第3章:時よ進め

 温度変化を用いた幻影、無数のトリスメギストスがあらゆる角度から攻め寄せてくる。本体は一人、されどそれが絞れない。何しろ、砲撃すらもルキフグスの視覚情報とは異なる場所に直撃するのだ。本来であればそれでもルキフグスの偽造虚無を張り巡らせれば絶対防御として守ることは出来るし、さらに拡大すれば攻撃にも使える。

 だが、問題はその砲撃が始まりの炎であるということ。

 不倶戴天の敵である存在と同化し、進化した唯一無二のシックスセンス。記録上、最初で最後の生還者であり、シン・シリーズ、新人類の雛型と成った男の能力。その力は虚無に対する数少ない有効打であった。

 トリスメギストスはその血統、彼の炎は虚無をも燃やす。

『無駄じゃ。貴様では我に勝てぬ。相性差ではないぞ、我の力と貴様の力は相克、互角じゃ。問題はそれの活用、能力に頼り切った単調な戦いよ』

 やたらめったら虚無をまき散らすルキフグスにトリスはため息をつく。

 能力は掛け値なしに頂点。

 だが、それゆえに研鑽せずに振り撒くだけでは三流以下。

『退くがよい。追ってまで戦いはせぬ。我は戦いが好きではないのだ』

『ほざけ、クソ爺』

 人型のルキフグスが突如、膨れ上がった。まるで風船の一部に圧力がかかったかのような、極めて不自然な膨張。それを見てトリスは顔を歪める。

『制御出来ぬ魔獣化など、使う局面かよクソガキが!』

 ルキフグスは常に人型である。六大魔王は周囲への影響を考え、普段人型であることが多いが、彼女以外は全員そうしているだけ。やろうと思えばすぐに魔獣化出来るし、その巨大な力を完全にコントロールしている。

 しかし、彼女だけはそれが出来ない。何故できないのかは分からない。彼女の設計思想を受け継ぎ、完成させた異端の魔王ベル・ゼブル。彼の死によって事実は完全に途切れていた。唯一、盟友であったアスモデウスは知り得るかもしれないが。

 ただし、彼は死んでも口を割ることはないだろう。

 そもそも誰が口を割らせるというのか。

『姫様ァ!』

 元六大魔王アスモデウスから。

『いかん!? 想定よりも遥かに速い!』

 トリスメギストスは慌てふためく。彼の足ならまだまだかかるだろう、という目算が外れてしまったのだ。舐めていたわけではない。彼唯一の欠点こそ、馬力に見合わぬ足の遅さであった。自分が重過ぎるゆえに長距離走が苦手なのだ。

 ただし、追いついてしまえば、瞬発力は――

『トリス!』

 六大魔王の平均値、つまり、速い。

 視界に入った瞬間、アスモデウスは超スピードでトリスの前に現れる。シンプルイズベスト、拳を握りしめて、ただただ思いっきり叩きこむ。

『陽炎じゃよ』

 しかし、その拳は陽炎を揺らしただけ。

『……ああ、相変わらず、何一つ、分からん!』

 堂々と言い切るアスモデウス。

『悪いが俺は極めて頭が悪い。姫様、御免ッ!』

『は?』

 魔獣化する寸前のところで、アスモデウスの拳圧によってルキフグスが吹き飛んでいった。そのまま脳みそ筋肉塗れ王はあらゆる方向へ拳を突き出していく。

 拡散する拳圧、その範囲はアスモデウスの視野全て。一発一発が凄まじい重さの一撃、拡散し天を、大地を、虚空を吹き飛ばしていく。

『だから大嫌いなんじゃ、貴様らスペック馬鹿どもが』

 トリスメギストスも陽炎ごと吹き飛ぶ。

『圧す圧す圧す圧す圧す圧す圧す圧すオォォスッ!』

 アスモデウスの必殺技、パンチ。大体のことは殴って解決する、それが彼の流儀であり、現存する魔族の中でもトップクラスの脳筋であった。

『……ごぶ』

 初手で吹き飛んだルキフグスは気絶。あれだけは意図のある拳であったのだろう。優しく意識を刈り取っていた。それ以外は野蛮極まる飽和攻撃。

 回避しようにも距離を取れば取るほどに攻撃範囲は拡大し、近づけば近づいただけアスモデウス本体のデッドゾーンに踏み込むことになる。

 シンプルだが咎めようのない攻撃。

『生きていたか、タフだな、老け顔』

『老け顔じゃなくて老けとるんじゃ。わしゃあ人混じりじゃぞ、寿命が違うんじゃ寿命が。ったく、爺を労わらんか爺を』

『マスターテリオンが人、か。笑えるな』

『大真面目じゃ。母上自体は無限の時を生きる設計であったが、子供には引き継がれぬ。わしの半分はまごうことなき人であるよ。それがわしの誇りじゃ』

 神化が解け、元の老人に戻るトリス。

『お前もベルもよく分からんことばかり言う』

『亡き友の願いを律義に守る貴様は立派じゃよ、偉大なる王であった男よ』

『それが分かっていながら、何故、あの子を揺らす? 不安定なのだ、最初から。どだい、虚無の模倣など不可能であった。哀れな子だ、それでも、生きねばならぬ。シュバルツバルトに虚無のデータを送り続けるために。シンは、惨い。惨過ぎる』

『必要なことじゃ。それに、いつか救いは現れる。それもまた必然』

『……いつだ?』

『いつか、じゃ。友よ、救いがの、彼女の胸を裂くやもしれぬ。より深い苦しみが訪れる可能性もある。それでも、必要なのじゃ。わかるか?』

『わかると思うか?』

『かっか。じゃろうな。いつかにアスモデウスが対面する時、どんな選択をするのか中々に興味深い。まあ、その頃にはわしなどとうに死んでおろうが』

 アスモデウスは慈しみをもって自らの主を抱く。それは誰よりもシンプルな魔族である彼らしくなく、まるで人の親が娘を抱くようであった。

『イヴァンとヴントゥか。久方ぶりに暴れたいところだが、姫様を落ち着かせねばならぬ。今日は退く。が、トリスよ、どういう状況であっても俺はこの子の、六大魔王ルキフグスの意向に沿って動く。揺らせば、シンであろうと戦うぞ!』

 アスモデウスの烈気、それはトリスだけでなく背後のふた柱、その先のルシファーどころか、遥か次元の彼方にいるはずのイヴリースやレウニール、シュバルツバルトにすら届き得るものであった。本当に、興味深い男である。

『魔界以外であれば純魔族に万に一つの勝機すらあるまいが』

『それは俺が止まる理由にはならん』

 誰よりも純粋な魔族であるはずの男の中に何かが芽生えつつあったから。

『ではな、トリス』

『うむ、いずれ彼岸の彼方にて会おうぞ』

 おそらくはこれが最後の邂逅と成るだろう。かつてやんちゃ盛りの頃、神と魔の戦いにおいて幾度となく戦った敵対者であり、戦友。長いようで短い時であった。彼らはまだ生きるが、トリスはもう機能停止寸前。今日、また一つ時が進んだ。

 それでもあっさりと別れるのが彼らの流儀。殺し殺され、その螺旋の中で先に死ぬだけのこと。この魔界ではさほど特筆すべきことでもない。

『今、アスモデウスが来ていただろう?』

『あいつが暴れずに帰っていく時代か、老けるわけだぜ』

 ふた柱の竜が舞い降りる。

『いや、十分暴れられたんじゃが』

 鼻血を垂らしながらトリスはため息をついた。


     ○


『トリス、俺はこのような搦め手が好きではない』

「でしょうな」

『ライラを用いて俺を意のままに操ろうと言う魂胆、透けて見えるが?』

「まこと、その通りで」

 つい先ほど、雷竜帝イヴァンによって雷速でルシファーの住処に叩き込まれたトリスはしゅんと正座していた。対面するはイヴァンのいたずらで家屋を荒らされ、その元凶である男がへらへらと笑っていたため怒り気味のルシファーであった。

『箱舟の時を操作する話は聞いた。あの御二方が絡んでいるのであれば、俺とて多少は勘案しよう。ならば何故、ライラを連れてきた?』

「いえ、まあ、メールに抑えつけられ息苦しそうでしたので、息抜きに、と」

『……それだけか?』

「加えるに男女の仲にはもう少し時間が必要かと」

「トリス様!?」

『老人と赤子ほども違う年齢だ』

「おやおや、古いですなぁ。年の差婚などよくあることらしいですぞ。わしの友が言っておりました。キッズ時代ババアのヒモになっていたことがある、と」

『種族も違う』

「それをわしに言いますかな?」

『ぬう』

「別に強制しようというわけではないのです。ただ、選択肢があっても良い、と思ったまでのこと。手遅れになる前に、小話をする時間はあっても良いでしょう。その片手間にちょちょいと時間を操作していただければ文句なし、ですじゃ」

『上手く言いくるめられた気分だ』

「わしに口で勝てる者はそうおりませんな」

『それで、箱舟の中には何がいる? 何のために時を操る?』

「人がおります。遥か先の時代より現れし人が」

 ルシファーは目を細める。

『人族のために、か。相変わらずの人贔屓よな』

「否。必要なことです。今、イヴリースを宿すモノの危険性はシュバルツバルトの演算を二度も狂わせました。三度目もあるやもしれませぬ。世界がここで断絶すれば、全てが水泡と化す。明日から人が来たとて、我らに明日があるとは限らぬのです」

『人界の話であろう?』

「この世界の話です。先日、一杯食わされたばかりでしょうに」

『痛いところを突いてくるな。まあいい、ならば箱舟の中には人族の英雄が入っておるのだな? 何をしているのかは知らんが、多少は――』

「いいえ、中にいるのは英雄ではありません。人、凡庸なる唯人なのです。父上が遺した言葉ですがの。世界を変えるのはより多くの痛みと、より多くの苦しみを、悲しみを超えた先の人だ、と。わしには未だに真意は掴めておらぬのです。ですが、我が父アポロンは人を創った。どの種族よりも多くを失った、奪われた存在を。この不完全な世界に」

『力無き者が、何を変えると言う?』

「それを知りたく、手を貸しておる次第で」

 知りたくないか、とトリスの眼は問う。なるほど、とルシファーは心の中で笑った。確かにこの取引、ライラは必要なかっただろう。自分でもベリアルでも、下手をするとシャイターンですら応じる可能性がある。長年の疑問、その一端。

 何故シンは最後の作品に人を創ったのか、その理由であるのならば――

「終末の黎明期、シュバルツバルトの調整は思わぬ絶望を運んで参りました。ある意味で彼もまた人の進化、その先の歪みを体現しているのでしょう。演算装置を凌駕し、利用し、二度の調整を打ち崩した怪物。果たして彼を討つのは誰になるのでしょうか? 神か、魔か、勇者か、英雄か、それとも、人か?」

 知りたくば手伝え、ルシファーは思う。この年下の男もまた彼にとっては得体のしれぬ男であった、と。第三の眼を与えられた個体にはすべて、何かの役割を与えられている。彼もまた今日、その役割を果たそうとしているのであろう。

 かつて己がそれを喪失した時のように――

 痛みが、苦しみが、悲しみが成長を促すという理屈、今の彼らには少しだけわかるのだ。神と魔、戦いの果てに彼らが辿り着いた凍てついた世界。

 そこで多くを失い、彼らは悔いと思慮を得た。

 それもまた一種の成長であるならば――


     ○


 幾度となく繰り返された狩り。その度に死にかけ、再生され、食事をとり、また戦い、死にかける。相手は全て王クラス。七つ牙を用いても勝てない個体もいる。見極めも必要であった。勝てる個体を見極め、しっかりと勝ち切る。

 何度も繰り返した。何度も何度も――

「……昼夜がないと時間経過が分からないな」

 ふと、ゼンは思う。今どれくらいの時間が経ったのだろう、と。

「バーカ、まだ三日も経ってねえよ。のぼせんなカス」

「そんなものか。まあ、フェネクスがそう言うならそうなんだろう」

『…………』

 答えを知るギゾー、フェネクスのひとにらみにより沈黙。

 変化のない空模様。時の流れを知る術は感覚のみ。

 そして生来、魔族と言うのは人族よりも時の流れに鈍感なものなのだ。長き時を生きる種族故当然の機能であるし、寿命はともかく彼もまた同じ機能を有しているのもまた自明。ただでさえ頭も悪く、人を信じやすい男である。

 まさに愚鈍、それゆえの錯覚。

(これで二か月、か。まだ音沙汰ねえってことは、何か仕掛けやがったな。いくら何でも二か月今のイヴリースが動かねえなんてことはねえだろ。まあ、戦力外だから修行してろってことかもしれねえがな。どちらにしろお呼びがかかるまで私も出れねえんだよなァ。マージでクソ迷惑だぜクソボケオークがよォ)

 思いとは裏腹にフェネクスは笑みを浮かべていた。

 戦い始めたゼン、少しずつだが着実に歩むその姿を見て――


     ○


 紅き星の衛星軌道上、其処には二つの星があった。

 一つは紅き月、もう一つはシンなる者たちが大海を渡ってきた船であり、それを星に偽装させた通称、箱舟である。

 紅き月に立つ超重の王。

『ハァ!』

 黒き球体が、箱舟全体を包む。

「大丈夫ですか?」

『問題ない。まだ、この程度の力の行使で寿命を失うほど衰えてはいない。正直、これで中がどれだけ早足になるのかは知らんが、出来る限り早めよ、とのこと』

 最強の王、彼の重力は時すらも歪め、狂わせる。

『見せてみよ、人間。俺たちの存在を踏み越えるに足る存在か。シンなる者たち、我が愚行により失ってしまった彼らの多くに見合う存在か否かを!』

 ルシファーとライラが眺める先で、時の牢獄が完成する。

 その奥で繰り広げられている死闘を観測する手立ては、これで消える。

 光すら逃れられぬ黒が箱舟を覆い尽くしていた。

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