第76話 最高と最悪。真っ二つに評価が分かれたプロローグの実物

下記で紹介した編集部の評価が真っ二つに分かれたプロローグの現物を掲載します。


第57話 よく言えば通好みで、編集者の感覚を狂わすことがある?

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888031782/episodes/1177354054888170737


お時間のある方はご覧になって、最高と最悪のどちらと思ったかをコメントしていただければうれしいです。おそらくこれは、「完成度は高いけど好きになれない」ものの典型なんだろうと思います。1万文字近くあるので、ちょっと長いです。

*なお、本編は下記でお読みいただけます。

https://scraiv.com/n/1549773612017



■プロローグ

 視界が白一色に変わった。一瞬、グリドラは自分の目がおかしくなったのではないかと思った。何度かまたたきしたが変わらない。彼は、宿舎で言われたことを思い出した。

「山の天気は変わりやすい。探索は明日にしましょう。吹雪けばなにも見えなくなってしまいます。真っ白になってなにも見えなくなるのです。上下左右前後、その感覚が失われて進むことも戻ることもできなくなります。危険です」

 ローブをまとった地元の案内係は、そう言っていた。今、グリドラが直面しているのは、まさしくその状態だった。地図を見ようにもほんの数センチ先も見えないのだ。

── オレはここで死ぬのかもしれない  ──

 死そのものは怖くなかった。これまでも、身近に死を意識することは何度となくあった。しかし、そのほとんどは、敵との斬り合いだ。このように、自然の猛威の中で、なすすべもなく立ち往生することはなかった。一瞬の隙が死に繋がる斬り合いとは違う。グリドラは、じわじわと忍び寄ってくる死の気配を感じた。なにもできない自分が歯がゆかった。

 立ち止まると寒さがひときわ厳しく感じられた。彼の知っている寒さとは全く次元の異なるものだった。外気に少しでも肌が触れると、火傷したように痛くなる。顔の感覚はとうの昔に失われている。

「隊長、下ろしてください。このままでは、二人とも帰れなくなってしまいます」

 グリドラの背中に負われている部下が力なく言った。

「バカ野郎。お前を助けに出てきたのに、オレ一人のこのこ帰ってどうする」

 グリドラは怒鳴り返した。

「隊長、あなたはバカだ」

「ああ、オレはバカだ。でも、お前はオレの部下だ。家族のようなもんだ。置いていくことなんかできない」

 グリドラは、自分に言い聞かせるように叫ぶと、手探りでゆっくり前進しはじめた。

 セレンドール王国辺境警備隊隊長、それがグリドラの仕事だった。彼は、生まれて初めての冬山に派遣されていた。麓では晴天だったのが、山に入ると猛烈な吹雪に襲われ、いったん麓の宿舎に戻った。しかし、戻ってから一人足りないことがわかった。グリドラは、探索は明日にすると言い、部下を宿舎に残し、こっそりと一人で山に向かったのだった。冬山は初めてだったが、彼は身体能力には自信があった。武術ではセレンドール王国有数の使い手と言われていた。

── 過信だったな ──

 グリドラは、だんだん弱気になっていった。しょせん、自然の前では人間の力などとるに足らないものなのだ。それを思い知った。だが、後悔はしていなかった。部下を見殺しにするよりは、助けようとして死ぬ方がましだ。

「すみません。道を教えていただきたい」

 その時、白い地獄には似つかわしくないのんびりした声が聞こえてきた。グリドラは、はっとして辺りを見回した。だが、ただ白い闇があるだけだ。

── 幻聴か ──

 冬山で迷うと幻覚、幻聴に襲われると言う。そして、その後に訪れるのは死だ。グリドラは、ぞくりとした。オレはあきらめない、と心でつぶやき、獣のような咆哮を上げた。

「そこまで大きな声を出さなくても聞こえます」

 今度は耳元で声がした。グリドラが声の方に目をやると、白い闇の向こうにおぼろげに、男の顔が見えた。その目には見覚えがあった。

「父さん」

 数年前亡くなった父と同じ眼差しだった。今度は幻覚か? さすがのグリドラも怯えを感じた。

「もしや、セレンドールの王族の方ですか?」

 のんびりした声が返ってきた。


 気がつくとグリドラは誰かの肩にかつがれていた。吹雪は収まっていた。雪はまだ降り続いていたが、視界を遮るほどではない。雪の降るさらさらという音に混じって、規則正しく雪を踏む音が響いている。

「助かったようですね」

 声のした方を見ると、自分が背負っていたはずの部下もまた肩にかつがれている。一人の男がグリドラと部下の二人をかついでいるのだ。部下は、突然現れた見知らぬ男が、遭難しかかっていた二人を助けてくれたのだと説明した。男は、グリドラのポケットにあった地図を見ながら麓へ降りようとしていた。道に積もった雪も数センチ程度の深さのようだ。さきほどまでの山中とは全く違う。

「麓の村が見えてきました」

 男がつぶやいた。

「ありがとう。助かった」

 グリドラは、男に言った。

「私も迷っていたので、地図があって助かりました」

 男は、淡々と語った。、まったく息が切れている様子がないことにグリドラは驚いた。右と左の肩に一人ずつ人間をかついで息も切らさないとは、大した膂力の持ち主だ。

 かすかに聞き覚えのある声が聞こえた。誰かがグリドラの名を呼んでいる。

「お、おろしてくれ」

 グリドラは、男の身体を叩いた。部下たちには、見知らぬ男にかつがれている姿を見せたくない。

 男は、かがむと無言でグリドラをおろした。

「礼をしたい。一緒にオレの宿舎に来てくれ」

 グリドラは、そう言いながら男の顔を見た。整った美しい顔の青年だった。少しえらが張っている。

── 目が父上に似ている ──

 グリドラは、男の目を見てあらためて思った。そして、なぜこの男は、自分のことを王族だとわかったのだろう、という疑問が湧いてきた。

「それは助かります」

 男は、グリドラの部下をかついだまま再び立ち上がった。グリドラが、男の素性を尋ねようと口を開きかけた時、

「隊長!」

 数名の部下が、道の向こうから駆け寄ってきた。グリドラたちの前で立ち止まる。

「悪い、心配かけたな。でも、もう大丈夫だ」

 グリドラはそう言うと見知らぬ男と、かつがれている部下を指さした。一同は正体不明の男を怪訝な目で見た。

「彼のおかげで助かった。ええと、名前はなんだっけ?」

 グリドラが言うと男は、

「ジディーラと申します」

 と軽く会釈した。名前を言われても、怪訝な表情は変わらなかった。男は地元の者のようには見えない。毛皮のマントをはおり、顔にはなにもつけていない。極寒の冬山で帽子も耳当てもなしというのは、考えられない。

「さあ、宿舎に戻ろう」

 膠着した妙な雰囲気を破って、グリドラが声を上げた。グリドラが、率先して道を歩き出すと、一同はそれに続いた。麓にある宿舎の近くまで来た時、一人の女性が宿舎から飛び出してきた。辺境警備隊唯一の女性、リシュカだ。グリドラの前で立ち止まると、心配そうな表情でグリドラをにらみつける。

「グリドラ様、なんて無茶をするんですか」

 声が震えているのは、グリドラを待っていた間の緊張と不安が抜けていないためだろう。

「いいじゃないか、うまくいったんだし」

 グリドラは、肩をすくめるといたずらを見つけられた子供のような表情を浮かべた。

「バカ、あんたはもう子供じゃないの。隊長でしょ。ドロイに迷い込んだら魔物に食い殺されるところだったんですよ」

 リシュカは、そう言うとグリドラを抱きしめた。小柄なグリドラはリシュカの身体に包み込まれた。リシュカは、グリドラよりも十年上だ。子供の頃からの教育係兼遊び相手をつとめていた。おかげでいつまで経っても頭が上がらない。

「おい、よせよ」

 グリドラは、リシュカの腕から逃れた。リシュカに抱きしめられて、身体が熱くなっていた。彼は、リシュカにほのかな恋心を抱いていた。

「もう」

 リシュカは、やれやれといった様子でため息をついた。だが、次の瞬間、はっとしたような表情を浮かべて固まった。グリドラが、リシュカの視線の先に目をやると、ジディーラが立っていた。

「すまん。なにもないところだが、とりあえずあったかいものでも飲んで、よかったら今晩は泊まっていってくれ。礼をしたい」

 グリドラが言うとジディーラは、ありがとうございます、と頭を下げた。

「リシュカ、おい、リシュカってば」

 グリドラは、ジディーラに見入っているリシュカに声をかけると、ジディーラの世話を頼んだ。

「命の恩人だから丁重に扱ってくれ。オレはちょっと休んでくる」

 そう言うと先に宿舎に戻った。リシュカは、ジディーラを見つめたまま、はい、と答えた。

 グリドラは、自分の部屋に戻ると熱いシャワーを浴び、ベッドに身体を横たえた。顔と手足に凍傷があったが、大したことはなさそうだった。


「ジディーラ様から、お話があるそうです」

 ベッドでうとうとしかけた時、リシュカが部屋にやってきた。グリドラは、はっとして跳ね起きた。

「しまった。うとうとした。今、何時だ?」

「もうすぐ昼ですよ」

 リシュカは、グリドラの顔をうかがうようにじっと見た。身体の調子が気になるのだろう。

「じゃあ、ジディーラと一緒に食事しながら話を聞くことにしよう。それでいいかな?」

「わかりました。そのようにお伝えします」

 リシュカは答えたが、部屋から出ようとしなかった。

「どうした?」

 グリドラが訝しげに尋ねると、

「あの、おそばでお世話させていただいてもよろしいですか?」

 おずおずとリシュカが言った。顔が赤い。リシュカがいつもと違う。グリドラは、いやな感じがした。

「いいけど」

「ありがとうございます」

 リシュカは、一礼するとそのまま去っていった。


 昼食は、グリドラの部屋で取ることになった。食事の間、三人ともあまり話をしなかった。時折、グリドラがジディーラに質問をしたが、ジディーラは素っ気なくひとことで答え、会話は広がらなかった。リシュカは、じっとジディーラを見つめていた。鈍感なグリドラもさすがにリシュカの様子がおかしいことに気がついた。

「礼はなにが欲しい?」

 グリドラがジディーラに尋ねた。

「地図をいただければ助かります」

「地図? ああ、それくらいは問題ない。他に欲しいものはないのか?」

「そうですね。あえて言えば、道案内です。グリドラ様は、辺境警備隊の隊長でいらっしゃる。多くの人間を管理なさっている。そのうちの一人を私にお貸しください」

「ふうん、そりゃ難しい。命の恩人とはいえ、人をひとりつけるのは、そんなに簡単に決められない。どこにいくつもりなんだ」

「国王の謁見を賜ろうと考えております」

 ジディーラは、こともなげに言った。

「お前、なにものだ?」

「私はアガルタの者です。国王にお会いするためにまいりました」

 アガルタとは隣の大陸だ。昔からほとんど交流はない。

「午睡の民……なのか?」

 グリドラは、つぶやいた。アガルタ大陸には、「午睡の民」という不思議な種族が住むと言われていた。

「セレンドールの方は、そう呼ぶようですね」

「なにしに来た?」

「セレンドール国王にご挨拶しようと思いまして」

「行ってもおそらく会えないぞ」

「行くだけ行ってみます」

 グリドラは、男の姿をあらためて観察した。あやしい雰囲気はないが、たった一人で大陸からやってきたようには見えない。あまりにも軽装だ。国王に謁見するならば、しかるべき人物からの正式な紹介と豪華な献上品、従者は必要だろう。ちょっと変わった男なのかもしれない。どのみち、たった一人で宮殿に行っても、大したことはできまい。だが、自分の部下を同行させるわけにはいかない。グリドラは、腕組みをして考えた。

「たった一人でアガルタからいらしたのですか?」

 グリドラが考えていると、リシュカがおずおずとジディーラに話しかけた。声が上ずっている。

「はい」

「大変ですね」

「当然のことです。人は神の道具。神の命のまま動くだけです」

 リシュカが驚いたような顔でジディーラを見た。二人の目が合った。

「ご立派です」

 リシュカは、小さな声でそう言うと顔を伏せた。

 食事が終わると、グリドラはジディーラに地図と路銀は与えるが、案内係は無理だろうと伝えた。

「そうですか。アガルタの神は、セレンドールの王への挨拶とともに、民が持つ感情や考え方を理解するよう私に命じられました。案内係の方がいれば、それも教えていただけると思ったのですが、残念です」

 ジディーラはそう言うと部屋を辞した。


 ジディーラが部屋を出て行ってからも、リシュカはテーブルの傍らに立ちつくしたままだった。

「どうした?」

「おひまをいただきたく思います」

 リシュカは、視線を自分の爪先に落とし、堅い声で言った。

「え?」

 グリドラは絶句した。子供の頃からリシュカとは一緒にいた。家族、姉弟と言っても過言ではない。いるのが当たり前の存在だ。リシュカもそう思っているだろうとグリドラは思っていた。突然、やめたいと言われる心当たりはない。

「私は、ジディーラ様の案内係をしたいと思います。お願いです。一緒に行かせてください」

 リシュカは、そう言うと床に膝をつき、頭を深く垂れた。堅い口調には断固たる決意がみなぎっていた。

 しばらくグリドラはなにも言えなかった。

「お前、なにを言ってるかわかってるのか?」

 ややあって、口を開いた。

「わかっています。私はグリドラ様にお仕えする者。勝手にこのようなことを申し上げられる立場ではありません。グリドラ様がお怒りになられるのも当然のことです。このまま首を刎ねられてもかまいません」

 そういうことじゃない、とグリドラは思った。立場とか、身分とかではなく、姉弟のように暮らしてきた自分を置いて、会ったばかりの見知らぬ男についていきたいと考えることが理解できないのだ。

「そうじゃない。なんであの男についていきたいのかが、わからないんだよ」

「あの方を好きなのです」

 絞り出すような声でリシュカが答えた。リシュカの言葉を聞いたグリドラは、胸に痛みを感じた。自分以外の男にリシュカの心を奪われることがつらい。

「会ったばかりじゃないか。ろくに話もしてないだろ。そんなんで好きになんかなるもんか」

 口の中に苦いものが湧いてきた。なにかの間違いだ、と怒鳴りたくなる。

「関係ありません」

 リシュカは目を上げると言い返した。

「あいつがどんなやつかわからないだろ。とんでもないやつかもしれないぞ」

「かまいません」

 リシュカは、きっぱりと言い切った。

「グリドラ様、あなたにはわかりません」

 そして、追い打ちをかけるように言葉をついだ。

 オレにはわからないってどういうことだ。グリドラは自分の膝から力が抜けるのを感じた。

「私は十四歳の時からあなたにお仕えしてきました。今、二十五歳です。セレンドールで二十五歳といえば、とうに婚期を逃した女です。あなたは私に目をかけてくださった。私も、とてもうれしく思います。でも、周りのみなさんは、私はあなたの女、お手つきなのだと思っているのです。王族のお手つきに手を出す男などおりません。かといって私はあなたの妻になるような身分ではございません。それでもよかったのです。私は、あなたにお仕えして、不満は全くありませんでしたし、本当に幸せでした。でも、ジディーラ様に会った時、わかったのです。あの方と会うために私のこれまでの人生があったのだ、と」

 グリドラは愕然とした。結婚、お手つき、そんなことは、今までみじんも考えたことがなかった。リシュカに対して、知らずにひどい扱いをしていたのかもしれない。そう思うと苦しくなった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「オレが悪かったのか?」

 グリドラの言葉を聞いたリシュカは、諦念を込めた吐息をもらした。

「誤解しないでください。あなたは私によくしてくださいました。私も弟のようにあなたを愛しました。でも、女が王族のおそばにずっと仕えるということは、そういうことなんです。一生、仕えた方の影となって生きるということなんです。私はそのことをあとになってから知りました。きっと両親は、最初から知っていたのだと思います。その方が私の幸せだろうと思っていたのでしょう」

 グリドラは混乱した。どうすればよいのかわからない。なにかが悪いのなら、直せばいい。いやなことがあるなら、やらせなければいい。しかし、リシュカが言っているのは、そういうことではないのだ。

「なにが問題なんだ?」

「なにも問題はありません。ジディーラ様に会わなければ、私はこのままあなたにお仕えしていたでしょう。でも会ってしまった」

 そう言うと、リシュカは唇を噛んだ。グリドラは、目眩を覚えた。

「グリドラ様、私はあなたのことを愛しています。でも、それは弟を愛するようなもの。ジディーラ様には、男として惹かれるのです」

 グリドラは、全身に電撃が走るような衝撃を受けた。身もだえするようなせつなさが襲ってきた。

「オレは違う。オレは、オレは、ずっとお前が好きだった。お前がいないと困る」

 グリドラは叫んだ。ひそかにいだいていた恋心をこんな形で口にしたくなかったが、思わず口をついて出てしまった。リシュカの笑顔を見た時、手を握った時、抱きしめられた時のくるおしい思いが浮かんできた。

「今まで、そんなことは一度もおっしゃったことはないじゃありませんか。今さら、そんなことを言われても、私にはどうすることもできません」

 即座にリシュカが甲高い声で怒鳴り返した。グリドラの中でなにかが壊れた。ぎりぎりでせき止められていた感情が、あふれだしてもはや制御できない。彼は、リシュカの前に伏せて泣きじゃくった。

「あなたは、まだ子供です。いつかわかる日もくると思います」

 グリドラは十五歳だった。きっと本当の恋をしたこともない。女も知らないだろう、とリシュカは思った。

「あんな正体不明のやつについていって、どうなるっていうんだ。ひどい目に合うに決まってる。死ぬかもしれないぞ。死なないでくれ。そばにいてくれ」

 グリドラは、リシュカの手を握って哀願した。

「わかってない。グリドラ様は、やはり全然わかっていません。あなたが、雪山で迷ったと聞いた時、私がなにを考えたか教えましょう。最初、私はあなたのことを心配しました。でも、次に思ったのは、もし、あなたが帰らなかったら私はどうなるんだろうということです。あなたがいなくなれば、たった一人の女の私が、辺境警備隊の男たちの中でどういう扱いを受けるか簡単に予想できます。十四歳の時、あなたに仕えてから、私の運命はあなた次第。私は、あなたの付属物だったのです。でも、ジディーラ様についていくということは、私が決めたこと。一度くらい自分の運命を自分で選びたいと思います」

 付属物と聞いたグリドラは、自分のリシュカへの思いが穢されたような気がした。

「お願いです。もし、許していただけなければ、この場で死にます」

 リシュカが床に頭をすりつけた。断れば本当に死ぬかもしれない、とグリドラは思った。もうリシュカを引き止める方法はないような気がした。

「わかった」

 ジディーラの用事が終わったら帰ってきてくれ。そう言いたかったが、リシュカは帰ってこないだろうとわかっていた。だから、言えなかった。

「ありがとうございます」

 リシュカはその時、初めて涙を見せた。


 リシュカが部屋を出ると、グリドラは椅子に座りなおした。じっと床を見つめ、微動だにしない。

 数時間後、部屋の外から、ジディーラ様をお通ししてもよろしいですか? という声がした。グリドラは、あわてて姿勢を正し、通せ、と答えた。

 ジディーラは部屋に入ると、地図と路銀について礼を言った。そんなことは、どうでもいい、とグリドラは怒鳴りそうになった。

「教えていただきたいことがございます」

「なんだ?」

 グリドラは、きっとリシュカのことだ、と思った。案内係として、リシュカを連れて行きたくない。この男がそう言えば、リシュカを失わずにすむ。期待を込めて、ジディーラの次の言葉を待った。

「さきほど頂戴いたしました地図とお金は、あなたが管理しているものです。あなたが私にくれるのは理解できます。同じように、この警備隊もあなたが管理しているものです。ですから、警備隊に属する者をあなたが私にくださるなら理解できます」

 グリドラは、ジディーラがなにを言わんとしているかを悟って鳥肌が立った。淡い期待は失せ、代わりにどす黒い怒りが湧いてきた。この男は、リシュカをもののように語ろうとしている。

「リシュカ様が、私の部屋にいらして、私に同行します、とおっしゃいました。聞けば、ご自分で同行したいと申し出して、あなたに了解を得たという。なぜ、リシュカ様は、あなたの管理物なのにそのような勝手なことができるのでしょう? 理解できませんでしたので、確認も含めてお話をうかがいにまいりました」

「確かにリシュカの言うとおりだ。許可した。人間には心というものがある。いくら決まり事があっても、それに従えないことだってある。それを止めることはできないんだ」

 リシュカの心まで管理できるなら手放したりしない。グリドラは、怒りに満ちた目で男をにらみつけた。

「決まり事に従えない。それは、あってはならない無秩序、規則違反ですね。つまりグリドラ様は、リシュカ様の規則違反を許可したということでしょうか?」

「確かにオレはここの隊長だし、隊の秩序は守らなければならない。でも、人間にはものを考えたり、行動したりする自由がある。リシュカにだって誰かを好きになったり、ついて行きたいと思ったりする自由はある。心は自由だ」

 グリドラは怒りといらだちを押さえることができなくなってきた。ジディーラの淡々とした口調が、神経を逆撫でする。

「自由? あなたがたはセレンドールの神に帰依しているとうかがいました。神に帰依したものには自由な意志などないのではないですか? 人間は神の意志を具現化する道具でしょう」

「神様を信じてたって、誰を好きになるかまで神様が決めるわけじゃないだろう。なにを言ってるんだ、お前は」

 リシュカの話も理解できなかったが、それとは違う次元でこの男の言っていることはわからない。人間が神の道具? 人間に心はいらないと言っているのか? 心があるから人間じゃないか。グリドラは唇を噛んだ。

「私は、神は世界の全てを細部にわたるまで管理するものだと思っていました。この地では、そうではないのですね。つまり、あなたがたの神は管理を放棄しているわけですね。それなら、わかります。管理を放棄された生き物がそれぞれ無秩序で規則に縛られずに行動していると考えれば理解できます」

 なんというひどい言い方だ。グリドラは、侮辱するつもりか、と怒鳴りそうになり、なんとか思いとどまった。ジディーラの表情に邪気は全くない。この男は、自分の言ったことが相手にどのように受け止められるか、わかっていないのだ。

「じゃあ、神様に管理されているお前は、リシュカを好きじゃないのか?」

 だったらリシュカを連れて行くな、そう言いたかった。

「私にとっては、地図と同じです。私の旅に役立つ道具のひとつでしかありません」

 グリドラは、リシュカをこの場に呼びたかった。この言葉を聞けば考えが変わるだろうと思った。

「リシュカ様にも、そのように伝えました。私にとって、あなたは地図と同じ道具です、と申し上げたところ、それでもよいとおっしゃいました」

 それを聞いてグリドラの思考は完全に停止した。今まで感じたことのない完璧な敗北感と虚無感にとらわれて動けなくなった。

 ジディーラは、しばらく黙ってグリドラを見ていたが、やがて

「確認は終わりましたので、私は失礼させていただきます。明日、早朝には出立いたします」

 と言って部屋を出て行こうとした。

「リシュカを大事にしてやってくれ」

 グリドラは、その背中に声をかけた。言ってから果たしてジディーラに理解できるのだろうか、と思った。

「大事? その意味は理解できませんが、ご安心ください。道具は壊れぬよう使いますので」

 聞きようによっては冷酷非道な言葉だ。それをジディーラは、邪気のない声で、さらりと言ってのけた。

 こいつは化け物だとグリドラは思った。あたたかみというものが全くない。それなりの理屈は通っているのかもしれないが、あいいれることは決してない。姿形がおそろしい生き物よりも、意思の通じない相手がこれほど怖いものだとは思わなかった。



 翌日の早朝、グリドラは一人でジディーラとリシュカを見送った。ジディーラは形通りの挨拶をなんの感情も込めずに語った。リシュカは、泣きそうな顔をしたまま、なにも言わなかった。グリドラも黙って、ただじっと二人を見ていた。二人は歩き出した。

 二人の姿が白い道の彼方に消えるまで、グリドラは立ちつくしていた。リシュカと過ごした幼い日々が走馬燈のように頭をよぎる。耐えられないせつなさにグリドラは嗚咽した。

── オレはこのことを一生忘れないだろう ──

 あんな化け物と会うことは二度とないだろう。もし、会うようなことがあれば殺す。必ず殺す。あれは、この世にはいてはいけないものだ。自分たちとは本質的にあいいれないものなのだ。

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