その67:血戦! ポートモレスビー その10
おそらく、慎重になったのだろう。
こちらの後部機銃が火を噴くと、凧みたいな戦闘機はすっと距離をあけた。
しかし、逡巡したのは一瞬だった。とんでもない加速で、一気に距離をつめてきた。
「クソッ! バカみたいに速ぇぇ!」
チラリと下に目をやる、緑の密林が間近に迫っている。下手な機動をすれば、高度を失って、密林に突っ込む。
「敵機、グングン近づいてきます!」
藤田一飛が絶叫のような声を上げる。エンジン音をかき分け、神田飛曹長の鼓膜に届く。
「やろぉがぁぁ!」
フットバーを蹴飛ばし、機体を左旋回させる。この高度で横方向の機動は危険だった。
いかに、翼面荷重の低い零観とはいえ、揚力を失い、高度を下げる。
限界まで叩きこんでいたスロットレバーに更に力をこめ叩きつける。
零観は鋭く斜めに虚空を切り裂き飛んでいく。下がった翼端が、緑の海に突っ込み飛沫を上げた。
バチバチとアルミが樹木を叩く音が聞こえる。
嫌な振動が、体全身を震わせる。
プロペラ後流の中を濃い緑の葉が乱舞していた。
立川文庫(たつかわぶんこ)の忍者じゃあるまいし、木の葉隠れなどできるわけがない。
キツイGに耐え、首を後方に向ける。
銀色の凧のような機体は、こちらに機首を向けていなかった。
こちらの機動に追従することはなく、こちらよりやや高い高度を真っ直ぐ飛んでいた。
敵機は大きなバレル・ロールを行い大きく方向を変えていった。
神田飛曹長が「凧」という印象を持ったように「井」という字のような形をした機体だった。
これは、弾を撃っても、間を抜けていきそうだとチラッと思った。
「敵、離脱して行きます。後方50度」
ひきつったような声で、藤田一飛が言った。
神田飛曹長は、慎重に操縦桿を操作し、機体を水平に戻す。
飛行帽の中がべっとりとした汗でいっぱいになっていた。
あの機体形状からして、低空、低速の横運動は難しいと推測しての賭けだった。
敵は、これ以上こちらの相手をすることなく、飛び去っていった。
おそらく、本来の目的は別にあったのだろう。
でなければ、もっと執拗な攻撃を受けていたはずだ。
アメリカ軍のしつこさは尋常じゃない。今までの戦いで、神田飛曹長はそのことが骨身にしみていた。
「しかし、あの機体、どこから来て、どこへ行く気なんだ?」
もう銀色の光る点のようになった敵機を見つめ、神田飛曹長は言った。
◇◇◇◇◇◇
「いい感じだな――」
井上軍曹は小さくつぶやく。
空には身を細めているとはいえ、月があった。
その光は密林の底までは届かない。しかし、密林を抜けてしまえば、漆黒の闇というわけではない。
密林の中では目の前においた自分の掌すら、確認できないほどの濃厚な闇の底にあった。
密林を抜ければ、程よいと言っていい程度の明るさがある。
地形の起伏もあった。身を隠す場所には困らない。
「(なにか見えるか?)」
後ろを歩く山田兵長に手の合図で聞いた。
「(隠ぺい機銃座があるかもしれません)」
山田兵長は指さした。確かにいかにも、それらしい場所が何箇所かある。
ただ、ここからでは確実にそうだと言いきる材料もなかった。
ポーン――
乾いた音が闇の中に響く。
続いて、ひゅるひゅると笛の音のような音が聞こえてきた。
「なんだ! 照明弾か!」
数発の照明弾が空に撃ち上げられていた。
煙の尾を引きながら、眩い光球が地上を照らし出していた。光球はゆらゆらと空の闇に揺れていた。
ガガガガガガガガガガガガガ!
ガガガガガガガガガガガガガ!
オレンジ色の棒のようなものが、無数に伸びてきた。
井上軍曹は鉄兜の縁を握って、地面にめり込むように伏せた。
鼓膜ではなく、全身を震わせるような振動が続く。
振動に混じって、ヒュンヒュンと弾丸が風を切る音が聞こえてくる。
その音を聞いて、まだ自分が正気を保っていることを確認した。
「山田! 田中!」
井上軍曹は叫ぶ。しかし、返事はなかった。
機銃掃射だ。目の前にあった機銃陣地だけではない。
隠ぺいされて確認できない陣地からも無数の機銃弾が撃ち込まれていた。
それは、明らかに狙いをつけての物ではなかった。こちらは3人しかいないのだ。
たった3人に撃ち込むような弾丸の量ではなかった。
空間そのものを弾丸で埋め尽くすような射撃が続く。
「軍曹! 軍曹殿!」
返事があった。独特の訛りがある。高砂義勇兵の田中だった。
「田中か!」
「山田兵長はやられました」
後ろを振り向いて確認することもできない。
鋼鉄をホースでぶちまけたような射撃だ。何を考えているのか分からない。
もし、敵に気付いたとしても、こんな弾の無駄使いはあり得なかった。
孤立しているはずのこの陣地が潤沢な補給を受けているということなのか?
それだけ贅沢な戦ができるということなのか?
地面を揺らすような機銃弾の発射音に混じって、照明弾が間断なく上がっていく。
これでは、夜戦など出来るものではなかった。
なにかが爆発した。至近だ。
機銃攻撃ではない。
擲弾筒? いや、迫撃砲か?
直線的な機銃の十字砲火、そして曲弾道の迫撃砲。
その組み合わせによる死角のない砲撃が続く。
井上軍曹は後退を決定した。そして、田中とともに下がっていく。
山田兵曹長の遺体を回収するどころではない、自分が遺体になりかねない。
そもそも、生きて密林の中に入れたのは、奇跡以外の何ものでもなかった。
もう一度、やってみろと言われても絶対に無理だ。
「軍曹殿―― 肩が」
高砂義勇兵の田中だ。
闇の中、眼球の白い部分だけがかろうじて確認できる。
井上軍曹は肩を触った。ベットリとした何かで肩が濡れていた。
痛みはない。なんだこれは? と思った。
手を顔の前にもってくる。闇が何もかも判別できなくしていた。
ただ、その臭いで正体が分かった。血だ。肩から大量に出血していたのだ。
不思議と痛みはなかった。
鉄兜の中にいれてあった手拭いを破いて、とりあえず肩を縛った。
「奴ら…… なんなんだ一体?」
帝国陸軍の戦い方とはあまりに異質だった。
確かに、近代の戦闘は火力戦であり、火力が重要であることは、陸軍でも一定の理解が進んでいた。
戦後、一般に言われるほどの、無謀な精神主義というわけではない。
分隊レベルで軽機を配備し、敵陣地に対する浸透戦術のドクトリンを完成させていた。
それは、第一次世界大戦の戦訓を取り入れた、ある意味合理性を持った選択であった。
抜刀白兵の銃剣突撃の成功は、十分な火力支援。敵機銃座を潰すことが重要とされていたのだ。
たった3人の斥候に対し、あれほどの銃弾を叩きこむ敵。もはや理解の外だ。
弾の無駄使いだと笑えるのは、あの鋼鉄のシャワーの下をくぐっていない者の言葉だ。
井上軍曹は、寒気を覚えていた。
それは、決して出血のためだけではなかったのである。
◇◇◇◇◇◇
「誰だ! ジャップの総攻撃だなんて言ったアホウは!」
密林の中には数千を超えるマイクロフォンが埋設されている。
その数は2万を超えていた。
15センチ砲8門を中心とした300人程度の部隊の周囲に恐るべき密度で埋設されていた。
その位置は、座標をプロットするシステムと直結されている。電話交換機を改良した装置に接続されている。
敵の音声を探知し、音響測定射撃を可能としている。
12.7ミリの口径を持ち、重機関銃の最高傑作といわれる「ブローニングM2重機関銃」。
「キャリバー 50(フィフティ)」の愛称を持つ恐るべき兵器だ。
そして、それよりは口径の小さい7.62ミリの「M1917重機関銃」。
この機銃陣地が、15センチ砲である「ロングトム」を囲むように配置されている。
更に、その奥からは曲射弾道を放つ60ミリ口径の「M2軽迫撃砲」、81ミリ口径の「M1迫撃砲」が無慈悲の砲弾を送り込む。
凹凸の多い地面に隠れた敵兵に鋼の刃をお見舞いする存在だ。
突撃破砕射撃――
最終防護射撃――
そのような名で呼ばれる陸戦の新たな戦法。第一次世界大戦の中で生まれた「浸透戦術」を破砕する存在であった。
「まあ、それにしても無駄弾が多すぎたかな――」
偉そうな奴が言った。階級章見たら、軍曹だった。まあ、いい。
反省は次に生かしてくれればいい。
ズタボロになったジャップの兵が地面に転がっている。
貧相な小男に見える。
無数の銃弾で貫かれ、グズグスの状態といっていい。
機銃手だったウォーレン一等兵は、その場に唾を吐いた。
クソな気分というのはこのことだと思った。
少人数のジャップ相手に、盛大に撃ちまくって、たった1人を殺しただけだ。
一人の顔しか知らない男が、しゃがみこんで死んだジャップの口をこじ開けた。
そして、アーミーナイフで、何かを穿り返した。
そいつはズボンのすそでそれを拭いた。
金歯だった。
ナイフで金歯を引っこ抜いたのだ。
満面の笑みを浮かべている。
「どうだ」という感じで周りをみやった。
「どうだ」じゃねーよ。
てめぇが、殺したんじゃねーだろう。クソ野郎が。
それからだった。
兵たちがジャップの死体に群がった。
くたばったジャップから身ぐるみをはがす作業が開始されたのだ。
いわゆる「戦場土産」というやつだ。
ウォーレン一等兵は冷ややかな目でそれを見つめる。
そんなものを欲しがる奴は、頭のおかしな田舎者だと思っている。
戦争で勇敢に闘った証明?
クソか?
本気でやってるやつには、そんな余裕なんかねーんだよ。
クソ! なぜかイラつく。
そんな土産なんかいらねーんだ。俺はジャップを殺したい。
ただ、本当に、一人でも多くのジャップを殺してやりたいんだ。
「機銃手よりも、オーストラリアの奴らとジャップ狩りでもしていた方がマシだったかもな……」
彼はそう呟くと自分の持ち場に戻っていった。
◇◇◇◇◇◇
闇の中、密林を無理やり移動した。
とにかく、敵拠点との距離をあけなければ危険すぎた。
井上軍曹の、肩の傷は時間とともに痛みを自覚させつつあった。
「軍曹殿大丈夫ですか」
独特のイントネーションの日本語だ。
田中がこちらを心配そうに見ているのだろう。暗くて分からないが。
「ああ、問題ない。骨には達していない。なんとか動かせる」
出血はなんとか止まっていた。痛みは酷いが、動かせないと泣き言を言っている場合ではなかった。
密林が深くなっている。
下手に動いて迷う可能性もあった。ジッとしているしかない。
気が付くと、口の中がカラカラになっている。砂を口の中に突っ込んだようにざらついた感触がある。
水筒を手に取ったが、機銃弾や弾片によって穴が空いていた。
もう、水は無かった。
「まっていてください」
田中は井上軍曹の行動が見えているかのように言った。
実際、彼には見えているのかもしれない。
高砂義勇兵。台湾少数民族の彼らは、山岳地帯を生活の拠点とし、密林への適応力が抜群であった。
しばらくして田中は戻ってきた。すっと水筒を差しだしてきたのが闇の中でもなんとかわかった。
その水筒を受け取った。結構重みがあった。
口をつけ、一気に飲んだ。
やや、青臭い感じのする水であったが、十分に旨いと思えた。
口の中のざらざらした感じがなくなっていった。
おそらくは植物の蔦か何かを切って、水を集めたのだろう。
そういった技術に関しても、彼らは長じていた。
一部では彼らを、尊敬を込め「台湾軍」と呼んでいる者もいた。
大日本帝国の頼りになる相棒、同盟国という意味だろうか。
まあ、彼らも日本人なんだがな。
「明るくなったら、移動を開始。浜名少尉に合流する」
井上軍曹は、声をひそめる様に言った。
水を飲んで落ち着くと、闇の中に敵が潜んでいるかもしれないという思いが頭をもたげてきたのだ。
動き回っても、止まっても遭遇する可能性は似たような物だと思った。
もう、かなり敵拠点から離れているのだ。
「ああ、それから―― 田中」
「はい、軍曹殿」
「ありがとうな」
井上軍曹は静かにそう言った。
◇◇◇◇◇◇
夜が明けた。
かといって、密林の底では陽の光はわずかしか届かない。
周囲が明るくなったことで、朝であることを知るしかない。
井上軍曹と田中は密林をかき分け、渡河地点に向かう。
同じ道は通らないし、通れない。場所が分からないからだ。
ただ、今進んでいる方向に行けば、どこかで河に突き当たるはずだった。
田中が蛮刀を振るう手を急に止めた。
そして、井上軍曹に身を低くするように合図した。
慌てて、草の中に体を突っ込むようにして隠れる。
トゲのある竹のような植物が、肌を突き破る。しかし、それに文句を言っている場合ではない。
「足音、たくさんです」
田中がかろうじて聞こえるような声で言った。
敵か?
敵の追手なのか?
しかし、そうだとすると米軍の動きはあまりに早すぎる。
密林の中に入っていた自分たちを的確に追跡できるとは思えなかった。たった2人だ。そして、田中は密林戦のプロだ。そんなヘマはしない。
遊撃隊に遭遇したのか?
井上軍曹が考えたのは、敵の遊撃隊のことだった。
ポートモレスビーは、砲撃、爆撃だけではなく、接近してきた敵兵による迫撃砲攻撃を受けていた。
それほどの被害があるわけではない。
ただし、かなりの数の遊撃部隊が、密林内を動いている可能性があった。
しかも、ここはまだ敵の秘密拠点に近いのだ。
その遊撃隊に遭遇してしまった可能性もある。
万一のことを考え、三八式歩兵銃に着剣する。静かにだ。
黒く塗られたゴボウ剣の鋭い切っ先が心強く思えた。
「ザッ、ザッ、ザッ」という足音。それが、井上軍曹にも聞こえてきた。
かなり近い。いや近づいて来ている。
井上軍曹は三八式歩兵銃をギュッと握る。
なぜだろう、訓練のときも、いつも重いと思っていたこの銃。
それが、戦闘になると途端に、頼もしく感じる。
銃を握っている限り、自分は死なないという確信が湧いてくる。
井上軍曹は田中を見やった。
彼の武装は蛮刀だけだ。しかし、それで十分だろう。
密林の中で、田中と闘って勝てる奴がいるとは思えない。
高砂族は、密林戦のプロといってもいい。
自分だって、大陸、ボルネオで十分な戦塵を潜り抜けている。
戦わず、やり過ごすのが最善だ。
ただ、待ち伏せし、奇襲を仕掛けるという選択肢もあり得る。
井上軍曹は、三八式歩兵銃の射撃にも自信があった。
足音は大きく鳴り響く。
敵はかなり多いのか。10人以上か。
これは、多過ぎる。迎え撃つというのは、悪手だ。
やはり、やり過ごすしかない。
更に彼は身を深く伏せた。
名も知らぬ虫が体を這っている。
ふっと足音が消えた――
気付かれたのか?
どうする。
井上軍曹は、田中を見た。精悍な浅黒い肌をした男はじっと蛮刀を握って身を低くしている。
鉄のような沈黙が密林を支配していた。
ただ、遠くから名も知らぬ鳥の声だけが響いていた。
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