第3章:原初の森

 そこは黒き森に似た場所であった。

 箱舟の庭、と聞いていたはずが、空は紛れもない蒼空が広がり、見渡す限りの木々は場所の狭さを感じさせず、そこが何かの中であるなど考えられない。

「……だが、違和感が」

「空だ、クソオーク。私たちの空じゃねえんだよ」

「……そうか。大獄の時と同じ、か。この空は、あそこに似ている」

「知るか。クソ、テメエのくだらねえ計画に巻き込みやがって、この私を何だと思ってんだよ、クソが。クソクソクソクソ、くそったれだ」

「すまん」

「そう思うなら秒速で死ね。そしたら帰れる」

「それは出来ない」

「ファァァァ●アアアック!」

 フェネクスの咆哮が響き渡る。

 やはり反響はなく、密閉された空間とは思えない。

 フェネクスはずでんと地面に腰を下ろす。胡坐をかいて煙草を燻らせる姿はもはやハウスキーパーと言うよりも不良がコスプレしているだけにしか見えない。折角のロングスカートなのに胡坐をかいているせいで太ももまで丸見えである。

 明鏡止水の彼方に至っていなかったらギゾーが大騒ぎしていただろう。

 煙を吸って落ち着いたのか、彼女は心底興味なさそうに視線を森に向けた。

「原初の獣か。テメエ、こっちに来る前にシュバルツバルトは行ったか?」

「ああ。そこの獣がそう呼ばれていた。あれと戦うのであれば気が重いな」

「あれはその一種だ。魔族ほどじゃねえが個体差はある。強い弱い、単純複雑、色々な。まあ、私も直で見たことはねえけどよ」

「そうか。助言感謝する」

「ハッ、要らねえよ。ちなみに、だ。私が手を貸すのはテメエが敵に勝ったらってことで良いな? マスターの命令には沿う。だが、やる気はねえんでな」

「ああ、十分だ」

「くっく、十分ね。そりゃ結構。さっきの叫びにつられて、そろそろ寄ってくる頃だろ。精々張り切って死ね。ああ、言い忘れてたがよ」

 森の奥から、何かが煌めいた。その瞬間、ゼンの背筋に悪寒が奔る。

「ぐっ!」

 ほぼ条件反射、飛びのいた先に熱線が伸びた。着弾点、己のいた場所から火柱が伸びる。天を焦がすほどの火力。己一匹には過剰なほどの――

「第一世代はそいつらベースで作られた。単純な戦闘力なら、どんなに弱い個体でも魔人上位はある。平均すりゃ、ま、大体王クラス以上、だぜ」

 フェネクスはケタケタと嗤った。

 最下層で魔人上位。そういった個体は探さねば巡り合えない。いや、食物連鎖で言えば最下層に位置する連中、探したところでおそらくは擬態など何らかの逃避手段を持っているはず。つまり、ゼンがこうして向かい合える敵は全て――

『やっべえな、こいつ、普通に王クラスだぞ! 相棒!』

 王クラス。

「……全力で行くぞッ!」

 サイズこそ木々の半分程度。シュバルツバルトで見た個体は特別だったのだろう。それでも大きいことには違いない。黒き体躯は威圧感を放つ。

『あたりきしゃりきよ! かっ飛ばしていくぜェ!』

 ゼンの全身が発光し文様が浮かぶ。同時に顔が歪み、魔獣化を終える。

「魔獣の鎧(クティノスアルマ)」

 漆黒の鎧に包まれ、

『真紅の剣(エリュトロン)』

 紅き剣を二対持つ。

 ゼンの持つ手札、一騎打ち最強形態である。

「『征くぞ』」

 鮮血の軌跡を残し、魔獣が駆ける。

 戦いに勝利する。勝利して喰らう。それが唯一残された己の活路であるならば、何を迷うことがあろうか。脳裏にかすめるはアストレアの、子供たちの姿。

 ゼンは咆哮と共に切りつけた。

 真紅の斬撃、それは――

『……?』

 遭遇した魔獣を傷つけることなく、へし折れる。

「……な!?」

 手に残るは重さの差。忘れていたわけではない。彼は実際に知らなかっただけなのだ。彼は王クラスと交戦経験はあるが、直接切り合った経験はない。

 アンサールの時には事前にグロムを当てていた。

「あーあ、馬鹿が。認識が甘いんだよ」

 完全状態の王クラスを体感できていなかった。

 それが仇となる。

『亜ン』

 敵対者に向ける目ではない。さほど興味なく、羽虫を落とす程度の意識で、放たれた熱線がゼンを通り過ぎる。灼熱、痛みを感じる暇なく――

「……少し、麻痺していた、な」

『相棒!?』

 真紅の剣と共に腕が、舞う。

「これが王クラスと俺の、本当の距離、か」

 落下し、地面に転がるゼン。魔獣は己を視界にすら入れていない。近づかなければ追う必要もないほどの戦力差。ついでに小さく喰いでもないから。

「全力でやれや。何のために私がいると思ってんだ、カスオーク」

 嫌味を言うフェネクスを一瞬視界に入れて――

「……腕部を再構築」

 鎧だけ腕の部分を再構築し、中に鉄の芯を通す。

「ああ、その通りだッ!」

 巨大な怪物どもに囲まれ、感覚が麻痺していた。六大魔王、シン・イヴリース、忘れてはならない。彼らはもちろん、王クラスの末席であるアバドンにすらあれを使わなければ届かなかったのだ。己は弱い。弱いから得た。

 その牙を、この場で出し惜しみする理由はない。

『腕一本、安い買い物だったな』

「ああ、バーゲンみてェなもんだッ!」

『ハハ、ノッてきたなァ、相棒!』

 紫電が奔る。作り物の腕に固着させた雷の弓。真っ直ぐ向けられた先に放つだけの単純なギミック。あとは弦を引き放つだけの簡単仕様。

「『グロム!』」

 魔獣がようやく、ゼンに興味を向ける。

「魔を――」

『――削ぐ!』

 雷速の矢。相手を敵と認識していなかった獣にとって、それは速過ぎた。

『餓ッ!?』

 着弾、魔獣の全身に紫電の毒が回る。

「二、発、目ェ!」

 二発、混乱した獣はそれも喰らう。三発目、連射したそれを魔獣は回避した。そしてゼンに向ける。純然たる殺意、敵意を。

『奴さん、キレてんぞ!』

「当たり前だ。食うか食われるか、だからな」

 ゼンはひと呼吸し、腹を決めた。フェネクスが後ろに控えている。勝てば、回復してくれるのだろう。ウェントゥスを放ちタルタロスの番人ごと施設を打ち砕いた時のように。ならば、必要ない。生還するためのマージンは。

 全部、振り切る。

「魔を穿つ槍」

『ウェントゥス、ってな』

 もう片腕が千切れ飛ぼうとも――


     ○


「……もう一戦」

「僕としては楽しいので構いませんが、出来ればデータベースの整理がしたいなぁと思っているんですが。いえ、勝ち逃げとかではなく」

「もう一戦」

「……なるほど、またやったな、オリジナルめ」

 負けず嫌いが加速する仏国のエシェックジェニー(自称)、アリエル・オー・ミロワール。現在十戦十敗。ほぼ完封負けである。

 同時刻――

「バ、馬鹿な」

「メイド服を着てもらうぞ」

「ぐっ、もう一戦!」

「ぐが、次は料理でも作ってもらおうか」

「私は一向に構わんッ!」

 自称チェスモンスター、シャーロット・テーラー。連敗、全然、これっぽっちも惜しくないが、本人だけは次は勝つと確信していた。

 三戦目、闘志だけは一丁前のシャーロットの技がさく裂する。

 十分後、

「負けましたァ!」

 ド派手に散ったチェスモンスターの無残な姿があった。

「材料は用意してある。好きに作れ」

「ぐっ、この私が料理とは……先に言っておくぞ、私は料理が得意でない!」

「ぐがが、見ればわかる。いいから作れ」

「ふっ、なればよかろう。精々舌を洗って待っているのだな!」

 母から伝授された数少ない料理、油で揚げるフィッシュアンドチップスと大好物のローストビーフ、あとマッシュポテト。その三枚が彼女のカードである。

「うむ、ローストビーフだな」

 迷うことなく彼女は自分の好物を選択した。

 彼女もお腹が空いていたのだ。


     ○


 両腕を喪失し、全身火傷、特に頭部、口まわりがほぼ炭化したゼンが倒れ伏していた。満身創痍、と言うよりも絶命寸前の状態である。

 グロムで弱らせ、ウェントゥスで削り、エクリクシスで焼き切る。言葉にすれば簡単であるが、圧倒的格上に一手でも違えば即死亡、容易くはない。

 彼はその橋を渡り切った。

「くっく、無様だなクソオーク」

 フェネクスが自らの炎でゼンを焼く。同時に羽ばたきで魔獣の遺体を焼き続ける炎を消し飛ばした。翼を収め、倒れ伏すゼンの前に降り立つフェネクス。

 流れるような動作で――

「起きろカス」

 ゼンの頭部を蹴飛ばす。転がるゼンは、眼をパチクリさせる。

「ぬ、助かった」

「あんまりにも無様が絵になってたから回復させんのが遅れちまった、悪いな」

『いやほんと、死ぬ寸前だったよな!?』

「まあまあ、生きてるんだから良いだろ」

「クソオークの言う通りだぞ、クソ目玉」

『え、俺おかしいこと言ってる?』

 立ち上がったゼンの体は見事に修復されていた。片方は敵に、もう片方は己の武器にくれてやった両腕もきっちり生えそろっている。

「じゃあ、さっさと喰え。死ぬ気でな。鮮度が大事だ。私が無意味だと感じたら止める。今この瞬間も魔素は抜け落ちてるからな」

「ああ」

 とりあえずエクリクシスで火の通った部分を、と近づくと――

「あと七つ牙の攻撃が集中した部分も避けろ。特に焼けた部分は駄目だ」

「……え?」

「ったりめえだろーが。七つ牙がどういうもんか考えたらサルでもわかるだろ? どれも単純な威力とは別に魔族に対しての脅威を備えてる。毒の雷と滅しの炎、特にこの二つは効果が分かりやすい分、魔素へのダメージがデカい」

『なるほどな。つまるところ、食いたい部分には攻撃を当てるなってことか』

「ハッ、まずは生き残った喰うことだけ考えな。あとは、内臓は良いぞ。特に脳みそと心臓は最高だ。その辺を集中して喰え」

「……生、でか?」

「魔族が何言ってんだカス。当たり前だろうが。鮮度が大事っつってんだろ。ただの炎だって性質考えりゃ光に近いんだよボケ。黙って食えや!」

「ままよ!」

 魔獣の腹部にかぶりつくゼン。思ったほど不味くはないが、全然美味しいわけではない。自分の体積よりも遥かに大きい相手を喰らう。

「なっはっは、オラオラ喰え食え! もっと喰え!」

『……何で姐さん楽しそうなんだよ』

「私も一つまみっと。うっは、全然旨くねえわこいつ」

 一心不乱に喰らうゼン。元人間、魔族になったことで抵抗感は薄れたし、魔獣時代はほとんど生食で過ごしてきた。だが、魔人化して以降はほぼ火を通している。特に子供たちの前では必ずそうしてきたし、今ではそちらが普通である。

「ぐ、がァ!」

 肉を引き千切り、喰らい、突き進む。腹などすぐに埋まる。

 それでも――

「止まるなよ。私の炎は体を治すが、オドまでは回復しねえ。魔素もな。喰らわなきゃ消費するだけ。収支が赤字じゃやる意味がねえ。時間がねえんだ、私が良いって言うまで吐いてでも喰え。たぁくさんおあがりよ」

 フェネクスは、充足によって無意識に遠ざけようとした頭を、足で押し返して肉の塊に突っ込ませる。喰え、喰わなきゃ死ね。

 ゼンは喰らった。遮二無二喰らった。

 肉を、臓腑を、どの器官かもわからず、とにかく喰らった。

 吐き気がする。生理的に、人であった記憶が受け付けない。獣の食事、自分の存在からすると当然の行為であるが、前世の記憶がそれを阻害する。

「無様だな、半端もん」

『本当にこんなんで強くなれんのか?』

「私が知るか。ちなみにマスターが鍵を開けるまで出られねえからな。こっち側じゃクソ長い時間になりそうだぜ。さっさと喰えやオラァ!」

『こいつ絶対ェ、ドSだ』

 死ぬ気で、喰らう。

 ある意味で戦闘よりも地獄、食べられる才能がないモノにとって、この修練は今までで一番過酷なものと成るだろう。

 それでも彼はこれを選んだ。彼がこの道を選んだのだ。

「オェ、んぐ、ふんが!」

 吐き出しそうになるものを飲み込み、さらに喰らう。

 その様子を見てフェネクスは苦笑する。こんなにか弱い生き物が、か細い希望に縋って戦っている。そのけなげさが、どこか沁みる。

 その先に希望があるのか、今はまだわからない。

 それでも進むから、美しいのだ。


     ○


 トリスメギストスとエル・ライラは魔界の空を飛んでいた。

 さすがは探求者、鳥に変身するのもお手の物、である。

「おそらくわしらの侵入、見逃されまいな」

「……どの勢力が動くでしょうか」

「はてさて、わしも魔族は詳しくなくてのぉ。何しろ連中、四六時中戦争闘争で楽しくない。最近の連中は面白い個体も増えたがの」

「『あの人』も、闘争に興味があるようには」

「違う。興味を失う出来事があっただけ、じゃ。元はあ奴が一番の暴れん坊じゃよ。ゼウス様との決闘、ベリアルやシャイターン、アスモデウスと殴り合う日々。最も血を望んでおった。一番、イヴリース様に近い思想であった」

「……まさか」

「なに、これだけ長く生きておる。やんちゃな黒歴史など誰にでもあろう。わしも若い頃はこうブイブイ言わせておったものじゃ」

「今も変わらない気がしますが」

「かっか、誉め言葉じゃの。っと、来よったぞ!」

 黒い、何かが上空を奔る。

 遥か天頂、睥睨するは六大魔王ルキフグス。

「最悪じゃな。嫉妬ほど厄介な感情もあるまいよ!」

「あの御方に何かしたんですか!?」

「わしじゃないわい!」

「へ?」

 口論を交わす二人を憎悪溢れる眼で見つめるルキフグス。

 無言で黒い球体を展開し――

『死ね、クソビッチ』

 それを放つ。

「いかんな。致し方なし」

 射線上の彼らが、突如ルキフグスの視界から消える。

『……児戯、ね。私が追い切れない速度で動けるなら、初めからそうしてるでしょ? つまり、幻術。なら、埋め尽くすだけで良い!』

 凄まじい速度で増殖していく黒い、虚無。

 放たれたならここら辺一帯が文字通り消し飛ぶだろう。

『半分、正解じゃよ。リトルレディ』

 突如、ルキフグスの背後に現れたトリスの蹴りが彼女の首をへし折る。

『ハァ!?』

 まさかの攻勢。

『さすがに最高速は勝てん。が、瞬発力ならいい勝負じゃ。わし、結構強いよ?』

 焔がルキフグスを焼く。ただの火ではない。これは――

『何故、貴様が、これを!?』

『シャイターンは権能を譲り受けただけ。わしのはただの血統じゃよ。我がシックスセンス、とくと見よッ!』

 紅蓮の炎、『神化』するは半『神』半人の男、トリスメギストス。刻まれたしわがみるみると消え、若く端正な貌となる。

 力強き眼、かつてはよく父に似ていると言われたもの。

『出来れば使いたくなかったのう。残り時間が縮むでな。ただの嫉妬で寿命を減らされてはたまらんわい。いい加減気づけ、あ奴は貴様など見ておらぬ』

『黙れ爺!』

 首を力ずくで戻し、ルキフグスが吠える。

『貴様の使いどころは遥か先よ! いずれその力、生きておる意味、必ず辿り着くであろう。その妄執が一助となるやもしれんが、今は邪魔じゃ!』

 髪が燃え盛り、六つの翼がトリスメギストスの背中から展開する。

 炎が渦巻き、右腕が砲塔と化す。

『シックスセンス、ガンブレイズ。これが始まりの炎であるッ!』

 黒き虚無を塗り潰す、炎。虚無の天敵、最強の戦士アポロンの血を継ぐ神の子、トリスメギストス。ここにもまたルキフグスの天敵はいた。

『貴様も殺す。だが、あの女はどこ!?』

『言うわけなかろうが。見えぬよ、見ようとしておる限り、の』

『爺!』

『おじいちゃん、じゃろうが!』

 魔王ルキフグスと半神トリスメギストスが衝突する。

 それと同時に、揺らめく陽炎の先で――

「……ありがとうございます、トリス様」

 トリスが即席で作った火の鳥に乗ったエル・ライラが戦線を離脱していた。

 トリスお得意の視界を捻じ曲げ、認識の齟齬を与える炎の幻術がある限り、彼女がライラを認識することは出来ない。さすがの力である。

 向かう先は六大魔王ルシファーの領域。

「……ルシファー様」

 シン・イヴリースとの決戦以来、久方ぶりの再会であった。

 たとえ任務であっても、心が躍らぬと言えばウソになる。

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