その68:血戦! ポートモレスビー その11

 腐った土と濃厚な緑の匂いが鼻腔に流れ込んでくる。

 鳥たちの声だけが、遠くから聞こえる。

 密林の中を反響し、平衡感覚を狂わせていくような錯覚を覚える。


 井上軍曹は三八式歩兵銃を握りしめ、密林の底に身を伏せていた。


 チクンとした刺激を脚に感じた。


 いきなり自分たちの王国に侵犯してきた敵に対し、虫たちが反撃を加えていたのだ。

 チクチクとあちらこちらをアリのような虫が噛みついてきていた。

 不愉快極まりないが、我慢するほかなかった。

  

 井上軍曹は歯を食いしばり、少し身をよじる。

 相変わらず、敵の足音は聞こえなかった。気配も感じられない。


 敵は行ってしまったのではないか――

 一瞬、その考えがよぎる。

 ここで、じっとしていても埒があかないのだ。

 敵の存在を確認できなければ、やり過ごしたのかどうかもわからない。

 井上軍曹は、思考の迷宮に迷い込んでいた。

 

「(田中――)」


 井上軍曹は声にならない声をもらしていた。

 高砂義勇兵の田中が移動していた。密林の底をうねるように移動する。

 もう、井上軍曹の隠れている位置からかなり遠くに移動していた。

 まったく、物音をたてず、どのような方法で移動したのか。

 そして、どうして移動したのか?

 一体どういうつもりなのか? 


 その行動の意味が分からなかった。

 ただ、彼が「逃げた」ということだけは絶対にありそうもなかった。


 田中は、すっと腰を上げ低くかがむような姿勢になった。

 台湾の少数民族、山岳地帯を生きるアミ族の戦士。

 それが彼、本来の姿であった。


「おぉぉぉぉぉ!! シネェェ! アメ公!」


 彼は叫びを上げた。密林の底が振動するかのような咆哮だった。

 そして、身を低くしたまま、草むらの中を疾走した。


「KILL!! JAP!」


 英語だ。

 唐突に、草をかき分ける足音が響いた。

 パンパンパンパン――

 連続した銃声が響く。

 小銃か。

 発射間隔が速い。自動小銃ってやつか。


「しねぇ! アメ公がぁぁ!」


 田中の癖のある日本語の叫びが聞こえた。

 そして、銃声がその叫びと交差した。


        ◇◇◇◇◇◇


 密林を先導していた、ヘプダエという原住民の男が止まれと合図を送った。

 

 彼はオーストラリア軍の宣撫工作により、味方となっている男だった。

 このあたりの集落は、宣撫工作で、ほぼ連合国に友好的な人間が主流を占めている。

 まだ、中立的というより、戦争に全く関与していない集落も多かったが、少なくとも日本側に取り込まれた集落は無かった。


 日本はポートモレスビーを占領している。しかし、連日の爆撃と砲撃で宣撫工作などできるような状況ではないと判断されていた。

 すくなくとも、この密林において、彼らにしたがっている限り、自分たちの方が優位にあることは確かだ。

 今も、ヘプダエは確実に日本兵らしき者を捕捉していた。


 グレイブス准尉は、密林に立ち止まる。

 そして、油断なくM1カービンを構える。

 軍に配備されたばかりの新式の銃だ。

 本体は軽く、総弾数15発。

 半自動小銃だ。拳銃弾を使用するサブマシンガンより威力がある。

 密林の中で使用するには、最適といってもいい銃だ。

 

 ただ、自分の率いる遊撃戦専門の迫撃砲分隊で、その銃を保有しているのはグレイブス准尉だけだった。

 後のメンバーはスプリングフィールド小銃を装備している。

 ボルトアクションの信頼性の高い銃だ。

 

 ポートモレスビー周辺に展開し、遊撃戦を行う。

 軽迫撃砲による擾乱射撃と偵察を任務としていた。

 このような分隊がいくつか、ローテーションを組んでポートモレスビーに対する攻撃と偵察を行っていた。

 打撃力を持った偵察部隊という類のものだ。


 現地集落に補給拠点を作り上げ、密林内でかなりの長期活動を可能としていたが、それでも無茶はしない。

 一定の期間で、拠点に戻ることになっている。

 

 遭遇戦だ。

 これは、遭遇戦だった。

 グレイブス准尉は、苦虫を噛みしめるような表情をつくる。

 自分たちの任務からすれば、それは最悪の事態に近い。

 このような場所で戦闘を行う気はさらさらなかった。


 敵の規模も分からない。

 足音を確認したのは、ヘプダエだけだ。

 彼は離れて会話する位置にはいない。

 しかし、もし話ができても、数を推測するのは困難だ。

 彼は3以上は全て「many(たくさん)」と表現するのだから。


 彼は後方を進む部下に身をかがめ隠れるように指示した。

 部隊は12人いるが、迫撃砲の弾薬を運ぶ要員もおり、戦闘力を持っているのは5人しかいない。


「(くそがッ)」


 ハートグレイブス准尉は、神に対する呪いの言葉を心の中に叩きつける。

 そして、M1カービンの安全装置を解除した。


 とにかく、早くどこかに行ってくれと祈るしかない。

 ジャップ。早くあっち行け。


        ◇◇◇◇◇◇


「(あそこに、なにかいる)」


 ヘプダエが指で合図を送る。何かしらの動きを感じたのだろう。

 だが、詳細は全く分からない。

 グレイブス准尉は苛立った。

 

 唐突だった。

 バサバサと密林をかき分け進む音が聞こえた。

 自分にもはっきりと聞き取ることができた。


 そして、呪いの言葉。悪魔の賛歌のような叫びが響いた。

 ジャップだ。

 ジャップの突撃だった。


 後ろ――

 グレイブス准尉のすぐ後ろ、後方に伏せていた部下が頭を叩き割られていた。

 真っ赤な血が、緑の底を染めていく。


「死ね!! ジャーーープ!!」


 カービンを乱射した。半自動小銃ゆえ、引き金を引きっぱなしでは弾は出ない。

 パンパンパンパン――


 当たらなかった。

 くそ、なんて動きをしやがるんだ。このジャップは。悪魔の使いなのか?

 またしても、呪詛のような耳触りの悪い、奴らの言葉で叫びを上げた。


 浮足立っていた部下も、反撃を開始した。

 銃剣を付ける暇もない。そのまま銃で殴りつけた者がいた。

 かわされる。

 一人だけだった。

 半裸で、刀をもったジャップだ。

 これが、サムライソードってやつか。

 分厚い鉈みたいに見える。


 今度は落ち着いて狙う。

 撃った。

 はじけ飛ぶように、ジャップが崩れ落ちた。


「やった! 殺したぞ! 死ねジャップがぁ!」


 グレイブス准尉の背中に歓喜は走り抜けた。

 自分の手でジャップを仕留めたという感動は、まるで射精感に似た感覚を彼に与えていた。


 パン、パン、パン、パン――

 

 銃撃だ。

 その音が、一気に彼を冷めさせた。


「こっち、逃げる。こっち。ダイジョブ」


 ヘプダエが叫んだ。

 こっちに来いと指示していた。

 密林内では、彼の指示に従うのが正解だ。今までの経験がそれを教えていた。

 まだ、密林にはジャップがいる。

 今の銃声がそれを示していた。

 おそらく、一人で白兵急襲をしかけ、動いたところを待ち伏せする罠だったんだ。

 こずるいジャップの考えそうなことだ。

 バカ野郎が、その手に乗るか。


 グレイブス准尉は、合図を送り、部下を掌握。

 全員が密林を這いつくばる様に移動した。

 へブタエに追いつくと、その先には、けもの道があった。

 トゲトゲの草の生えた中を這いつくばるより、よほど楽だ。

 

 グレイブス准尉はいったん立ち止まり、人数を確認する。


「ブレディ一等兵がやられました。サムライソードで……」


 そう言う、メイ一等兵も肩に銃創を受けていた。

 くそ、正確な射撃をしてきやがる。

 狙撃兵を潜ませていたのかもしれない――


 アイダホ出身の20歳の若者の命が失われた。良い奴だった。

 コックになりたいと、言っていたのを聞いたことがある。

 そういった未来。可能性も全て消えた。

 うすぎたない、ジャップの手によってだ。


「撤退する。ここでの戦闘は任務外だ」


 グレイブス准尉は言った。

 そして、けもの道を身をひそめゆっくりと進みだした。

 許す気はなかった。


 ここは、退く。

 しかしだ。

 殺してやる。徹底的に殺してやる。

 グレイブス准尉はカービンを握りしめ、固く誓った。

 この戦争で、徹底的にサル肉を量産してやる。

 それが、死んでいった若者への魂の救済になる。

 彼は固くそう信じていた。


        ◇◇◇◇◇◇


「バカ! 田中。なんで飛び出した!」


 胸を撃ちぬかれ、上半身は血まみれとなっていた。

 呼吸のたびに、ゴボゴボと濁った音が聞こえる。

 田中の考えは分かっている。ただ、訊かずにはいられなかった。


 あのこう着した状況で、自分を犠牲にした。そして、状況を打破しようとしたのだ。

 そして、それは成功した。実際に、井上軍曹は生きている。


 田中も、そんな自分の考えを見抜いているように、弱い光の残った目でこちらを見た。

 精悍な黒い肌をした男が血まみれで笑みを浮かべていた。

 ただ、頷くしかなかった。

 

 井上軍曹は水を飲ませようと、水筒を田中の口の持ってこようとした。

 ゆっくりと、田中は首を振った。

 もう自分が助からないことを自覚していたのだ。


 井上軍曹もそれが分かった。もう田中は助からない。

 

「おい、家族に伝えること、あるだろ」

 

 もう、井上軍曹はそれしか言えなかった。

 彼は田中の節くれだった浅黒い手を握りしめた。


 ポツポツと水滴が血まみれの彼の胸に落ちていた。

 雨ではなかった――


 田中の口が小さく動いた。


「なんだ? 田中」


「万歳…… 天皇陛下万歳――」


「ばか! そうじゃない。家族だ。家族に言うことあるだろ」


「天皇陛下万歳……」


「ばか――そんなこと、どうでもいいんだ。家族に言い残すことがあるだろ?

 お前にも家族がいるはずだ。俺が伝える。台湾のどんな奥地にいたって、俺が絶対に伝える。田中! スバニ!」


 井上軍曹はグッと田中の手を握った。

 急に田中の力が抜けていくような感じがした。

 すっと、ほほ笑むような表情が見えたような気がした。

 そして、彼の胸の上下動が止まった。


「バカ野郎が……」


 井上軍曹はつぶやくように言うと、彼の開いた目をゆっくりと閉じさせた。


        ◇◇◇◇◇◇


 浜名少尉の元に戻ってきたのは井上軍曹だけであった。

 その井上軍曹も肩に弾片による傷を受けていた。

 

 報告は既に訊いていた。

 敵砲撃拠点の位置は特定できたが、その周囲には複郭陣地に匹敵する、機銃陣地が構築されている可能性がある。

 歴戦の軍曹が経験したこともない、弾幕射撃を受けたというのだ。

 そして、夜戦を無効化するほどの、照明弾。

 密林内の小規模な、砲撃拠点と考えていたが、想像上異常に堅牢な備えがなされているのかもしれない。


 しかしだ――

 そうなると、補給はどうしているのだ?

 15センチ級の砲弾は重量が約50キロはあるはずだ。

 連日、惜しげもなく打ちこんでくる。その上で、機銃陣地の過剰な弾幕射撃。

 溜めこんだ物資だけでは、そんなことは出来そうにない。


 補給線があるはずだ。

 敵は、どこからか補給を受けている。

 そうでなければ、理屈に合わない。

 

 浜名少尉は、以前からおぼろげに推測していたことに確信を持った。

 敵の補給線を寸断することでも、この砲撃は無効化できる。


「井上軍曹、よくやってくれた」


 彼は軍曹に対し、そう言った。


「山田、そして、田中も褒めてやってください」


「ああ、分かっている」


 おそらく、味方がやってくる。

 いったん、情報を整理するため、ポートモレスビーに戻り、詳細を伝えるべきだった。

 彼は、拙速的に連絡員を送り込んだことを後悔していた。


「とにかく、本部と連絡が取れ次第、行動を開始する。それまでは、周囲を警戒し、ここに止まる」


 奴らの補給線だ。それさえ分かれば、部下を無駄に死なせないで済む。

 浜名少尉の胸の内にはその思いがあった。

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