「無職艦隊」兵器解説

零式艦上戦闘機(A6M/三菱) 米軍コードネーム「ゼロ」「ジーク」

「やつらは、そうだな。言ってみれば操縦桿を握ったオーガだ。ドイツ空軍ルフトヴァッフェ? 確かに強敵だろうがな? だがな、違うんだ。あいつらはもう違うんだよ」


 戦後有名となったアメリカ人戦史家メリスンは「零式艦上戦闘機」に関する著作を多くの残している。

 日本人の生み出した最も有名な飛行機であり、戦闘機であり、今後もこれ以上に有名な時代を越えて名を残す戦闘機が造られる可能性は低いだろう。


 アメリカを恐怖のどん底に落とし込んだ零式艦上戦闘機(零戦)、いったいどのような戦闘機だったのか?


■零戦の開発と堀越二郎■


 もし零戦が無ければ、そもそも太平洋戦争を始めようと日本は思っただろうか?

 そして、その性能が史実通りでなけば戦争の様相は一変していたかもしれない。


 日本海軍は九六式戦闘機でようやく欧米列強の水準を持つ戦闘機を手にした。

 しかし、「名機」と呼ばれる九六式戦闘機であるが、試作機で搭載したエンジンに不具合が発生。

 実際に戦場で運用された九六式戦闘機は、驚異的な性能を伝えられる試作機の性能を超えることができなかった。同機は多くの問題を抱え戦っていたのだ。


 そして、九六式戦闘機の後継機として零戦は開発される。

 1937年10月15日、航空本部が「十二試艦上戦闘機」の計画要求書を中島飛行機、三菱重工に提出した。


「アホウぁぁぁ!! 出来るわけねーだろ、バカじゃねーの。クソ海軍!! 殺すぞてめぇ!」


 その計画書を見た、三菱重工の堀越二郎氏は愛用のゴルフクラブをブンブントと振り回し社内で暴れたと伝えられている。

 稀有の天才・戦闘機設計者である堀越二郎氏にそのような行動(後にいつものことになる)をとらさせるほどに、その計画要求値は過酷だった。


 最大速度は270ノット(時速500キロメートル以上)。

 増槽装備時の航続力は巡航6時間+20分の戦闘飛行。

 上昇力、運動性は九六式戦闘機以上であること。

 武装は20ミリ機銃×2、7.7ミリ機銃×2、爆弾搭載力60kg×2。


 そして、これは航空母艦で運用される純粋な「艦上戦闘機」なのである。



「殺す!! 今から海軍に行って殺してくるぅぅ!! 皆殺しにする!」


 ゴルフクラブを持ち、血走った目で飛び出そうとする堀越二郎技師を曽根嘉年技師や上司が羽交い絞めにして止めたという逸話は有名だ。


 しかし、この要求は世界の航空機――

 なかんずく、戦闘機の要求性能とすれば、さほど際立ったものではない。

 ひとつひとつを見ればだ。


「デカスロン(十種競技)の選手に、全部世界記録か、それに近い記録を求めたモノでした」


 戦後の堀越二郎氏の言葉だ。

 彼は、曽根嘉年技師とともに、零戦の設計者となった。堀越二郎は設計主任者だった。

 中島が辞退したことにより、もはや選択肢はなかった。

 また、三菱の経営サイドも辞退などゆるさなかった。

 当然、堀越二郎氏による海軍航空本部への殴り込み敢行もだ。


 堀越二郎氏は血の匂いのするゴルフクラブを捨て、設計に取り掛かった。


 狂気を帯びて天才の頭脳は妥協を一切許さない徹底した軽量化により性能上昇目指す。


 徹底した軽量化は1グラム単位で計算された。偏執的な執念で設計され、要求性能を達成する。

 凄まじい重量管理の厳しさ―― 戦後になっても、そのことを聞かれた当時の設計メンバーは、口を閉ざし青ざめる。


 その間の堀越二郎氏のことを語る人は極めて少ない。

 ただ、戦後になって、インタビューされガクガク震え、失禁する者がいたという。

 すでにそこは、堀越二郎という天才に支配された「恐怖の戦場」であったのかもしれない。 


 1939年3月に試作一号機が完成し、翌月には初飛行を実施。

 計測された性能の書数値は全て、要求水準をクリア。


 この瞬間、世界史に名を残し、太平洋の空を「日の丸」で埋め尽くし、戦後のプラモデル産業を支える「ゼロ戦」が産声を上げたのであった。


■零戦の最強神話■


 零戦初期1号機は、テストを重ねながらも1939年秋までに64機の機体が生産された。

 この時、海軍は高速、重武装、大航続距離の戦闘機を必要としていた。

 アメリカから「セバスキー陸上複座戦闘機(A8V1)」を輸入し正式導入すら行うほどに追い詰められていた。

 大陸戦線における96式戦闘機は苦しんでいた。

 試作機で達成した速度、上昇性能はエンジンの根本的な問題により、最後まで達成できず、当時中国軍が投入し始めた高速爆撃機「SB2」の奇襲攻撃を捕捉することが困難になっていた。

 そのため、漢口の航空基地は大きな損害を受けていたのだ。


 輸入したアメリカ機も「カタログ性能」を出すことができず。偵察任務に使用するのが精いっぱいだった。

 そこに白羽の立ったのが、零式艦上戦闘だった。


 1940年、前線の強い要望から零式戦闘機が漢口基地の第十二航空隊に配備される。

 このとき、多くの搭乗員は零戦に「大きな重戦闘機だなこりゃ」という第一印象を持ったという記録が残っている。


 この時の零戦はまだ熟成されておらず、数々の技術的な問題を抱えていた。

 それでも、実戦投入が必要とされるほどに、大陸の空は日本にとって厳しいものとなっていた。


 ・エンジンの異常燃焼による気筒温度上昇

 ・主翼強度の不足と構造材の劣化の早さ

 ・20ミリ機銃弾の信管不良と供給不足

 ・20ミリ機銃の過熱による暴発リスク


 最新鋭機であるがゆえの未成熟故の欠点を抱え、その対策は現地で行われていく。

 そのような中、歴史的な初陣を迎えた。

 

 1940年9月14日――

 第十二航空隊の進藤三郎大尉を長とする零戦13機が歴史に残るデビューをした。

 

 27対0の完ぺきな勝利。圧倒的すぎる圧勝であった。

 被害ゼロだ。戦後の調査で、完全撃墜に至っていない機体があったことは確認されている。

 それでも、零戦の驚異的性能と当時の搭乗員の技量の高さは証明されたのだ。

  

 中国空軍の当時の一線級機であるI-16、I-153を全て叩き落とした。

 中国空軍のパイロットの錬度は低くなく、決して弱い敵ではなかったにもかかわらずだ。


 この戦闘の戦訓として「防弾装備」必要性が訴えられる。

 重量増加による性能低下を恐れた、技術士官サイドに対し、重慶作戦に参加した大西瀧治郎大佐(当時)は、当初は同意。


 しかし、太平洋戦争が始まると同時に「零戦は搭乗員の戦訓の通り防御を強化すべき」と意見を変える。

 背景には山本五十六大将などの指示があったと言われる。

 しかし、現時点ではまだ史料が不足しており定説には至っていない。


■ソロモンの零戦■


 本来、艦隊上空の制空権を維持するための艦上戦闘機として開発された零式艦上戦闘機であったが、その高性能は陸上運用でも発揮される。

 開戦初頭のフィリピン攻撃では、従来の常識を覆す長距離侵攻攻撃が実施された。


 フィリピン全土が日本軍の支配下になった後も、ゲリラ活動の首魁となり徹底的な抵抗を行い、終戦のキーパーソンとなったマッカーサー将軍は最後まで零戦が「空母で来んだろ? 嘘だろぉ? ははは」と、零戦が台湾から飛んできたことを信じなかった。


 彼は戦後手記の「書籍化」を果たすが、その中でも空母の存在を信じている記載がある。


 そして、虚空を血と硝煙と弾丸で埋め尽くすような熾烈なソロモンにおける日米の対決。

 その中でも、改造されエンジンを金星へと換装された零戦53型は、アメリカの繰り出す最新鋭機にも十分対抗した。


 その後も改造を加えらえ、主力機が「烈風」となった1944年以降も、日本海軍の航空戦力の重要な位置を担った。


 零戦の翼は、戦争の終る日まで戦いの空で舞っていたのだ。アメリカにとって恐るべき敵として。


■アメリカ側の評価■


「ジークだ逃げろ!」

「雷とジークに出会った場合は逃げていい」

「ジーク相手の禁則事項だ。1.ドッグファイトはするな。2.上昇するジークを追うな。3.時速470キロ以下では戦闘するな。分かったか」「では、我々はなにをすればいいんですか?」


 零戦、アメリカ側が残した言葉は多い。

 彼らも破損した零戦の構造を解析し、また、プレートナンバーから生産数までも把握していた。


 そもそも、中国大陸戦で義勇軍として「フライング・タイガース」を率いて戦うシェーンノート大佐から、零戦の脅威は報告されていた。


「アメリカの最新鋭機の倍の上昇力がある」

「凄まじい運動性能で格闘戦での対抗不能」

「低空での加速性能は手が付けられない」


 このような報告は全て「ジャップに無理。そんな戦闘機あるわけない」と完全に無視された。


 日米戦に突入し、その代償をアメリカ陸海軍は若者の血で償うことになるのであるが。


 太平洋戦争後も零戦は改造を繰り返した。 


 特に53型以降の零戦に弱点らしい弱点は少なく、初期型にあった横転操作における即応性の悪さも改善されていた。


 金星1300馬力を搭載し、20ミリ機銃2門と12.7ミリ機銃2門(陸海共通化による武装)の強力な火力と防弾装備を持ち、凄まじい空中機動力を実現した機体と評価されている。


 アメリカの一部には「零戦が早期に鹵獲でき」、「ジョン・S・サッチ少佐の殉職」が無ければという意見はいまでもある。


 特に、パイロットとしてだけなく、技術者としての能力も高かった「ジョン・S・サッチ少佐」が対ジーク用戦術マニューバの研究中に殉職した影響は大きかったかもしれない。


 しかし、一部では、サッチ少佐の二機編隊による、相互支援の機動は、1943年以降、急速に規模を拡大するとともに、飛行時間の減っていったパイロットには不可能ではなかったかという意見も多い。


 ただ、アメリカは戦場から得られる情報をフィードバックし、連携とチームワークで零戦に対抗した。

 アメリカ海軍のパイロットにとって、F8Fが実戦投入されてからも、低空における零戦は非常に剣呑な存在であったと認識さていた。



■零式艦上戦闘機データ■


【零式艦上戦闘機21型】

 全幅:12.00m、全長:9.00m、自重:1,840Kg、全備重量2,869Kg

 エンジン、栄21型14気筒、離床出力980馬力、公称出力940馬力/高度4,200m

 最大速度533㎞/h/高度4,200メートル

 航続距離3,230km(増槽付)

 上昇力6,000mまで7分20秒

 武装、20mm機銃×2(弾数60発×2)、7.7ミリ機銃×2(弾数670発×2)、爆弾60㎏×2



【零式艦上戦闘機53型】

 全幅:11.00m、全長:9.25m、自重:1,680㎏、全備重量:2,336Kg

 エンジン:金星54型14気筒、離床出力1,300馬力、公称出力馬力1180馬力/高度6,200m

 最大速度:583㎞/h/高度6,200メートル

 航続距離:2980km(増槽付)

 上昇力:6,000mまで6分07秒

 武装:20mm機銃×2(弾数135発×2)※、12.7ミリ機銃×2(弾数350発×2)、爆弾250㎏×1 

 ※20ミリ機銃は九九式20ミリ固定機銃となり弾道特性、破壊力とも格段に上昇している。

 


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見事で惚れ惚れする零戦写真は52型丙です。

親切安心明朗会計神雷工房越谷総本部様よりいただきました。

⇒https://twitter.com/3646ma2

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