その64:【閑話】雷電開発物語

「その話はどこから来たのですか?」


 彼は上司から渡された書類に目を通しながら言った。

 丸いメガネの奥の知的な目が大きく見開かれた。

 そのきっちりとポマードで固められた髪型が彼の几帳面で細かい性格を表していた。


「海軍だよ。決まっているだろ。海軍が発注元なんだから。正式な仕様変更指示だよ。堀越君」


 彼の上司は淡々と言った。今は設計部門の責任者であるが、彼とて技術者だ。この時期の「仕様変更」の意味が分からないわけではない。

 堀越二郎は、書類から顔を上げ上司に視線を移した。上司は、机の上に肘をつき口の前で手を組んでいた。


 三菱重工業の航空機部門、戦闘機設計のエースともいえる堀越二郎。

 彼は、96式艦上戦闘機で成功し、現在、海軍の主力戦闘機となっている零式艦上戦闘機の設計主務者であった。

 

「大変なことになります。零戦の方は――」


「それは、若いもんに振る。目鼻はついているんだろ」


 上司は議論の余地などないという風に言い切った。

 零戦のエンジン換装、武装の強化、燃料タンク配置の見直し、翼端を切り落とし整形。

 2号零戦の設計に関しては確かに、引き継ぎは可能ではあった。

 彼自身の感情を抜きにすればだが。


 堀越二郎は徹底した完ぺき主義者だった。

 自分の仕事を途中で他人に引き継がせることには抵抗があった。

 しかし、それ以上に「十四試局地戦闘機」の仕様変更には承服しかねるものがあった。


 なぜ、今この時期に――

 しかも、この内容は……


 彼は上司に渡された書類に再度目を通す。

 それは彼の美意識に反する物であった。


 航空機は常に完ぺきを求め、一切の無駄をそぎ落とし、そこに美を造り上げる。

 一種の信仰心に似た信念を飛行機設計に持った男だった。

 設計図の一本のラインですら、徹底して美しさを追求するような繊細な男であった。


 そのような彼から見れば、今回の仕様変更は極めて乱暴な物に思えた。

 

(いったい海軍はなにを考えているのか)


「ああ、それから内示のあった十七試艦上戦闘機だがね。あれ、中止になった」


「また、中止ですか!」


 1941年に十六試艦上戦闘機として内示のあったときも、それが中止となっている。

 これで中止は二度目だった。

 

「零戦の改造と十四試局地戦闘機を先に片付けろということだろう」


 理屈は分かる。

 確かに、今のスタッフにこれ以上の業務を抱えさせるのは無理があった。

 また、彼自身もそれほど体が頑強ではない。

 彼の理性はそのことに対し、大きな反発を生むことは無かった。

 

「で、この仕様変更ですか?」


「ああ、そうだろうね」


 確かに、十四試局地戦闘機に対する仕様変更を行いながら、新規の設計を行うのは無理があった。

 理性では理解しつつも、彼の感情は別の反応を示していた。

 彼の頭脳は抜群のものではあったが、それは感情の制御まで完ぺきであることを意味してない。


「プロペラブレードの剛性を上げるのですか? ペラの効率が落ちますよ」


「分かってるよ」


 彼は話題を十四試戦闘機の仕様変更に切り替えた。 

 今、彼の感情をささくれさせている原因はこれだった。


 もう一度、彼は書類に目を落とす。

 異様な感じのする仕様変更だった。

 内容が具体的に過ぎた。

 要求性能の提示、問題点の改善を上げるのではなく、極めて具体的な対処方法まで指示してきている。

 極めて乱暴な対処方法だ。

 

 1942年2月に完成した試作機は性能が要求値を達成できず、更に振動、視界不良などの問題を抱えていた。

 プロぺラ剛性の話は、おそらく振動問題解決のためであろうと思われたが、どうしてそのような結論を早々に出せたのか。

 堀越二郎は、エンジンの延長軸に問題があると考えていたのだ。

 現在、その方面で調査分析を行わせている最中だった。

 プロペラ剛性の問題は、考えてもいなかったことだ。

 ただ、指摘されれば、その可能性があることは分かった。


「それに、水滴風防を採用すれば、抵抗が増えますよ。当然、要求仕様の325ノット(約時速602キロ)以上など無理な話になります」


 すでに視界改善の要求はあった。今回の仕様変更では更に具体的に、水滴風防の採用の指示があった。

 これも、抵抗を増やし、明らかに速度低下の要因となるものだった。


 現時点の試作機の最高速度は、570キロ程度にとどまっている。

 そして、この仕様変更だ。堀越は、一体海軍はなにを考えているのかと思った。


 俺に凡作を作らせる気なのか?

 この堀越二郎に。

 彼の書類を持つ手がプルプルと震えだした。


「海軍は、今回の仕様変更の結果、最高速度は10ノット低下を見込んでいる」


「はい?」


「性能の低下を許容してきたよ。最高速度315ノット(約時速583キロ)だ」


「性能低下を許容するのですか?」


「多少の低下は、問題ないとのことだ。それよりも、『十四試局戦』の振動、視界の問題解決が優先とのことだ」


 堀越二郎は耳を疑った。

 異例の事態だ。性能第一主義ともいえる海軍が性能で妥協することなど、今までなかったことだった。

 十二試艦戦闘機の開発会議で、性能の優先順位を示して欲しいと言ったときの海軍の反応を思い出す。

 彼らは絶対に性能的な妥協など許さなかったのだ。


 なぜか、言い知れぬ怒りがわいてきた。

 

 彼は96式艦上戦闘機を設計し、零式艦上戦闘機を生み出した男だ。

 彼には自負があった。矜持があった。

 自分が設計する戦闘機の性能は最高なのであるという思いがあった。


 堀越二郎の設計する機体は傑作で無ければならない。

 その思いがあった。

 そのために、妥協する気などなかった。


 だんだんと、怒りのボルテージが上がってくる。


 要するに、海軍はこの堀越二郎を舐めているのだ――

 東京帝国大学、航空科主席卒業。

 世界水準を抜く、96戦を造り上げ。

 今次大戦で、連合国を恐怖のどん底に叩き落した零式艦上戦闘機を造り上げたこの自分を――


 彼の優秀な頭脳は瞬時にこの性能の妥協は、自分の能力を海軍が低評価していると決めつけた。

 

 どがぁぁぁ!!


 堀越二郎は、モルタルの壁を思い切りぶん殴っていた。

 衝撃で丸メガネがずれた。

 ポマードで固めた髪が崩れる。


 彼の呼気が荒くなっていた。


「ほ、堀越君…… 冷静に…… ね…… お願いだから」


 上司が驚愕した顔で自分を見つめていた。

 いいだろう。こんどは海軍の奴らにその顔をさせてやる。

 

 彼は口の端を釣り上げ、獰猛な笑みを浮かべた。

 同時にその優秀な頭脳は、いかにして性能低下を防ぐか、その方策についてフル回転を開始していた。


「海軍に言ってください。性能は低下させません。堀越二郎の設計に「妥協」の二文字はないのです――」


 強烈な自負心を持った、この男は敢然と言い放ったのであった。


        ◇◇◇◇◇◇

 

 1942年秋――

 仕様変更指示から約7か月。

「十四試局戦改」の試作1号機のテスト飛行が行われようとしていた。


 離床出力1800馬力以上を誇る火星二三型甲が甲高い唸りを上げている。

 機首を絞り込んだ形状。そのため、強制冷却ファンが付いているのだ。

 その甲高い金属音が響き渡っていた。


 帆足大尉は、雷電の操縦席に座り周囲を見やった。

 視界は悪くない。

 すでに確認していたことであったが、ファストバックではなく、水滴型の風防を採用し、更に位置も高くなっている。

 下方視界を改善するために、胴体側面が大きく削られていた。

 そして、その削られた側面前部には、推力式単排気管が配置されている。

 エンジンカウリングとの間に生じた段差を、推力式単排気管から発する気流でカバーする設計になっている。


 彼は操縦桿を握り、フットバーに置いた足を軽く動かしてみる。

 

「悪くないな」


 彼はつぶやくように言った。

 まるで、宴会ができそうな広い操縦席も視界の良さも評価できた。

 テストパイロットとしての勘が、この機体は行けると告げていた。


 彼は、手信号で合図を送る。

 スルスルと機体は滑走路を進んでいく。

 機体が重いせいか、滑走距離は零戦よりはかなり長い。

 これは、この機体の特性上仕方ない面であった。


 ふわりと機体が地を離れる。

 機首を上げる。

 そのまま、あり得ない角度で機首を上げ、加速していく。

 上昇する機体が加速し、背もたれに体を押し付けられるという経験は初めてだった。


 零戦の上昇が優雅に舞うと評するならば、この「十四試局地戦闘機改」は強引に引っ張り上げるという感じだ。

 高度計の針をチラリとみて、ストップウオッチを確認する。


「ウソだろ――」


 そこには信じられない数字があった。

 彼は、記録するのをためらった。

 なにかの間違いがあったのではないかと思った。


 更に機体は上昇を続ける。

 甲高い音を立てる火星エンジンはグングンと機体を引っ張り上げていく。

 機体は5000メートルに達し、6000メートルとなる。


「三菱の試作機は、バケモノか――」


 彼は操縦席で呻くように言った。

 6000メートルの高度まで5分10秒――

 要求仕様の5分30秒を大きく上回っていた。


 帆足大尉の操縦桿を握る手が細かく震えていた。


 負けない――


 これで、この戦争に負けることが無くなった。

 そのような思いが胸の内に湧いてきた。


        ◇◇◇◇◇◇


「水平、最高速度325ノット(約時速602キロ)を超えます―― 330ノット(約時速611キロ)――」


 計測員の声が堀越二郎の耳届く。


 ざまぁぁぁ!! 海軍。


 自分を甘く見るな。いいか、この堀越二郎は天才なんだ。

 飛行機の設計では誰も負けぬ。自分こそが、自分が一番戦闘機をうまく設計できるんだ。


「やったな―― 堀越―― くん……」


 上司は彼の部下。三菱のエース設計者の顔を見て言葉を失った。 


 上空を見上げる彼の部下は口の端を釣り上げ笑みを浮かべている。

 ゾッとする笑みだった。

 それは、飛行機設計の悪魔に魂を売り渡した狂信者の笑みに見えた。

 しかしだ。

 そこまで、この戦闘機に心血を注いだからこそ、今、この日があるのではないかとも思った。


「…… はい、やりましたよ。私の戦闘機は常に傑作なのですよ」

 

 上空を見ていた堀越二郎は、あり得ないような角度で首を曲げ、上司を見やった。

 彼のメガネの奥の目の下には青黒いクマができていた。

 元々細身の体は、更に細くなり、げっそりとなっている。

 人間というよりは幽鬼と言った方がいい。


 ポマードで丁寧に固めてた髪型は止めていた。

 蓬髪といっていい髪が風の中を舞っていた。


 彼は、医者からは、過労が原因で、肋膜炎になりかけていると言われた。

 事実、呼吸をすると胸が痛い。 

 しかし、関係なかった。

 今、この瞬間を迎えるために、彼は恐るべきデスマーチを突き進んだのだ。

 当然、スタッフを巻き込んでだ。もはや、修羅場を通り越し、そこは地獄となっていた。


「やはりこの改修はデタラメまちがっている」と叫び、ぶっ倒れ、そのまま入院したスタッフもいた。


 しかし、堀越二郎は聞く耳をもたない。止まらなかった。 

 要はエンジン馬力の問題だった。「火星は馬力が少ない」ということだ。

 太い直径に比べ1400馬力程度の出力では、どうにもならなかった。

 それを救ったのは、火星の馬力向上型の登場だった。


 やはり、機体はエンジン次第なのか――


 その思いは、無いではなかった。


 十四試局地戦闘機改――

 海軍に採用され「雷電」という正式名を持つことになる戦闘機。


 長砲身二十ミリ機銃四門を備えた大火力。

 世界最高水準の上昇力。

 無理な機動でもびくともしない機体強度。

 中高度で600キロを軽く超える速度。


 Terrible Jack――


 後に連合国を震え上がらせる恐るべき戦闘機。

 その初飛行の瞬間であった。

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