その116:鬼よ我が魂の前に哭け 東部ニューギニア戦線 その8

 口を真一文字に閉じ、メガネの奥から鋭い視線を浴びせかける。

 鉄の臭いのする沈黙がその場を支配していた。

 ニューギニアの密林。 


 辻政信中佐は、中根主計中尉の報告を黙って聞いていた。

 飯田上等兵は、集落の監視に残した。戻ったのは彼ひとりだ。

 

 普段から異様なまでの殺気を放つ丸メガネの奥の瞳。

 それが、まるで鉄の彫像のように表情を無くしていく。


(ひとりで戻ったことを叱責されるか……)


 そのようなことが一瞬、彼の頭をよぎる。


 作戦の神様――

 中根主計中尉は知らないことであったが、辻政信中佐はそのように語られる存在でもあった。

 南方資源確保という最重要な作戦を立案し、成功させた参謀。

 間違いではないが、正しいともいいきれない評価だ。


 彼の有能さを称賛する者も多い。

 一方で、命令のねつ造。後先考えぬ独断専行。

 毀誉褒貶きよほうへんが激しいどころではない。普通の人間には理解の埒外の存在だった。


 中根主計中尉にとって辻中佐は「異様な参謀」というしかない。

 底知れない、自分の尺度では評価できない存在だ。

 ただ、ひとつ言えるのは、勇猛果敢であること。必要以上にだ。

 だいたい、どこの世界に中佐の参謀様が、率先してゲリラ掃討を行うのだ?

 

 しかも周囲も本人もそのことになんの疑問を持っていない。


 勇猛果敢というよりは、どこかタガの外れた戦争中毒者(ウォーモンガー)ではないかと中根主計中尉は思っている。


「敵性部落であることは確実か?」


 言葉が一直線に吹っ飛んできた。

 下手な返答は出来ない言葉だ。 

 

「確実です」


「土人共が、部落内の足跡をこまめに消している―― か……」


 辻中佐は、中根主計中尉の報告を聞いた上で事実を再確認するかのように言った。

 それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。


「そうです」


 中根主計中尉は首肯する。

 彼の報告から導かれる結論は単純だ。


 現地人の集落はおそらく連合軍の支配下にあること。

 少なくとも何らかの協力体制が作られていること。

 それを覚られないため、集落にある連合軍の形跡を消している。

 足跡を消すのもそのためだ。現地人は裸足。靴の足跡を残す人間は、日本軍か連合軍の人間かどちらかなのだ。

 あの集落に出入りしている日本軍はない。答えは明白だった。


「米豪遊撃隊との協力関係。集落への出入り。その形跡を隠ぺいするためか…… 筋は通っている、が」


 辻中佐は言葉を止めた。手が腰に伸び、軍刀の鞘を握った。


(え、なに…… なんで?)


 中根主計中尉は呆然とそれを見つめていた。

 体が固まった。

 ただ、辻参謀の行動に対する疑問符だけが頭に浮かぶ。


 やけにゆっくりと。

 スローモーションのように、辻中佐の動きが見えた。

 軍刀が抜かれていく。


 美しい殺意をまとった刀身がぬるりとした光を放つ。

 兵器としての銃とは全く異質の恐怖をまとった物。兵器と言うよりは「凶器」と言うべき存在。

 その切っ先が、真正面から中根主計中尉に向けられていた。


「なぜ、飯田上等兵を残置したか?」


 圧倒的な殺意。本気だ。この男は本気で自分に軍刀を向けている。

 こけおどしなどではない。

 中根主計中尉はそのことを一瞬で理解する。本能で。理由は理解できなかったが。


「将校斥候の本分を果たすためであります! 先ほどの敵情は、自分の分析によるものであり、自分が責任をもって報告する義務があるのであります!」


 陸軍式の敬礼をしながら、中根主計中尉は言い切った。いや、その言葉は絶叫に近い物だった。

 敬礼だけでなく、口調まで陸式(陸軍式)になっていた。


「であるか……」


 そう呟くと辻中佐は、スゥっと音もなく間合いを詰めた。

 鼻先に刀身の冷たい鋼の温度を感じそうな距離まで。

 中根主計中尉は、ガクガクと震えそうになる膝を抑え込む。


「見張りを! 土人部落に対する見張りの継続は必要です。土人共がなんらかの動きに出ます。敵遊撃隊に連絡する可能性も。だから、飯田上等兵を――」


「死ねぇぇぇ!!」


 中根主計中尉の言葉は、辻中佐の有無を言わせぬ絶叫で遮られた。

 ニューギニアの密林がビリビリと震える。


 中根主計中尉の脳裏に幼少期から旧制中学合格までの思い出がものすごい速度で流れていった。

 いわゆる走馬燈――


「伏せるのだぁぁぁ!!」


 その走馬灯も、辻中佐の次の絶叫で強制中断。彼は反射的に地面に伏せた。


 彼は構えた軍刀を大地に突き刺すと、提げていた九六式軽機を構えた。

 レバーを引き、弾倉を一瞬で挿しこむ。信じられない速さだ。


 ダダダダダ、ダダ、ダ、ダッ!


 6.5ミリの銃弾が連射される。

 伏せている中根主計中尉と兵たちの頭の上を、弾丸が秒速700メートルを超える速度で通過する。

 中根主計中尉は空気が焦げるような臭いをかいでいた。


 第一次世界大戦の戦訓から帝国陸軍は、分隊における軽機関銃の重要性を認識。

 その中で開発されたのが、十一年式軽機関銃だ。

 そして、その後を継ぎ、開発されたのが九六式軽機関銃となる。

 造兵廠と南部銃製作所で試作された軽機関銃の長所を取り入れ、制式化された軽機関銃だ。


 満州での運用を考えられマイナス四十度でも正常に作動する。

 当然、焦熱の地でも安定して銃弾を吐き出す。今のように。


「アガッ ア、ア、ア、ア」


(なんだ? 声?)


 悲鳴と嗚咽のような物がジーンと痺れた耳に届く。

 中根主計中尉は、怒りにまかせて軽機をぶっぱなした狂人参謀が兵を撃ったのかと思った。 

 しかし、違った。


「土人だ! 土人の間諜である! 殺せ! ブチ殺せぇぇ!」


 素早く数名の兵が声のする方に跳ぶように移動した。

 そして、うめき声と怒声が混じり合い、ガサガサと密林の草を潰しながら現れた。

 

 ヌルリとした茶褐色の肌をした男。

 むき出しの上半身には、鍛え上げられた筋肉がついている。

 そして、その上腕から真っ赤な大蛇を思わせるような血を流していた。


 貫通銃創。6.5ミリ弾が右上腕を撃ちぬいていた。

 骨が砕けているのかどうかまでは分からない。

 ただ、ぐったりと抵抗することなく、兵にズルズルと引きずられていた。


「この土人風情がぁぁ、八紘一宇の崇高な理念を理解もできぬ、土人がぁぁ~」


 辻中佐は、再び軍刀を握ると、ドカドカと土人の前まで歩み出た。

 あの村にいた者だろうか。中根主計中尉は記憶をたどるが、そもそもニューギニア現地人の顔の見分けができなかった。

 

「世界の毒虫たるアングロサクソンに協力するとは…… もはや、殺す。ぶち殺すしかないのである」


 辻中佐は唇をVの字に吊り上げ、笑みを浮かべていた。

 

「中根主計中尉!」


 辻中佐が彼の名を呼んだ。


「はい!」


 反射的に敬礼し、直立不動となる中根主計中尉だった。

 この辻中佐に対する態度には細心の注意が必要であること。

 それが、この短い時間で十分に理解できた。


「銃剣を投擲(とうてき)し米兵を刺殺したことがあるのだったな?」


「はい! 中佐殿」


 それは、斯々然々かくかくしかじかで、気が動転して偶然ですなどと、説明できる空気ではなかった。

 言えるのは「はい 中佐殿」だけだと理解していた。


「腕前を見せてもらおう」


「はい ちゅう…… え?」


「斬れ。この土人を斬るのだ」


(えええ!! なにそれ? それが陸軍式なのか?)


 彼の心の叫びだけは、辻中佐に聞こえない。

 辻中佐に「捕虜」という概念がないというのは知っていた。

 しかし、正体も分からない現地人まで、調べもせず殺すのか?

 

「主計中尉。自分が尾行されていたのに気付いていたか?」


 辻中佐はそう言うと、軍刀の柄を中根主計中尉に向けた。


「尾行…… 自分が」


「間違いないのである」


 ずいっと軍刀の柄をつきつけ、自信たっぷりに辻中佐は言った。

 

「しかし……」


 中根主計中尉は、捕らえられた現地人を見た。

 こちらの会話は分からないのだろうが、これから自分が殺されることは理解しているようだった。

 茶褐色の肌に、やけに白く見える目玉が血走っている。その視線が中根主計中尉を捉えていた。

 

 もし、尾行されていたのが本当だとすれば、完全に自分の失態だ。

 そして、その始末をつけろという辻中佐の言い分には、陸軍的には筋の通ったものなのだろう。


 しかし――


「辻中佐、まずは、尋問したいのであります」


「尋問?」


 メガネの奥の鋭い視線が、中根主計中尉を貫く。


「う、上手くいけば、敵遊撃隊を殲滅できるかもしれません」

 

 彼は、包帯包ほうたいつつみを取り出すと、現地人の傷の手当てをした。

 まずは、生きていてもらわねば、どうにもならないからだ。


「コトバ、ワカル? ワタシノ イウ」


 ピジン英語だ。もし、彼が連合軍と繋がっているならば、言葉が通じるはずだった。

 ギョロリとした目玉が、ジッと中根主計中尉を見つめている。


「ワカル、イウ ワカル」


 現地人はつぶやくようにそう言った。


        ◇◇◇◇◇◇


「やるではないか、中根主計中尉」


 辻中佐はご機嫌だった。

 密林の中、辻中佐と中根主計中尉は並んで腹這いとなっている。

 中根主計中尉の腹を名も知れない小さな虫がチクチクと刺している。

 しかし、気にしている場合ではなかった。

 一方、辻中佐の方は、そんなことは全くに気にもかけない様子だ。


「あの土人を、遊撃部隊をおびき寄せる餌にするか…… 海軍も中々、よい教育をするようであるな」


「まあ……」


 言葉を濁す中根主計中尉だった。

 そんな教育など受けた経験などないのだ。そもそもが物資・金銭の管理が本来の役目なのだ。


 とにかく、中根主計中尉は、現地人を尋問した。その男が、ピジン英語を理解できたのがラッキーだった。

 そして、辻中佐の言っていることは正しかったのだ。

 中根主計中尉は、この男につけられていた。密林の中を尾行されていたのだ。

 それは、集落近くに残置した飯田上等兵も目撃していた。集落を出ていく男を彼は目撃していた。

 ただ、集落の監視が命令のため、彼は動けなかったのだ。


(とにかく、人を斬り殺すのは勘弁してほしい)


 中根主計中尉は心底思う。

 無抵抗の人間を斬り殺すのは嫌だった。敵性現地人としてもだった。

 彼は、その心理的負荷に耐えられそうにない自分を自覚している。

 そもそも、そんな戦争をやるつもりで、士官になったわけじゃないのだ。 


「早く来てくれ」


 彼はつぶやいていた。自分に言い聞かせるために。

 しかし、その言葉に辻中佐が反応した。


「ほう、そこまでたぎっているか。焦らずとも、やってくる。来ずば、部落を焼き払い、皆殺しにするだけだ――」


 辻中佐は唇を舌でなめた。殺せれば、どっちでもいいという感じの言葉だ。

 あの現地人の男には、敵遊撃隊を、指定した場所に誘導するように言ってある。

 もし、それが出来なかった場合、あの部落を焼き払うと言った。逆らうことはできないはずだ。

 

 中根主計中尉の描いた絵図だった。

 手段を選ばぬ方法であったが、あの場で彼が男を斬殺しないためには、これしか方法が無かった。


 アメリカ兵でもオーストラリア兵でもよかった。

 とにかく、来てくれ――

 三八式歩兵銃を構え、彼は願う。心底願う。


 九六式軽機関銃は、やはり慣れた者が使った方がいいということで、別の兵が今は持っている。

 辻中佐は、まだ同機銃を持っていた。

 二脚を立て、伏せ撃ちの体勢で待ち構えている。

 二丁の軽機関銃が、角度をつけ弾丸の槍衾を作る。

 そこに、連合軍の遊撃隊を囲い込む。小規模ではあるが、帝国陸軍の大好きな包囲殲滅であった。


「来た! 来たぞ」


 辻中佐が言った。

 まだ射撃はしない。軽機の射撃をもって、攻撃開始となる手順だからだ。

 中根主計中尉は気が付くと長い息を吐いていた。ホッとしていた。

 少なくとも、あの集落に、擲弾筒(帝国陸軍が装備する軽迫撃砲)を撃ちこむことは無くなったのだ。


「主計中尉――」

「はい」

「殊勲甲だな」


 辻中佐は九六式軽機の引き金に指をかけ、彼にそう言った。

 その声は、悪魔が同類に出会ったかのような親しげなものだった。


■参考文献

小銃拳銃機関銃入門 佐山二郎(著)

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