【短編】恋する瞳

くーよん

【読み切り短編】恋する瞳

 今でも、忘れられない記憶がある。

 腕の中で弱弱しく息をする子犬の温かさ、重さ。

 それをどうすることもできない自分の不甲斐なさ、口惜しさ。

 暗くなり始めた森の中、崖を背にして私を追い詰める獣の息遣い。不安、恐れ。

 でも、それ以上に鮮明なものがある。

 危険を顧みずに飛び出して、獣を追い払ってくれた少年の姿。

 その強い光を宿した瞳の色。


 ……その時からずっと見つめている。私の騎士様の瞳の色。


 _/_/


「危ない!!」


 私は自分の声で飛び起きる。その拍子に、編み上げていた金色の髪が解けて揺れる。バクバク胸を打つ鼓動を片手で押さえながら、私はたった今見ていた夢を反芻する。夢というものは大体の場合 息を吐くたびに薄らいでいく物だ。だけどこの夢は深呼吸しても、まだ目の裏に焼き付いているかのように思い出せる。


「……もう、最近は毎週のように見るのだもの。目覚めが悪いったらないわ」


 そう言いながらも、口実を得た私はちょっと目を細める。そこにノックの音。扉の向こうから、聞きなれた護衛の落ち着いた声。


「姫様、どうなさいました」


「ごめんなさいエリオット、大丈夫よ」


 私がそう答えると、そうですか、とあっさりとした返答だけで静かになる。私は目を閉じて、今の短い会話を耳の奥で思い返す。ああ、それだけで激しく打っていた鼓動が収まっていく。……代わりに、ゆっくりだけど強い鼓動が私の頬をじんわりと温める。その温かさで私の頬は溶かされ、緩んでしまうのだ。


 水を一口飲んでからベッドで伸びをして、揃えてある部屋履きをつっかける。分厚いカーテンを開ければ、昇り始めたばかりの太陽が山際に白い線を引いていた。窓を開けると、冬の空気が流れ込んで身震いするけれど、私はそのまま窓の外の風景を眺める。


 朝日が山の合間から光の手を地上に伸ばす。教会の尖塔、もう煙の出ている煙突、色とりどりの屋根。それは街の風景。私、リリエラが父王の名代として治める領地だ。


 _/_/


 私は自分の長い金髪を梳きながら今日の政務を思い出す。昨日の間に定例の業務は終わらせているし、会議の予定も無い。緊急の事件でも起これば別だけれど、最近は隣国との関係も良好で問題も起こりそうもない。よし、特にない。そうと決まればやることは一つだ。


 クローゼットを開き、普段着ている物とは違う質素なごわごわした生地のワンピースにを取り出す。滑らかな肌触りの寝間着からそれに着替え、洗い上げて薄くなり始めたショールを肩にかける。もこもこした柔らかい室内履きを脱ぎ、ペラペラの革の靴を履けば完成だ。鏡の前でくるりと回る。どこをどう見ても立派な町娘だ。


「夢を見た日は視察の日、ってね」


 この変装のお蔭で、時々館を抜け出して街を歩いても、誰も私が領主だとは気づいていない。街の人達の普段の生活を見て、問題点がれば政務を通して改善する。それも領主の大事な仕事だ。

 開きっぱなしの窓枠に手をかけ、カーテンの裏に隠してある縄梯子を外に下ろす。ちらっと部屋の扉を見る。その向こうにはいつも通り護衛がいるはずなのだけれど、私のこの動きの間にも特にノックしてくる様子もない。私はひらりと窓の外に身を躍らせる。お転婆だった昔にとった杵柄だ。危なげなく地面に降り立つ。


「姫様、またですか」


「エリオット」


 近くの木の傍には、すでに護衛の姿があった。私は緩みそうな頬を両手で揉み解してから、すました顔でそっちを見る。私の護衛 エリオットは、髪と同じ黒曜石のような目を困ったように細める。眼の横に走る古い傷跡が、僅かに歪んだ。私よりも頭一つと半分ほど高い位置にあるその瞳を見つめ、私はわざとらしく呆れたように返す。


「貴方には部屋の守備をお願いしていたのだけれど? なんでいつもいつも私の外出に気付くのかしら」


「私が命じられているのは姫様の護衛です。私としては、何故姫様はいつもいつもバレると分かっていて同じ手で外出しようとするのかが不思議です」


「あら、じゃあ何故、外出しようとしていることに気づいたところで私を止めないのかしら?」


「……昔から、決めたら止めてもやり通すでしょう、姫様は」


 溜息交じりに言いながらエリオットは目を伏せる。私は近づいて、その目を覗き込むようにして見上げる。困ったようにエリオットの視線が揺れて、それから天を見上げた。私が見つめると、エリオットはこうしてすぐに目をそらす。……もうちょっと位見ていても良いじゃない。もう。


「よく判っているわね。じゃあ、護衛としてはこれからどうすべきかしら?」


 エリオットは私を見下ろしてしばらく黙ってから、武骨な顔に似合わない長い睫を伏せ、降参したように頷いてくれた。


「……お供致しますよ、また街に行くのでしょう」


「ええ、領地の視察も立派な政務ですもの。よろしく、エリオット」


 私は努めてそっけなく言って、先に立って歩き出す。後ろに付き従うエリオットの大股な足音が聞こえて、私はそれに追いつかれないように歩調を早める。隣に立たれたら、この緩んでしまった頬を見られてしまうから、前を歩かなきゃいけない。

 そう、例えいつものように裏門からこっそりと出ていく際に門番のお爺ちゃんから「恋人みたいだね」と言われても、緩んだ顔は見せてはいけないのだ。二人でお出かけと言ってもこれはお仕事よリリィ、しっかりしなさい。そう自分に言い聞かせ、私は街に続く坂道を下っていくのだった。


 _/_/


 爺さんめ、毎度余計な事を言いやがって。ただでさえ、護衛である俺に見つかって不機嫌な姫様の機嫌が、爺さんの悪い冗談で更に斜めってしまった。ほれみろ、俺より小さな身体なのに、歩調早くツカツカと前を歩いて行ってしまう。だからと言って、一人で行かせるわけにもいかないからこうしてついて行くんだが……。


「……あの寝言を叫んだ日は、必ず外に出たがるんだからなぁ、まったく」


「何か言ったかしら、エリオット?」


「いいえ、何にも」


「……そう」


 姫様が紅を引いてなくても赤い唇を不満げに尖らせる。人形の様な整った顔立ちだが表情が豊かだからか、拗ねても嫌な印象を抱かせないのが姫様の良い所だろう。質の良くない服を着ていてもその華やかな美貌は隠しきれてないので、街の人達が「また領主様の視察だ」と噂している。姫様は気付いていないようだが、はたから見ればバレバレだ。こんな優雅な町娘がいてたまるか。


「ようリリちゃん! こっちのパン焼きたてだよ、持ってきな!」


「あら、いつも有難うおじ様!」


「おうおう、リリィちゃん、今日も別嬪さんだねぇ」


「お婆ちゃんも顔色が良くって、美人さんよ。元気そうで私も嬉しいわ」


「リリ姉! この間はありがと! もう膝が痛いの治ったよ! きずクマのおじちゃんも相変わらずおっきいね!」


「はいはい、今度は転ばないように気を付けてね」


「おじちゃんじゃねえ、まったく……」


 俺は目の横の古傷をなでながら言い返すが、子供たちは笑って駆けていった。……街の皆は全部分かってて、姫様と気楽に接している。姫様の天性の人懐っこさもあるのだろうが、実際、姫様に領主が変わってから劇的にこの街の環境は良くなっているのだ。先王の時代から微妙だった隣国との関係が回復したのも、姫様の手腕によるものだ。それをわかっているから、街の皆もこうして姫様のしたいようにさせているのだろう。姫様がその事に気付いている様子はない。


「姫……いや、お嬢様、今日は人が多い。あまり先に行かれては」


「リ・リ・ィ! もう、何年経ってもちゃんとできないんだから、エリオットってば」


「そうは言いますがね……」


 ふくれっ面で言い返されても、なんとも気まずい。子供の頃姫様を助けたからって理由だけで、狩人の息子だった俺が国付きの護衛になれたのだ。そこまで取り立ててくれた恩人相手に、気安く名前で呼ぶというのは恐れ多い。

 そうして俺が悩むといつも、姫様はこぼれそうな位に大きな青い瞳で俺を見つめる。俺は、その目のきらめきに釘付けになりそうになってしまい、いつも視線をそらして誤魔化すのだ。このお姫様は自分の瞳にどれほど力があるのかも気付いていないらしい。


「ともかく、あまり離れないでください」


「はぁい、分かったわ。でも、外に居る時はいつか呼んで頂戴ね、リリィって」


「……善処はします」


 聞き分けは良いので有難い事だが、そんな残念そうな顔をされると俺が悪いことをしたみたいで気持ちが落ちつかない。そんな時だった。


「おうおう、そこのご両人。デートかい?若いもんは良いのう。予定がないなら広場へ行くと良いぞ」


 露店を開いていた老人が声をかけてくる。デートなんて言われたら、また姫様が不機嫌になると思い、俺は慌てて否定しようとしたが、不機嫌になるよりも先に好奇心が走ったのか、姫様が老人に笑いかけた。


「御機嫌ようお爺様! 広場には何があるの?」


「珍しい大道芸人の一座がやって来ておってな、中々見ものじゃよ」


「あら、それは良いわね。聞いたエリオット!」


「はいはい、じゃあ広場に向かいましょうか」


「エリオットったら、もっとはしゃぎなさいよ。大道芸よ?」


「そうじゃよ、恋人を楽しませるデートプランを考えるのも彼氏の役目じゃぞ」


「あら、もう、お爺様ったら! そんなんじゃないわよ!」


 慌てた様子で姫様が否定するので、俺もそれに便乗して頷く。


「俺はただの付き添いだよ爺さん、勘違いするとお嬢様に悪い」


 ……俺は姫様の言葉を肯定しただけなのに、なんで爺さんは溜息を吐いて、姫様はさらに不機嫌になったんだ……分からん……。悩む俺に背を向けて姫様が歩き出したので、俺もその後ろについて歩き出す。


「お若いの、遠慮も過ぎると大事な物を失うぞ」


 俺は、姫の背を見失わないようにするのに精一杯で、その声に振り返ることはできなかった。


 _/_/ 


 街の中心に位置するこの場所は、市場や職人街とつながってるから人の波が大通りよりも激しい。人に揉まれるようにして歩きながらも、人よりも高い視点の位置を生かして、姫様の煌めく金髪を見失わないようにしてついて行く。


「エリオット見て見て! 広場の中央、あそこでやってるのかしら、すごい人だかり!」


 しかし、細くて小さい姫様は、すいすいと人波を分けて先に行こうとする。しょうがなく、俺は手を伸ばして、姫様の腕を手加減して掴む。俺の手からしたら小枝のように細く、同じ人間とは思えないほどに柔らかい肌の感触にドギマギするが、俺は護衛だ、顔には出さない。驚いたような姫様の顔から視線を外しながら、俺は注意を促す。


「お嬢様、一人で行かないでください。……この人ごみの間だけで良いので、俺の袖でも掴んでおいて頂けると、俺が安心します」


「そ、そそそ、そうね、ご、ごめんなさいエリオット。え、えっと、じゃあ、その、失礼して!」


「いや、失礼したのは俺なんですが……って、なんで俺の手を握るんですか。でかいから握りにくいでしょう服の端をー……」


「こ、この人ごみで引っ張られて、破けたら大変でしょう?と、特別よ、今だけこうさせてもらうわ! ほら、早く見に行くわよエリオット!」


「引っ張らないでくださいよお嬢様」


 そんなに早く大道芸を見に行きたいのか、と俺は内心で驚きながらも、俺の手を握る小さな柔らかさから意識を外すために、人込みをかき分けて進むことに執心する。そして、人込みの最前列に着けば、そこに広がる怪奇な世界に流石に目を見張った。


「あんなに何人も乗せて一輪車に乗るなんて! 凄いわ、ナイフをあんなに何本もお手玉して怖くないのかしら! あっちの人はエリオットよりも大きいかもしれないわね!」


「確かに、こりゃあ凄いですね。 火まで吹いて……へえ、動物使いまでいる」


 10人ほどの芸人達が広場に機材を並べ、思い思いの芸を見せている。満足した者は芸人たちの前に置いてある帽子や楽器のケースの中に小銭を投げて去っていく。感心しながら見ていると、道化師のメイクをした芸人と目が合う。嫌な予感がした。


「いやはや! こりゃあ小山大山見上げるような、見事な身体のお兄さん! その手を握るのはこれまた驚き可憐な少女! 美女と野獣とはこの事か! 似合わないのがピッタリ似合う、絵になるご両人じゃあ御座いませんか! いやあ羨ましい、眩しいほどの睦まじさですなぁ!」


「あら、ふふふ、お上手ねピエロさん。ねぇエリオット、私達お似合いですって!」


「客呼びの口上ですよ、お嬢様」


 俺がそう言うと、姫様が酷く寂しそうな眼をした気がした。……大道芸の盛り上がりに水を差すような事を言ってしまったか、と俺は内心で慌てる。街の活気を我が事のように喜ぶ姫様だ。場を覚ますような事をしてしまえば、姫様が悲しがる。そう思って俺が言葉を考えていると、道化師がお嬢様に向かって頭が地面につきそうな大げさなお辞儀をして見せた。


「太陽の美女、大輪の薔薇よ! この哀れな道化のお願いで御座います! この巨腕強大なる貴女の騎士を一時お貸し願えませぬか? もしお力をいただけるのならば、目を見張るような芸をお見せいたしましょう!」


「ええと、でもエリオットはあまり人前には出たがらないので……」


「俺で良ければ喜んで」


「え、エリオット?!」


 姫様が俺の事を気遣ってそう言ってくれたが、俺は頷いて道化の前に踏み出していた。汚名返上だ。確かに人目に付くのは苦手だが、……今日は姫様に不満げな顔ばかりさせてしまっているのだから、一度くらいは、笑顔を浮かべさせたいと思ったのだ。


「さあさ皆様、この寛大な旦那様とお優しい奥様に、盛大な拍手を!!」


「旦那様!?」


「お、奥様……」


 俺は思わず訂正しようと声を上げたが、なぜか姫様が両手を頬に当てて俯いてしまう。どういう反応だ、そんなに恥ずかしかったかと俺が戸惑ううちに、道化は手に剣を握って観客に手を広げて口上を述べていた。どうやら、俺の頭の上で逆立ちしながら、手に持った剣を飲み込むのだという。


「この巨人ゴリアテが身じろぎ1つでもしようものならば、哀れこの道化の身体は中から真っ二つ! さぁさお立合い! 道化の一世一代の大見世物だよ!」


「お、おい、本当に大丈夫か!?」


「道化を信じなさい、これで10数年食ってるんですよ」


 小声で道化に言えば、自信満々と言った様子で道化が俺の腕を掴む。猿かリスかのように俺の身体を登った道化は、重くないかと俺に問いかける。大丈夫だと言えば、道化は口上を述べて、俺の肩で片手逆立ちをして見せる。興味がわいた俺は、横目で道化を見上げる。道化が剣をゆっくり喉の奥に差し込んでいる姿が見えた。あまりに近すぎてそれ以上直視できず、視線を姫様の方に向けた、が。


「……おいおい」


 そこに姫様の姿はなかった。眼球だけ動かして探すと、人込みをかき分けて慌ててどこかに向かおうとする姫様の後ろ姿が見えた。しかも、向かう先は……。


「スラム街の方角……なんっ、おい、お嬢様!!」


「ごふっ!? ひょ、ひょっとおにいはんっ、ま、まっへ、動くと……うぐっ」


「す、すまん! だが、ああ、おい……っ! お嬢様!」


 俺は動く事もできずに、道化が芸を終えるまで姫様が消えていった方角を見ていることしかできなかっ。


 _/_/


 エリオットの声が背中に聞こえた気がした。ごめんねエリオット、でも私はすぐにそれを追いかけなければならなかった。数人の男が、子供を路地裏に引き込む姿が見えたのだ。


「何てこと、私の街で人さらいなんて……絶対に許さないんだから……!!」


 町娘姿で良かった、普段のヒールだったら走る事もままならない。路地裏から更に進めば、あまり日の届かない、水路沿いのじめじめした区画につながる。道は分からないけれど、男達の声と走る足音は聞き逃さずに私はそれを追いかけた。


 まさか追手が掛かっているとは思わなかったのだろう、男達は古い倉庫の中に子供を連れこんだ。子供は運ばれている途中に麻袋に突っ込まれて、あまり声も出せないようだった。……手慣れている。初犯ではないだろうと言う事が私にも判った。


「酷い事を……」


 私は様子を見る為に、倉庫の周りを忍び足で確認する。そして、木箱や樽の置かれている裏側から、そっと天窓に登って中を覗いた。男達は倉庫から麻袋を残して出て行くところだった。重い鍵を閉める金属の音が聞こえる。……戻ってくる様子はない。どうしよう、と私は少しだけ迷う。


「エリオット……」


 置いてきてしまった私の護衛。彼が居たらきっと、あんなごろつきの3人や4人は物の数ではないだろう。けれど、彼を私は広場に残して一人で追いかけてきてしまった。


 ……怒っているだろうな、と思う。呆れられたかもしれない。今日も、何度も止められた視察に引っ張りまわされた挙句に、私とカップル扱いされてとても嫌そうな様子を見せていた彼だ。……もしかすると、愛想を吐かされているかも、と思う。


 元々、森で猟師をしている一家の子供として育っていたエリオット。出会いは、お父様の狩り遊びに私がついて行った夜、森の中だった。飼っていた子犬が森に飛び込んで迷子になって、私が今日みたいに一人で追いかけてしまった結果夜の森で野獣に襲われてしまったのだ。守り切れなかった子犬の遺体を抱きながら私が震えていたところを、助けてくれたのがエリオットだ。

 あの時、野獣が怖い非力な子供だったのに、エリオットは私を助けるために立ちふさがってくれた。あの時から、私はずっとエリオットの瞳に恋をしていたのだ。身分違いの恋だと、諦めてはいるけれど……ここで逃げてしまってはきっと、私はこの恋に顔向けができない。私は心を決めて、そっと天窓を開けて、倉庫の中の棚を伝って降りる。


「……ねえ、大丈夫? 生きてるわよね?」


「だ、誰? 僕をどうするの! おうちに帰してよぉ!」


 麻袋が芋虫のように動いて、子供の泣き声が聞こえた。私は慌てて麻袋の口を開いて、中の子供に顔を見せる。男の子だ、黒い瞳はどことなくエリオットに似ている気がした。私の顔を見て驚いて言葉を失う男の子に、私は微笑んで見せる。


「大丈夫、助けに来たわ。お姉さんが絶対、お父さんとお母さんのところに帰してあげる。だから泣かないで」


 ゆっくりと、言い聞かせるように言って、私は涙で汚れた男の子の頬をハンカチで丁寧に拭ってあげた。少し赤くなってる。殴られたのだろうか。


「酷い事をするわ……痛かったわね。もう大丈夫よ」


「う、うわああんっ!!」


 泣き始めた男の子を私は抱きしめてあやす。でも、時間がない。いつ誘拐犯が帰ってくるかわからないのだ。まだ泣き止まない男の子の肩に両手を置いて、私は目を見つめる。


「泣くのは良いわ、でも、まずは逃げないといけないの。……怖い人達が帰ってくる前に、街に戻りましょう。ね、協力して」


 まだしゃくりあげていたが、男の子は私の言葉に頷いてくれた。良い子ねと頭を撫でると、男の子も落ち着いてくれたようで、赤い顔のまま頷いてくれた。


「入り口はー……あまり良くないわね、もし帰ってきた所で鉢合わせたら逃げられないわ。となるとやっぱり、私の入ってきた天窓かしら……ねえ坊や、木登りは得意?」


「あ、あんまりやったことない、けど……が、がんばる……」


「お姉さんもあんまり得意じゃないけど頑張るわ。下から支えてあげるから、先にお登りなさいな」


 私が下りてきた逆の順番で棚を伝って登っていく。男の子は思ったよりも頑張ってくれた。しかし、こわごわ登って天井まであと少しと言ったところで、倉庫の扉が開いた。


「で、ガキはー……あれ、いねえぞ!?」


「あ! 棚だ! おい! 何してくれてやがんだこのアマ!!」


「見つかった……! 坊や、早く! 頑張って登って!!」


 男達の怒号が倉庫に響く。私は棚に置いてあった缶や荷物を投げつけて時間を稼ぐ。それでも、最初は警戒していた男達も、私が何も持っていないことに気付いてじわじわと近づいてくる。その目は、子供の頃に私を襲った野獣に似てギラギラしていて、私の背筋に震えが走る。


「おい、よく見れば上玉じゃねえか! ガキよりも高く売れるぜありゃあ」


「こりゃあ嬉しいな、売っ払っちまう前に味見もしてやらないとなあ? へへへ……」


「おい、お嬢ちゃん、痛くしないから降りてきな!」


「坊や、もう少し、天窓に手を伸ばして!」


「う、うん……でも、届かないよお……!」


 一生懸命伸ばした少年の手は、あと指一本分届いていない。私の下では男達が登り始めたのだろう。棚が揺れて、男の子の手も天窓から離れそうになっている。……このままでは、2人とも捕まる。そう思ったから。


「坊や、逃げたら広場にまっすぐ走って。熊みたいな大きなお兄さんを見つけたら……リリィが……ごめんって言ってたって、伝えて!」


「え、お姉さん……うわっ!」


 私は、男の子のお尻を両手でぐっと押し上げる。男の子の身体が少しだけ持ちあがり、手が天窓に届く。男の子が慌てて這い上がるのが見えてほっとした。……私の方は、無理やり押し上げたせいで棚の揺れにバランスを崩しかけるけど、少なくとも、あの子は逃げられるはずだ。


「ガキは放っておけ! この女がいりゃあ稼げるぜ!」


「こ、の! 下品な手で触らないで!」


「ぶへっ」


 私の足首を掴んだ男の顔を、思いっきり蹴り飛ばして棚から落とす。それを見た他の仲間が罵声を上げながら棚を揺らしはじめた。私は必至で棚にしがみ付きながらも、諦めないで天窓に手を伸ばす。


「お姉ちゃん!」


「いい、から……っ、私は良いから、先に逃げて! ……あっ!」


 天窓から降ってくる男の子の声を見上げ、私は声を返した。それと同時に、棚がきしみを上げて、折れる。


 浮遊感。


 男達の笑い声。


 届きかけた天窓の光が離れて、目の前が一瞬で真っ暗になる錯覚。


 このまま落ちて、私は男達に攫われるのだ。と思った。絶望で黒塗りされた視界の中で思い出したのは、私を助けてくれて、私とずっと一緒にいてくれた、大好きな人の顔。


 そして、私を呼ぶ声。姫様、お嬢様。

 ……本当は、一度位名前で呼んで欲しかったけれど……。


「リリィ!!」


 そう、リリィって……。


「え?」


 気付けば浮遊感は無くなっていた。でも、床に落ちたにしては身体のどこも痛くない。相変わらず視界は暗いけれど、私は……そこで、自分の腕を掴む大きな手に気付いた。そして、目の前が真っ暗になった理由にも。


「エリ、オット……?」


「間に合った! 勝手に離れないでくれって言ったじゃないですか、まったく。……これに懲りたら、少しは俺の言う事も聞いてください」


「エリオット……」


「……街の皆が教えてくれたんです、姫様が必死になって走って行く姿を見たって。驚きましたよ、裏路地の乞食やごろつきまで貴女の走って行った方向を教えてくれた。……姫様が頑張ってきたから、皆が協力してくれたんです。誇ってください」


「エリオットぉ……!」


「貴女が無事でよかった」


 天窓を覆い隠すような大きな身体、聞いているだけで落ち着く声。聞いていると落ち着かなくなる声。今一番会いたかった人。私をいつも守ってくれる人。片腕で軽々と私を引き上げて、その太い両腕でしっかりと抱きしめてくれているこの人が、私の騎士様だ。


 涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見ても、嫌な顔一つせずにエリオットは微笑んでくれた。私も、涙が止められないままそれでも微笑んで見せる。ごつごつした大きな手が私の顔を優しく撫でる。私も、エリオットの顔に触れ、私を守ってついた古傷を指でなぞる。……黒々とした瞳は見ているだけでとろけてしまいそうな位綺麗で……。


「……あ、あの、お兄ちゃん、お姉ちゃん……悪い人達、逃げちゃうよ……?」


「きゃっ!」


 そ、そうだった! 私ったら、こんな時になんてはしたない……真っ赤な顔を隠してエリオットを恐る恐る見る。きっとエリオットの表情は、散々振り回した挙句抱き着いたりした私の事を、もう愛想が尽きたって顔で……。


 私は、そこで目を丸くした。エリオットと目が合う。エリオットが私の表情を見て、慌てて自分の耳を隠した。


「おっといけねえ、お嬢さん、坊主、ちょっと行ってきます」


「エリオット!」


 私は彼の名前を呼ぶ。彼は気恥ずかしそうに私の目を見る。子供の頃と変わらない黒い輝く瞳。私の大好きな瞳。


「有難う。これからも、私と一緒に居てね」


「……俺以外、貴女の護衛は務まりませんよ」


 倉庫の屋根から飛び降りるエリオット。そのまま男達を余裕な顔で相手にする様子を私は見つめる。出会った時と変わらない瞳。出会った時とは全然違う逞しい姿。ああ、なんで気付かなかったんだろう。


「ねえお姉ちゃん、お兄ちゃん、耳まで真っ赤だよ。なんで?」


「ふふ、本当ね。なんででしょうね」


 瞳ばかり見つめていてエリオットの気持ちに気付けなかった私はそう言って答える。


 恋は盲目って、こう言う事を言うのかしら。


 ――――――【恋する瞳・完】

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