クロッカスを一ヶ月

兎鼡槻《うそつき》

エゴイストの成功例

 太陽に唾を吐いて届く可能性は0じゃない。


 今日も赤い色彩が目に染みる。


 ボクは目尻に浮かぶ涙を折り目が残るシャツで拭った。鼻の奥に洗濯洗剤の香りがふわりと入り込んでくる。


『――昨日の待ち人は0名だそうです。』

『へぇー! 今日で二十日連続じゃないですか?』

『そうですね! 二十日連続で一人もいないというのは4年ぶりだそうですよ! でも、過去最高記――。』


 スマートフォンを閉じて賑やかしで点けていたテレビも消す。すると、自室のドアから軽い音がした。


アイ君、おはよう。ご飯。」


 それは月曜日の呼びかけではない。いつも通り、いつもの時間にボクの従姉妹である璃音リネが、ボクに朝食のタイミングを告げたのだ。既に制服に着替え終わったボクは、女性らしく落ち着いた声に惹き寄せられる様に学生鞄を掴んで部屋から出る。


 行ってきます。


 心の中でそう、誰も居ない部屋へ言葉を捨てて。


 階段をゆっくりと降りてリビングに入ると、淡い朝の日差しを照明に暖かな家族がボクを迎えてくれる。


「おはよう。」

「おはようございます。」

「それと、いってきます。」

「い、いってらっしゃい。」


 入れ違いでスーツ姿の養父おじさんがリビングを出ていく。今日は出る時間が少し早いみたい。ボク等の為に働く姿はいつだって格好良く、社会に出るまでの時間が短くなるにつれ尊敬の念が強まるばかりだ。


「おはよう。」

「ん。」

「おはようございます。」


 キッチンで洗い物をする養母の挨拶と、口にバターロールを含んだ璃音の略式挨拶に応える。


「んくッ……先行く。」

「うん。朝練月曜にもやるようになったんだっけ。」

「そう。」

「じゃあまた後で。」

「ん。」


 静かに玄関に向かう璃音。水泳部のホープでもある彼女は、ボクの三倍以上朝ごはんをお腹に詰めて学校に行く。凄い美味しそうに食べるから、ついついこっちまで食べ過ぎて朝の授業が辛くなっちゃうんだよね。って、これ!


「璃音! お弁当!」

「!?」


 ボクの言葉に反応してすぐに駆け戻った璃音はキッチンから乱暴に養母おばさん特製弁当を掴んで行く。


「危ないから走んないのー。」

「ん!」


 養母の間延びした注意に返事はしつつ、勢いを緩めずに玄関へ走っていく璃音。


「……全く。」

「アイ君から丁度良さってモノを学んで欲しいわよね。」

「はは……。」


 多感な時期の青年になんという事を言うのか。只管ひたすら他人とは違う部分を求めるはずな一介の男子高校生には何とも返し難いフリである。


 そう、ボクは普通の人間だ。



 ――両親が死んでいるという境遇以外は。



*****



 学生のやるべき事は勉強だ、と先人は口を揃えて言う。でも、ボクは捻くれているからこう言い返してやるんだ。


『それ以外はやるべき事じゃないのか。』


 ってね。


藍火アイビ、寝るなよ。」

「起きてます。」

「なら、黒板を見ろ。」


 先生に注意をされてしまったけど、ボクは今この授業にとても興味がある。でも、ボクは黒板を見るより先生の声だけを聞いてる方が集中出来るんだ。他にもこういう人って居るんじゃないかな? 急いで黒板を書き写すよりよっぽど覚えがいいんだけど。


 そして、今は公民の特別授業。


「九十二年、島根県で最初の感染者が見つかった。知っての通り、殺人病は殺人衝動を増幅させるという症状がある。この島根感染災害で待ち人認定された数は? 藍火アイビ、ついでに答えてくれ。」


 寝耳に水、ではない。さっき述べた通り臨戦態勢ではあったのだ。ボクは立ち上がって返答を投げる。


「……はい。四人です。」


 問題はボクの知識で答えられる程度のものだった。サッと答えて静かに座る。


「そうだ。待ち人認定者”が”四名、殺人病感染者は不明だ。テストで間違えるなよ? 死者八百五十六856名、このパンデミックは世界でも知られる大災害となった。その後も日本中でその感染者は現れるようになったが――。」


 殺人病。なんともチープな呼び名である。それは、簡単に説明すると『日常に新しい選択肢”殺人”が加わる』という病だった。遺伝子の異常によるこの新しい病は感染者に触れると何かが蓄積し、一定以上それが溜まると発症するんだとか。感染したら今までと同じ性格のまま自然に殺人を犯すようになる。ネットの匿名掲示板に降臨した自称感染者本人によると、殺人が何故悪いのかがわからなくなるらしい。例えば、眼の前に邪魔な人が居た時、こう選択肢が浮かぶわけだ。


 一、一声掛けてどいてもらう。


 二、手で無理やりどける。


 三、殺す。


 論理的に考えて目的地へ向かう為には後々邪魔が入らないよう穏便な手段を選ぶ訳だが、急いでいれば選択肢の二を選ぶ人だっている。それと並び、何食わぬ顔をして選択肢三という存在が立っているそうだ。違和感も感じず、突飛でもないただの手段の一つとして。


 だからこそ周りは一見感染者と気付かない。気付けない。もしかしたら、本人ですら。でも、もう体の異常としては研究が進んで定義されている。感染者と化す前に人体は何か予兆を表すという世紀の大発見を経て事は急速に進み出したのだ。政府は九十八年より、新生児の首の後ろにマイクロチップを埋め込む事を義務付けた。


 つまり、人体の監視を始めたのだ。ある日突如現れる感染者の為に。マイクロチップはその予兆を感知して信号を発する仕組みだ。そして、感染者が十五歳以下であれば待ち人認定とされるのである。


 昔は月一で定期検診を受けさせられたりしたなんて事を親や先生は言う。だが、上の世代のそんな苦労もあってか、現代に置いて感染者は言い伝えられているだけの存在に成り果ててしまった。


 日本で一年間に見つかる感染者は三千人前後、その中でも待ち人は五百人前後。自殺者や交通事故での死者よりもショボいと言わざるを得ないその数はどうにも感染者の権威を落としてしまっている。


『ブブッ。』


 突然ブレザーの胸ポケットにしまった携帯が自己主張を始めた。


『ブブッ、ブブッ、ブブッ……。』


 あぁ、もううるさい!


 ボクはこっそり机の下に携帯を降ろし、画面を確認する。案の定タクミの仕業だ。


『わかってるだろうけど』

『今日は例の日だぞ!』

『こっちの準備は万端だ!』

『この授業終わったらもう終礼サボって帰るぞ!』


 なんて強引な。疑われたら駄目じゃないだろうか?


 でも、こういう時くらい少しは無茶しようかな。だからボクはこう返す。


『おっけ』


 ボクはグレちゃいないけど、真面目とも思われてない。今日は掃除当番でも無いしね。リスクは妥当かな。



*****



 ここは時代ときしろ家の一軒家、つまりは自宅、ボクのげんなりした顔を気にせずタクミは話を続ける。


「ほらぁ、璃音は気の置けない女友達が居ないだろ?」

「そうかなぁ……? それが本当だとしてもその案は……。」

「男同士で集まれば何も気にせず遊べるだろうが! それはきっと女でも同じだ!」

「でもだからって……。」


 ボクが視線を落とすと、そこにはパンパンに膨れ上がった巧のカバンが置いてあった。それを巧はウキウキしながら開封する。


「見ろ! ウチの制服だ!」

「待って。」


 巧が自慢げに取り出したのはウチの”女子用”制服である。


「ちょっと電話してくる。」

「待て待て待て待て! スマホからその指を離せ。」

「……。」

「一を押したな? もう一度押した。最後に押す番号を当ててやろうか?」

「……。」

「おいこら無視して普通に零を押すんじゃない。ってこらーッ! 本当に掛けようとする奴が何処に居る!?」

「ここに。」

「いッばッしょッじゃ、ねーわ!」

「あっ。」


 巧は割と本気で焦った表情でボクからスマホを奪い取ると、そっとボクのベッドの上に置く。


「コレは! 姉貴の!」

「窃盗じゃん。」

「正論を吐くな! 埋めるぞ!」

「は?」

「……ぁ、いや、なんでもない。ごめんなさい。ちゃんと汚さず返すんで。今日だけ付き合って下さい。」

「態度って大事だよね。そう言えばなんでか知らないけど昨日からボクの財布が何処か淋しい気がするんだよねぇ。」

「昨日借りた五十円はもう少し待って下さいお願いします。」


 急に殊勝な面持ちで服を脱ぎだしてブリーフ一枚だけになる巧。意味はわからないけどボクは言葉を続ける。


「五十円? そんな額だったっけなぁ……丸が一個足りない様な……。」

「ぇ……そ、そうでし……た……五百円でした……。」

「……冗談だよ。でも、今日なんか無茶苦茶な事したら慰謝料は貰うかもだけど。」

「女装してお出迎えは……?」

「……友達、だもんね。」

時代ときしろォ! 愛してるぜぇ!」

「待って、その格好で抱きつこうとするのはヤメて。」

「……チッ。」


 やっぱり貰おうかな五百円……。



*****



「ただい――。」


『『パンッ!』』


 玄関のドアを開けられると同時に二つの破裂音が響く。鳴らしたのはボク達。端正な顔をキョトンさせ、頭に幾つかの紙紐を垂らしたまま固まってしまう璃音。


「おかえりぃ!」

「お、おかえり……。」


 正反対なテンションの男が二人で御出迎えをする。そこは多分別段不思議な事ではない。巧はよくウチに来て遊ぶ。あぁ、でも御出迎えはしないかな。


 でももっと警戒に値する点、それはどう考えてもボク等の女装姿他ならない。ミニスカートを棚引かせ、っぱいをえて盛らずにブレザーを羽織る巧は威風堂々たる御姿おすがたいや、女姿めすがたと言える。


 こ、これ、思った以上に恥ずかしい……! 


 なんて思った矢先、璃音がおもむろろに巧の襟元を絞り上げる。


「何の騒ぎ。」

「ちょっ!? ちょっ、待て! なんで怒ってんだ!?」

「怒ってない。聞いてるの。」


 ムフーッと大きく鼻息を吐いて尚も巧を問い詰める。


「アイ! 言ってやれ!」

「た、誕生日おめでとう! 璃音!」

「…………?」


 璃音はどういう事? とでも言いたげに首を傾げて塩素で赤茶けたショートヘアーを揺らす。


「誕生日は、来月。」

「その通りだ! だがそんなバレバレの日にサプライズを用意するなど愚の直行!」

「骨頂ね。」

「……大人しく俺等に祝われろォグッ!」


 璃音は、静かに巧の襟元を強く絞り上げて俯く。そして、ボソッと呟いた。


「……ありがとう。」

「ぃよおし!!! 一先ひとまずは成功だぞ! アイ!」

「う、うん。」


 君、よく足が地面から離れそうになってるのにそんな余裕でいられるね。断言するけど、今後一生そんな格好で感謝される場面に出会でくわさないと思う。


「で、その格好は何?」

「「…………。」」


 璃音はどんな場面も冷静だ。入学式、試合前、旅行当日そんなイベントで得た感情だって殆ど漏らさず自分の中で処理をする。


 表現っていうのはある程度の情報量がないと相手に伝えられない。彼女はその表現が苦手なのである。それでも、ボクと巧には他の人と比べて圧倒的に自分を表現してくれる。


「ほら、何年も続けて男二人に祝って貰うのもなんだろ? だから今年はンナとして祝ってやろうと思ったんだよ! なっ? アイ、そうだよなっ?」

「うん。巧の首の筋肉凄いね……。」

「何に頷いてんだァ!? それは同意だよなァ!?」

「つまり、これは巧が考えた……。」


 そうボソッと吐くと巧の襟元から手を離す璃音。


「カハァッ! スーッ! ハーッ! スーッ! ハーッ!」

「あ、やっぱり辛かったんだね。」


 なんて冷静に感想を言うボクも何処かおかしいのかもしれない。だけど、そんなボク達を無視して自分の鞄を漁り始める璃音。


「せ、制服なら姉貴のだからな!?」

「知ってる。それよりアイ君、それ写真――。」


 璃音がおもむろに自分の学生鞄からスマートフォンを取り出した時だった。勢い良く扉が開けられたのは。


「璃音゛! これ!」


 顔を皺と涙でぐちゃぐちゃにした養母おばさんが差し出した封筒は、これ以上なくあかい。



 ――殺人病認定書だ。



*****



 昨晩は地獄の様な夜だった。号泣する養母おばさんと茫然自失状態の璃音。巧はそれこそ何か言おうとしてたけど、二人を見て何も言い出せずボクと一緒にお小遣いの成れの果てで飾ったリビングとダイニングを片付けて帰った。その後メッセージで『ごめん』とだけ来ていたけど、ボクはそれを受け取る事も拒絶する事もできずにいる。


 そして、仕事を早退してきた養父おじさんはもうこの世の終わりの様な顔をしていて……ボクは大の大人があんな風に声を挙げて泣く所を初めて目にしたのだった。まるで、これからの璃音が流すはずだった分、璃音に流すはずだった分まで全部吐き出すみたいな……。そのせいかボクと璃音は殆ど頬を濡らさなかった。


 璃音は十五歳。待ち人は十五歳以下までの対象と法的に区切られている。殺人病発症の兆候が感知された場合、犯罪歴の無い十五歳以下は治療法が確立されるまでコールドスリープ保存される。少子化に悩まされる日本がとった苦肉の策だった。いつか治療される事を待たれる存在。故に待ち人


 その実行まで最低一ヶ月掛かる。凍結実行可能日から猶予は三ヶ月。殺人病を発症した十六歳以上は殺処分だ。そして、璃音の誕生日まで後……。



 ――――二十六日。 



「ぁ、アイくん。」


 喉が乾いて冷蔵庫を見に行こうとしていた所、目の周りを赤く腫らす璃音に声を掛けられる。今日、ボクと璃音は学校を休む事にした。養父おじさんも休むはずだったみたいだけど、璃音が軽く叱って午前休に留めた様だ。信じられない。ボクなら死刑宣告の翌日には絶対出来ない気遣いだと思う。でも、それが強がりだっていうのくらいボクにだってわかる。


「……養母おばさんは?」

「ご飯だけ買ってくるって。」

「そっか……。」


 言葉に詰まる。こんな時、なんて声を掛ければいいんだろう。


「今、甘えていいかな……。」


 然程さほど悩む間も無く璃音は要望を言ってくれた。ボクは不意を突かれたけど、今出来る事はなんだってしてあげたい。ボクはソファに座る璃音の横に腰を掛ける。


「まさかだよね。……日本で一年に死ぬ人の数って百万人強だから殺人病に認定される三千人って凄い少ないんだよ。交通事故で死ぬ人より少ないのに、そんなのに当選って……ウチ、今の内に宝くじ買ったら少しは親孝行出来るかな。」


 璃音とは思えない饒舌さと冗談に戸惑ってしまったけど、その声は聞き間違えようもなく震えている。


「……グスッ……駄目だぁ。嫌だ……嫌だよぉ……アイくん……。アタシ、死にたくない……! なんでアタシなの! しかも、誕生日のすぐ後だなんて! アタシが何したのぉ!」

「璃音……。」

「まだまだやりたい事いっぱいあった……! 水泳頑張って海外に留学しようとか色々考えてたのに……! アイくんとだって……! ……っふ……うぅぅぅぅ……。」


 涙も堪えずボクに抱きつき胸に顔を強く押し当ててくる。苦しくなるくらいボクを締め付けるのは璃音の腕か声か。ボクは返す言葉も見つからずただ頭を優しく撫でた。


 知ってるよ。璃音がどれだけ水泳を頑張ってるか。大会でいつもの調子が出せなかった時の悔し涙も、リベンジを果たして優勝した時の嬉し涙だって全部。ボクにしか見せてくれないって事実が今日は全く嬉しくない。ボクじゃ駄目なんだ。璃音を、彼女を支えるのはボクである必要なんてない。だってほら、彼女はボクの胸に抱かれても癒やされてなんていないじゃないか。


「変わって……あげられたら良かったのに。」

「……ぇ?」


 璃音が顔を上げる。涙で濡れた胸はほんのりと暖かく、しっかりと冷たい。


「ボクなら誕生日までもう少しあるし、そしたら待ち人になれるでしょ?」

「……そっか。そうだね。…………ありがとう。」


 何かに納得する璃音。ボクは何に感謝されたのか全くわからない。


「な、何が?」

「……パパやママじゃなくて良かったって考えるべきだね。アイくんじゃなくて良かったって。」

「え?」

「アタシは死にたくないけど、残される人の為に出来る事しなきゃだよね。じゃないと、アタシ、凄く後悔しそう。」

「璃音……?」

「殺人病って確か早めに行けば行くほど給付金みたいなの受け取れるんだよね。アタシちょっと調べてみる。」

「璃音……!」

「な、何? 大きい声出さないで。」


 ボクは璃音の言葉を聞いて冷静でいられず思わず声を荒げてしまった。でも、そんな事させない。


「そんなお金の事なんて調べなくっていい! 養父おじさんや養母おばさんがお金の為に残り少ない時間を捨てると思ってるの!? 他人の事なんて考えなくていいんだよ! もっと……もっと自分を……大事に、して……。」


 言葉が続かない。ボクが泣いてどうするんだ。今、璃音を励まそうとしてるのにこれじゃあ……。


「ごめん、ごめん……アタシ……。」

「一緒にいたいよ……璃音ぇ……。」

「アタシだって……ぇぇ……ううううぅぅ……。」


 ボク等の塞き止められていた感情が決壊したかの様に溢れてくる。寂しさ、悲しさ、悔しさ。全部を詰め込んで声として吐き出す。このまま何処か知らない所へ逃げてしまいたい。でも、認定者である人を匿えば犯罪者を匿うのと同じだ。だからそれを助けた人は捕まるし、一緒にいる人だって殺人病の被害にあうかもしれない。そんなのは璃音が一番避けたがっていると思う。


 でも、そんな璃音だから自分を大事にして欲しくて……。


 我儘なのかな。



*****



『パパー! 見てー! おさかなおっきー!』

『アレはイルカだから魚じゃないんだぞ? パパや璃音と同じで哺乳類の仲間なんだ。』

『アタシと同じ!? じゃあアタシもあんなふうにおよげる?』

『そうだぞ!』



 暗がりのリビングから聞こえる声。深夜、トイレから起きたボクはチカチカと瞬く青白い光に誘われてリビングを覗き込む。ソファーには養父おじさんと養母おばさんが無言で幼い璃音が映るテレビを見ながら酒を煽っていた。照明は一つも点いておらず、一見ホラー映画のワンシーンにも見えるが、ボクは全ての顛末を知っている。


「……ふぅっ……。」

「十五年も……経ったのね……。」

「なんで、璃音が……。」

「まさか、娘の命を奪われる為に判子を押さなきゃいけないなんて……。」


 嗚咽おえつを漏らす養父おじさんに語りかけるでもなく養母おばさんが独り言を漏らしている。


『ほんと!?』

『本当だ!』


 在りし日の映像に映る璃音はいつものにこやかな養父おじさんを見ているんだろう。ソファに座る養父おじさんだって嬉しそうな璃音を見ているのに……。


「……ッ……嘘……吐いちまったなぁ……。」


 虚空へ溶けていく懺悔の言葉。


「今日、買い物と一緒に戸籍謄本を貰ってきたわ……。」

「……そうか。俺は……ありがとうって言うべきなんだろうな゛……。言わなきゃまた、今朝みたいに怒られちま゛う。」

「……そう、ね。……なんで……!」


 これ以上は聞いていられない。そう思った。これから四ヶ月の間、この家は迫る一つの死を忘れなくてはいけないんだ。でも、良かった。


 ダイニングテーブルに目をやると、赤い封筒と印鑑、戸籍謄本が置いてある。


 

*****



 知ってるだろうけど、ボクの家は車中で炊いた練炭で一家心中をした。なのに幸か不幸か生き残ったボクを父さんの弟である養父おじさんが引き取ったんだ。ボクはかなりの重体だったって聞いてる。今生きている事が奇跡だって。でも、助かったのは養父おじさん夫婦が惜しみなく治療費を払ってくれたおかげなんだ。両親の生命保険は自殺という事もあり一円だって貰う事は出来なかった。


「はあっ! はぁっ!」


 そんなボクは貧乏神として時代ときしろ家の養子になったんだ。両親は貧困で自殺したらしいけど、練炭も車もあったのに何に絶望したのやら。


 そんなボクでもこの歳まで全く不便をさせず養ってくれたこの時代ときしろ家の人達には死ぬほど感謝してる。今時子供二人の養育費っていうのは馬鹿にならないよね。パート代と養母おばさんの知る節約術は凄く家計の役には立っているんだろうけど、夜パソコンで家計簿をつけながらしかめっ面をしてるのだってよく知ってるよ。


 璃音は海外留学に行きたいと中学の頃から話していたね。高校になったらバイトでお金貯めて海外に留学したいって。でも練習をしなきゃ本末転倒だし、そうなるとバイトで稼げる額も知れてくる。本来ならポンと出せてたかもしれないのに。原因はボク。ボクの治療費と養育費は疑いようもなくこの家を蝕んでいたんだ。


「なんで……!」



 そんな時だった。ボクに赤い封筒が届いたのは。


 なんでか知らないけどポストの手前に捨てられたみたいに落ちてたボク宛の赤い封筒。


 これをボクだけが知ってるのは神様がくれたチャンスだと思った。



 凍結実行に必要なのは同意書と戸籍謄本。同意書は保護者から確認済みであるという印鑑とマイナンバーが必要だった。本当ならこんな事をしたくなかったよ。でも、仕方なかっただんだ。凍結可能日から凍結実行登録が遅ければ遅い程、給付金は額を減らす。初日で五百万円、翌日で三百万、三日目で百万円、段々下がっていって二ヶ月過ぎると給付金は無し。ボクは最大額を貰う為にもどうにかして封筒が来てから一ヶ月以内に全ての材料を揃える必要があったんだよ。


 でも、マイナンバーだけはどうしても無理だった。滅多に使われないあの情報は印鑑の在り処みたいに簡単な探り方じゃわかりっこなかったんだ。ボクは足りない頭で考えに考え抜いた。その結果がこれだよ。


 ごめんね。偽の殺人病認定書なんて作って。こうでもしなきゃ怪しまれずおじさんとおばさんのマイナンバーなんてわからなかったんだ。


「ひゃだっ……! やだぁ……!」


 見本があるとはいえ、大変だったよ。似たような質感の封筒と似たような感じの書類作るの。おかげでワードとか上手くなっちゃってさ。おじさん達に偽造ってバレたらどうしようかと思ったけどわからなかったみたいだし。未来でもこれが役立てばいいな、なんてね。


 でも、死んじゃうかもしれないなんて怖がらせて本当にごめん。今度会ったら怒ってもいいからまた謝らせて欲しい。


 ボクは、大切な璃音を怖がらせてでも時代ときしろ家に恩を返したかった。


 いつになるかわからない。歳だってずれちゃうかもしれない。それでも、大人になった璃音が活躍している頃に目を覚ますと信じて未来で待つよ。一千万円で届く未来でね。


「一千万って……!」

「お客様、建物内では――。」

「あの! 凍結実行の受付って!」

「え、えぇ。あちら、四番の窓口になります。」

「ありがとうございますっ!」


 おじさんとおばさんにもいつか絶対謝りに行く。それと、巧にもね。あと、この封筒の中にクロッカスの栞入ってたでしょ。


 偽封筒作るついでに作ったんだ。余裕がなくて残せる物はお金とそれだけになっちゃった。


「あの! すみません! 今日! さ、さっき! えっ、えっと、時代藍火って男の子が受付に来ませんでしたか!?」

「申し訳ございません。そういった情報は個人情報――。」

「学生証! ほら! 時代璃音! 家族……! 家族なんです!」

「……少々お待ち下さい。」


 最後に、罪滅ぼしじゃないんだけどこの手紙を色々な人に見せるかもって思って。 


 自分でも卑怯だと思うけど、言わせて欲しい。


「お待たせ致しました。そちらの方は今朝、初日からの実行で来られた方ですね。」

「あ、あのっ! 検体申請は……!」

「えぇ、検体申請もされてございますので、給付金は倍となる見込みです。」

「やっぱり……! で、でも、それって死ぬ可能性があるから同意書が必要なんじゃ……!」

「はい。同意書も持ち込みされておりまして、不備等も特にはございませんでした。」

「……ッ……! 死んじゃったら……死んじゃったら返事出来ないじゃん……! バカぁ……ぁああぁぁぁぁ……。」



 ――また、会おうね。



*****



『また四番で待たされ人か。』

『待ち人を待つ待たされ人ね。待たせる人は何処に行っちまったんだろうな。』

『ドーナツの穴みたいなもんだ。待たせる人はいるのにいない。そして、待たせる人がいようがいなかろうが四番で泣く奴からすれば関係ないんだよ。』

『腹でも減ったのか? お前は腹が減るとすぐ哲学的になる。定時になったらいつものラーメン屋に行こう。』

『ラーメンだってそうだ。ラーメンが今すぐ食べられるかどうかなんて俺には関係ない。美味い物で腹を満たす事が大事なんだよ。』

『はいはい。仕事が終わったらな。』

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