜜、その時の記憶がよみがえる。

 忘れていた、闘争の果てに擦り切れた記憶の底にこびりついた味覚。

『飴だが?』

『もっと喰わせな』

『持ち合わせがない。人界に戻れば手に入るが』

『なら、戻れ。疾く、疾く、戻ってあたしにそれを喰わせろ』

『おつかいが終わらんと帰れない』

『こんなもんで良いならいくらでもくれてやるよ。あたしは喰えんものに興味はないからねえ。後生大事に囲っていた竜族の、ああ、名前を忘れてしまったが、クソ野郎からかっぱらってやっただけ。トカゲ連中はまずくていけない』

 飴玉一つでまさかの篭絡。その男は驚きに目を見開いていた。

『わかった。そういうことならなるべく早く持ってくる』

『いつだい?』

『レウニール次第だ。俺の裁量じゃ』

『まどろっこしいねえ。……ああ、そうか。あたしがそっちに行けば済む話さね。面倒だけれど、まあ、暇だしいいか』

『こ、こっちはよくないんだが』

『喰うよ、目玉』

『ひえ!?』

 巨大な体を揺らし、銀の魔狼は立ち上がる。それだけで周辺が揺れるほどの『重さ』、男がそれで顔を歪めた様が愉快で、魔狼の女王は微笑む。

『久方ぶりに動いてみたが、これまた億劫だねぇ。あんた、運びな。このあたしが小さくなってやる。それが宝との交換条件だよ。今決めた』

『であれば、心得た』

『くっく、災害を自分で招き入れるとは、交換条件とはいえあんた、馬鹿だねェ』

『小さくなってくれるなら別に構わない』

 オドを、疑似的に小さく抑える術理。口で言うのは容易いが、これをできる生命など今の世界にほとんど残っていない。元は移動のために極力、『重さ』を押さえるために生み出されたシンたちの技術である。

 そして小さくなった魔狼の女王を見て男は――

『もう少し小さくならないだろうか?』

 生意気にも噛みついてきたので噛みつき返した。それが男との出会い。

『ぐがが、あの『大喰らい』が可愛くなったものだ』

『殺すぞ、アア?』

『お、大食い女、マスターになんて口を。テメエこそぶっ殺すぞオラ!』

『やってみなァ、絶滅危惧種の焼き鳥ィ』

 ひと悶着はあったが魔狼を引き連れ、男たちは本拠地であるロディナに戻る。経緯を話している間、フラミネスなどは顔を歪めていたが、生憎男は馬鹿なので意図を察しない。あろうことか自らの心臓部である家に招いた。

 そして彼女はもう一つの存在に出会った。

『ああー、わんちゃんだ!』

『ぎんいろだー!』

『きれー!』

 鼻息一つで消し飛ばせる存在より、はるかに脆弱の生き物。彼女は大いに困惑した。飴玉を貰うまでは大人しくしておこうと思っていたのだが、この謎の生き物は何しろあまりにも脆過ぎた。自分がただそこに在るだけで――

『フェンの毛で手が切れたー』

『ガ、ガウ!?』

 しっかりと『重さ』は消している。問題なのは生来の毛並み。オドをまとわせていなくともそれは脆過ぎる謎の生き物にとって鋭すぎた。

 やむなく彼女は自慢の毛並みをふわふわに変えた。

『フェン、やせすぎだよー。もっとごはん食べてー』

『……がうぅ』

 あの男も珍妙な男だったが、この謎の生き物は自分に食を押し付けてくる。しかも、このシャープなボディを見て痩せていると勘違いしているのだろう。自分は狼であるし、彼らの想像する犬とは近縁であって同種ではない。

 ない、のだが彼らに伝える術がない。太れ、健康になれ、自分を憐れむどころか心配する目のせいでフェンはシャープなボディを捨てた。

『ばふ』

『あははー、フェンふとりすぎー!』

『ばふぅ』

 太ることを望んだのはお前たちなのに勝手なことを、と思ったが、その笑顔を見ていると阿呆らしくなってくる。飴は貰ったし、いつこいつらを喰らってもいいのだが、不思議と喰らう気にはなれなかった。

 まあ、阿呆のように昼寝をしていれば豆粒のような食事は出てくるし、量はともかく味はどれも魔界にはないものばかり。

『フェン、土産だ』

『またチンケな量だねえ。まあ、味さえ良ければ許してやらんこともないよ』

『現地の人のお墨付きだ。あそこの土地ならこれ! というものらしい』

『こっちじゃ名物に旨い物なし、って話を小耳に挟んだがね。まあ、これは、悪くない、ね。引き続き捧げものを忘れないことだよ。そうしてりゃあ、あれだ、あたしの縄張りくらいは守ってやるさね。暇、だからねぇ』

『助かる』

 それに世界中を駆け回るこの男は効率的に色んな味覚を集めてくれる。積極的に動く理由はないし、黙っていれば捧げものが来るのは楽でいい。

 だから、喰らわなくていいか、と彼女は思った。

『フェン、おさんぽいくよー』

『ばふ』

 万年動かなくても良かったのに、この謎の生き物のせいで毎日の散歩が日課になってしまった。その辺の草を食べると『めっ』と怒ってくるので、仕方がなく歩き食いはやめた。たまに戯れで大樹をかじってやるとフラミネスがビビるので、それだけは彼らの目を盗んでちょくちょくやっていたが。

 全くもって厄介な生き物である。ちょこちょこ動き回るし、脆過ぎてちょっとしたことでケガをする。散歩中なんて気が抜けない。いったいどっちが世話をしているんだ、と思うことが多数である。何もないところで転んでケガをしたときなど、もはやどう手を尽くして良いのかと真剣に悩んだほどである。

 ただ、まあ、居心地は悪くなかった。

 そして何よりも――

『……おかしな話だねぇ。本当に、おかしな話、さね』

 気づけば、自分を苛んでいた飢餓感が消えていたのだ。あれほど喰らっても、あれほど平らげても、消えずに在ったはずの、己への呪い。

 それがあっさりと消えた。豆粒のような量で充分になったし、腹が膨れるという感覚も得た。それはとても幸せで、満ち足りたモノであった。

 それはきっと、謎の生き物、子供たちによってもたらされたもので――

『くっく、このあたしがこの程度の魔族に手こずるかね!』

『充分怪物ヨ。サゾ、高名ナ魔王ナノデショウネ』

 魔界であれば咀嚼一つで殺せる相手に苦戦しながら、戦う羽目になった。子供を守るために喰いたくもない毒を喰らう羽目にもなった。

 かつての自分なら特に問題なかっただろうが、翌日腹痛に悩まされたのは内緒である。女王は衰えたところなど見せないのだ。

 そして、喰らい切れなかった毒のせいで子供も増えた。

『……ばふ』

 その時、自分のことではないのに不快な気持ちになったのを彼女は覚えている。夜な夜な泣いている子を見て、それが強まったことも覚えている。

 定期的に孤児は増減する。悲劇に見舞われた子。里親が見つかっていなくなる子もいる。それを迎え、見送り、その繰り返しが胸を打つ。

 繰り返しの中、少しずつ増えていく子供たちの人数が胸を裂く。

 きっと、子供たちにとってここにいることは幸せではないのだろう。必死に笑顔を作っているが、本当はもっと輝いていた、純粋なそれが在ったはずなのだ。

 いつしか、そんなことばかり考えるようになった。

 愚かで、小さく、あまりにも弱い生き物。

 愛しい子供たち。

 孤高ゆえ子を成すことのなかった彼女が、仮初めとはいえそれを手に入れた。たくさん、たくさん、本物でなくとも自分に向けられたそれを覚えている。

 だから、守ろう。

 王は自らの領域を、縄張りを、守るものだから。

『ガ、ゴボォ!?』

 魔狼の女王は顔を歪める。自らが嘔吐するなどという経験、生まれて一度としてなかった。なるほど、これほど不快なものか、と嗤う。

『あ、ああ』

『クソ不味いもん喰わせやがって。悪いけど、今は量より質、あたしゃあグルメなんだよ。わかったら失せな、喰い殺されたくなかったらねェ!』

 何とか人里離れたところまで逃げることが出来た。腹の中が悲鳴を上げている。多くの臓器を欠損し、寿命をこれでもかと削った。

 魔界であっても結果はさほど変わらなかっただろう。

 これは魔力量がどうこう、という存在ではない。

 喰って理解した。これは魔術そのものなのだ。闇の魔術、そのものと化している。深く、あまりにも深い絶望。持たざる者の究極。

『……どこかシンどもの大敵に似ている気がするねぇ。まあ、あたし自身は会ったことないがね。本来の敵くらい、知識はあるさね』

 勝てない。いや、勝ち負けのある相手ではない。

 この怪物相手に強さは意味を成さない。

 『大喰らい』にとっては初めての喰えぬ相手。退く理由は無数にある。戦いを避ける理由が多すぎて、戦う理由が見つからないほどである。

『ああああああああああああああああああッ!』

 闇が溢れる。フェンを敵と認識したのだろう。

『ああ、でも、苛立っているのなら、そうでもないのかもねぇ。まあいいさ、充分に生きた。充分過ぎるほど喰った。もう、満腹さね』

 フェンは自分の考えを嗤い、そして凄絶な笑みを浮かべた。

『ガァ!』

 魔狼の咆哮、オドを濃縮し灼熱と化した熱線である。魔界であれば万里を焼き尽くす獄炎。制限下とは言え都市ひとつ一瞬で消し飛ばすほどの火力なのだが、

『あああああああ』

 全て、闇に飲まれる。

 それでも、魔狼の女王は退く気などなかった。

『さて、やろうかねェ』

 誰がために、孤高だった狼は戦うのだ。


     ○


 子供たちは必死に自分たちの家族を探していた。

 大きくて、ふわふわの、大事な大事な家族を。きっと、どこかであくびをしているに違いないと、大変なことがあったことなど気にも留めずに、ぽかぽか日向ぼっこをしているに違いないと、彼女との思い出の場所を駆け回りながら。

 もうここにはいない彼女を、探す。

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