その105:漆黒の戦艦殺し 特殊潜航艇 その5
早川少尉は、九七式特眼鏡改二を覗きこむ。回転させ周囲を見張る。
相変わらず周囲にはなにも発見できない。
視界は悪くなかった。降るような星明かりが闇の底を薄っすらと照らしている。
波濤が白く反射していた。波は高くはなく、艇の動揺も少なかった。
「浮上する」
「メインタンクブローします」
たった二人しかいない乗員。ペアの四月一日(わたぬき)兵曹長が復唱する。
司令塔後部の重心位置に設置されているメインタンクに圧縮空気が流れ込む。
溜めこんだ海水を外に吐き出していく。
小型潜水艦というより、魚雷に毛の生えたような特殊潜航艇が浮上する。
完全に水上航行する形となった。以前の形式であれば、外洋でこのような運用は困難だった。
この「特殊潜航艇・甲標的丙型改二」には浮力タンクが増設されている。それゆえ浮上した状態でも船体が安定していた。
「上にでる」
早川少尉はそう言うと、司令塔のハッチを上がる。大した高さではない。
潜望鏡の見張りだけでは見逃すことがあるかもしれない。万全を期すためであった。
小さく黒い船体は闇の中に溶けこんでいるだろう。
被発見の可能性は高くはないのではないか。そう判断した結果だ。
敵の電探の存在は懸念すべきであった。しかし、特殊潜航艇の上部構造物は小さい。
探知される可能性は低いと早川少尉は考えた。
(先に、見つけることだ)
なによりもそれを優先すべきであった。
となれば、潜航した状態よりも浮上すべきだった。
隠密性は闇夜と、小さな船体が担保してくれるはずだ。今はそれに賭けるしかなかった。
なによりも、視界を確保すべきだった。
まるで航空機のコクピットを思わせる司令塔の視界はよかった。
五一号丁型ジーゼルエンジンが奏でる細かな振動が伝わってくる。
特G型発電機に直結され推進力を生み出す。現在は8ノット。
見張りを続けて、しばらく経過したときだった。気配といっていい何か感じた。
上手く言葉では表現できない違和感。そういったものだった。
早川少尉は左舷の水平線方向を見やった。
そして視線を固定した。ハッチから身を乗り出し、首からかけた双眼鏡を手に取り、覗きこんだ。
黒く溶け込むような水平線近くにそいつがいた。
間違いはなかった。彼は確信する。
「敵だ――」
小さくつぶやく。
彼は司令塔から飛び降りた。同時に叫ぶ。
「敵、艦影らしきもの左舷九〇度!」
そして、矢継ぎ早にベントが開かれる。ジーゼルが停止し、電池からの電力供給に切り替えられる。
特殊潜航艇が海に溶けていくかのように海面下に消えていく。
「取り舵」
特殊潜航艇は、操舵の回転に追従し素早く船体の向きを変えていく。以前の特殊潜航艇であればあり得なかった機動だ。
スクリューと舵の位置が改良されているからだった。
以前は魚雷のように、スクリューの前に舵があった。そのため、スクリューが造りだす水流を舵が受けることができず、旋回性能に問題があったのだ。
現在は、スクリューの上下から伸びた棒の先に舵が取り付けられている。
更に、水中翼の存在も、特殊潜航艇の機動性能を別物に変えていた。
驚くほどの短い旋回半径で水中を機動する。
六〇〇馬力を叩き出すモーターはフル回転をしている。しかし、音自体は大きくない。
防音のためゴムが敷き詰められている。ゴムが振動を吸収しているのだ。
「戦艦なのか――」
早川少尉は声にならない声を口の中で転がす。
それは、黒い鋭角的な影にしかみえなかった。
戦艦であってほしいという思いはあったが、先入観は危険だ。
艦種の判定は重要だ。艦種により艦の大きさが分かり、その大きさにより距離を推定する。
艦種の判定ができなければ、攻撃ができないのだ。
艦影は徐々に大きさをましていく。周囲に小さな船艇も確認できた。
駆逐艦であろうか――
もし、あれが戦艦であれば当然だ。丸裸で戦艦を使うのはバカのやることだ。
そして、少なくともアメリカ海軍はバカではない。
駆逐艦がいるということは、攻撃を行った場合、爆雷攻撃を覚悟しなければならないということだ。
いや、攻撃を行う前にそれを喰らう可能性もある。
戦艦を中心とした輪形陣なのか? 少なくともその内側に侵入しないことには攻撃できない。
「奴ら真正面から向かってくるのか」
角度がないため、艦艇の長さが推定できない。よって距離も分からない。
普通の潜水艦であれば、いい位置関係とはいえない。
しかし、特殊潜航艇にとっては肉薄することが最重要だ。
ここに来てまで、逃げ腰の攻撃をする気はなかった。
早川少尉の操舵を握る手に力が入る。
魚雷を発射し命中させるためには、敵艦の「距離」「方位」「速度」を把握する必要がある。
通常の潜水艦であれば、それらを聴音器で得ることもできる。そして、複雑な機械装置である魚雷発射盤で、諸元を求めることが出来る。
この特殊潜航艇は違うのだ。
とにかく、肉薄して必中距離から魚雷を放つ。そのための兵器だ。
人の力だ。それで戦艦を屠る。そう言った兵器だ。
「全速で距離を詰めるぞ」
早川少尉の命令で四月一日兵曹長が制電盤を操作する。モーターに大電力が流れ込む。
六〇トン近い特殊潜航艇を18ノットの水中速度で航行させる。
太平洋でも大西洋でもそのような速度を持つ潜水艦は存在しない。
現時点では、地球上で最も速い潜水艦といえた。
黎明のときまで、まだ数時間。
特殊潜航艇とアメリカ戦艦「ワシントン」は、生と死が交錯する瞬間にむけ突き進んでいた。
◇◇◇◇◇◇
「SG(シュガージョージ)が艦影を捉えただと?」
対水上レーダーだった。それが微弱な反応を捉えていた。
しかし、その反応は即消えて行った。
その報告を聞き、リー提督は片方の眉を持ち上げた。
「潜水艦か――」
手のひらを口に押し当て、つぶやきをもらす。
レーダーが潜望鏡の反射波を拾う事例は、大西洋で多く報告されていた。
「制圧に向かいますか?」
幕僚のひとりが尋ねる。選択肢として無い話ではない。
艦隊の駆逐艦を向かわせ、爆雷による攻撃を加えることはできる。
しかし、現状どうなのか。なにを最優先すべきか。
リー提督は、海図を睨んだ。現在の艦隊の位置と、反応のあった位置。
想定される潜水艦の速度は日米とも変わらない。
せいぜいが8ノットだ。
「進路を若干変える。面舵」
進行方向を向かって右30度ほど変更する。
大きく進路を変える必要はなかった。
もし、潜水艦だとしても潜航中であるならば、これで距離をあけることが出来る。
距離を詰めるには、浮上しなければならない。そうなれば、駆逐艦を向かわせればいい。
今は、無駄な戦闘を行うよりも、安全な海域に向かうことが最優先される。
リー提督に判断は合理的であった。そして、正しかった。
もし、その相手が通常の潜水艦であったならば――
鋼の艨艟(もうどう)は波濤を叩き割り、22ノット速度で進んでいった。
◇◇◇◇◇◇
「本物だ―― アメリカの戦艦だ」
「少尉!」
間違いなかった。
今まで一本にみえた艦上構造物がふたつに分かれた。
正対していた彼我にやや角度がついたのだろう。
それで、艦影から大きさが把握できた。戦艦に間違いがなかった。
「舵を切ったのか……」
理由は分からなかった。ただ、これはチャンスだった。
「取り舵90。横っ腹を食い破る」
特殊潜航艇の初期型は旋回半径400メートル以上と、戦艦以上に小回りのきかない存在だった。
それが、今では見違えるように舵が利く。
スクリューを保護するカバーの上下に柱を伸ばしその先に舵をつける改良を行っただけだ。
気が付けば「コロンブスの卵」のようなものだ。手間も技術もいらない。
遠心力を感じさせるほどの機動で急カーブを描く特殊潜航艇。
この改良の効果が体感できた。
船内にモーター音以外の音が響く。
外部からだ。シュッシュッシュッという通過する列車を思わせる音だった。
「敵直上! 駆逐艦」
四月一日(わたぬき)兵曹長が言った。
聴音器がなくとも、それと分かる音が響いている。
早川少尉は息を飲んだ。唾を飲み込もうにむ口の中がカラカラだった。
モーター音と駆逐艦のスクリューの奏でるセイレーンの歌声。
次第に音は小さくなる――
自分の呼吸音が大きく聞こえている。
早川少尉は思わず胸に手をやる。お守りが指に当たる。
そんな自分が妙におかしくなってきた。緊張がとけていく。
やがて音は聴音器なしでは知覚できないレベルとなる。
潜水艦の天敵ともいえる、駆逐艦の真下をすり抜けたのだ。
「通過したようだな……」
「そのようですね」
汗だくの四月一日兵曹長がこちらをジッと見ていた。
「少尉―― すごいですね」
「なにがだ?」
「ずっと、笑ってましたよ」
「笑っていた?」
四月一日兵曹長は尊敬と恐怖の混じり合った顔で上官を見つめていたのだ。
人は恐怖に直面しても笑うことができる。いや、笑みのような表情を浮かべてしまう人間もいるということだ。
おそらく自分はそんな人間なのだろう。早川少尉は思う。
彼はその思考を切り替える。
潜望鏡を上げる。一瞬だった。すでに、特殊潜航艇は敵艦隊の内懐に喰いこんでいるのだ。
うかつなことはできない。
潜望鏡の視界に戦艦を発見する。近い。予想よりも近くだ。
「魚雷戦用意」
早川少尉は叩きつけるように言った。
たったふたりの乗員であるが、命令は必要だ。
九七式酸素魚雷。350キログラムの97式炸薬を充填された凶器。
艦底起爆信管を備え、当たり所によっては一撃でキールをへし折る海中のハンマーだった。
「速いな…… 20ノット以上でている」
「となると、新鋭戦艦ですね」
「ああ、そうだな。サウスダコタ級か」
真珠湾とアリューシャン沖海戦で、あらかた全滅した旧式戦艦群にかわり、配備された新鋭戦艦。
その情報は日本海軍でも把握していた。
次第に大きくなる艦影。
巨大な砲塔を三基備えているように見える。旧式戦艦ではないだろう。
早川少尉は魚雷発射ボタンに指を置く。
指先に粘つくような汗を感じた。本来あまり汗をかかない体質であるのにだ。
「距離900――」
特殊潜航艇は、通常の潜水艦のように扇状に魚雷を発射しない。たった2本しか魚雷がないのだ。
相手を魚雷で包み込むような公算射法は使えないのだ。
必中を狙った攻撃しかあり得ない。
「800で撃つ。四月一日、ツリムたのむぞ」
「了解です」
前部に装填された魚雷が発射されると、艇のバランスが崩れる。
以前の特殊潜航艇はそのため、全部が海上に飛び出てしまうという欠陥があった。
特殊潜航艇・甲標的丙型改二では、水中翼とタンクの改良によりその可能性は減っている。
しかし、それを防ぐの乗員の技量に負うところも大きかった。
「敵は気づきませんでしたね」
聴音器を耳にした四月一日兵曹長が言った。
攻撃態勢に入り、速度を10ノットに落としている。聴音可能な速度域だ。
通常の潜水艦では水中8ノットが限界なのだから、この速度でも十分な高速といえた。
こちらが速度を落としても、向こうが射線内に入ってくる。
再び潜望鏡を上げる。
「攻撃すれば、そうもいくまいよ」
早川少尉は舌を出して乾いた唇をなめた。塩の味がした。
潜望鏡を通して映る視界に、敵が見える。もはやそれは、戦艦であることを疑うことはできなかった。
「発射!」
早川少尉は魚雷発射ボタンを押しこむ。電流が回路を流れ、魚雷発射システムを起動させる。
圧搾空気が直径45サンチの魚雷を艦首から押し出した。
一気に2本発射だった。干渉を回避できるわずかな時間差をもって2本の魚雷が海中に投げ出された。
これも以前の特殊潜航艇ではできない芸当だった。
魚雷内の圧縮酸素が濃度を増しながら、エンジンに流れ込む。そして内燃機関が駆動し、スクリューを回転させる。
ジャイロをコアとした姿勢・方位制御装置が魚雷を目標に向け直進させていく。
前部タンクに自動注水されると同時に、後部タンクをブローする。
ツリムを調整。水中翼を展張し、バランスをとる。
艦内は激しく揺れるが、前部が水上に突出するということはなかった。
早川少尉は揺れる艇内で潜望鏡にしがみついていた。
彼の視界には黒い艦影が悠々と進む姿があった。
中々、特殊潜航艇の揺れは収まらない。
長い時間が経過しているような気がした。
外れたのか……
一瞬、そう思う。グッと歯を食いしばっていた。
そのときであった。
艦尾だ。そこに、どす黒い水柱がゆるゆると上がっていくのが見えた。
それは、戦艦の艦尾を包み込むような水柱だった。
「命中! 命中だ! やったぞ!」
早川少尉は思わず叫んでいた。
「やりましたか!!」
四月一日兵曹長が勢いよく立ち上がった。
ガーン!
大きな音が艇内に響く。魚雷命中の衝撃音ではなかった。
四月一日兵曹長が、立ち上がった拍子に頭をぶつけたのだ。
「やった! 当たりましたね! 少尉!」
「四月一日、頭、平気か?」
「こんなの大したことありませんよ」
「それならいいが」
特殊潜航艇の内部は狭い。いきなり立ち上がると頭をぶつける。
早川少尉は潜望鏡を覗きこむ。
すでに水柱は消えていた。
そして、艦影に変化があるようには見えなかった。
いや、違う。
退避しているのか?
早川少尉は、戦艦の角度が変わっていくのに気付いた。
こちらから遠ざかるように舵をきっているようだ。それは、それで常識的な判断なのだろう。
「一発は深手にならないか……」
外見からでは、敵戦艦に大きなダメージを与えたようには見えなかった。
ただ、それでもなんらかの被害を与えたことは確実だろう。
「敵、接近してきます。駆逐艦と思われるもの多数!」
聴音を再開した四月一日兵曹長が言った。
早川少尉は潜望鏡を格納する。
「全速、退避だ」
特殊潜航艇は全速を出す。18ノットだ。
この速度を出した場合、駆逐艦は特殊潜航艇を捕捉するのは非常に困難だった。
水中聴音器は18ノットでは自艦の騒音でその能力を大きく減殺される。
かといって、減速すれば、探知は可能でも追いつくことができない。
爆雷の衝撃が伝わってくる。
しかし、それはあまりにも見当違いな場所であった。
ただ、威嚇のために爆雷をまき散らしているとしか思えなかった。
特殊潜航艇は攻撃を成功させた。
そして、早川少尉と四月一日兵曹長は、特殊潜航艇作戦における初の生還者となった。
◇◇◇◇◇◇
(奴らは一体なにをやったんだ?)
ウィリス・A・リー少将は握った拳を振わせていた。
まるで、神に見捨てられたような悪夢のような話だった。
たった一本の魚雷が4万トンに近い戦艦ワシントンの航行の自由を奪っていたのだ。
艦尾に命中した魚雷は、舵を吹き飛ばし、推進軸にもダメージを与えている。
現在のワシントンは舵を失い、大きな弧を描き水面を進むだけの存在となっていた。
アメリカ海軍の戦艦がいかに頑強であっても舵と推進器はアキレス健だった。
すでに、彼はワシントンからサウスダコタに移っていた。
その司令部を沈黙が支配していた。
「夜明けが近づいています」
沈黙に耐えきれなくなったのか、幕僚のひとりが声を発した。
それは、まるで懺悔の言葉のようであった。
「分かっている」
リー司令は短く、そして吐き捨てるように言った。
戦艦を失うという意味は、彼のキャリアに傷をつけるのに十分な事態だった。
いかに強力な国力、生産力を誇る祖国であっても、無限に戦艦の生えてくる木をもっているわけではない。
新鋭戦艦の喪失は大きなダメージだ。
「やはり、曳航もできませんか」
「曳航した状況で、ジャップの攻撃を振りきれるのか?」
リー少将の言葉で、「曳航」の話を出した幕僚は黙った。
すでに、それは検討済のことだった。
現海域で、それを行い逃げ切れる可能性は極めて低い。
ダメコンチームはがんばっている。
それは分かる。
これが、自軍の勢力圏の及ぶ海域であれば、問題はなかった。
しかし、そうではない。
夜が明ければ、健在な日本海軍機が襲い掛かってくる可能性がある。
それだけではない。水上艦艇も潜水艦もだ――
機動部隊は離脱中というが、状況を知れば反転し攻撃してくる可能性もある。
リー少将は決断した。
それは、自身のキャリアを大きく傷つける。それは分かっている。
しかし、このまま2000人以上の若者を死地に置いておくわけにはいかなかった。
リー少将は艦橋の時計を見つめた。
もう、与えられた時間は少なかった。
(神に祈るか? バカな)
リー提督は背筋を伸ばし、スッと息を吸った。
「戦艦ワシントン、総員退去だ―― 自沈する」
神の言葉を伝える預言者を思わせる声が艦橋に響いた。
無慈悲な乾いた神の言葉だった。
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