その56:珊瑚海は燃えているか? 12
「まったく、人使いが荒すぎる」
零式水上観測機の操縦席で神田飛曹長は、ある種の諦観の混じった言葉をつぶやいた。
彼の何とも言えない気分とは裏腹に、瑞星エンジンは快調な音をたてていた。
「よく見張れ」
神田飛曹長は、後部の偵察員席の藤田一飛曹に声をかける。
「了解です」
元気な声が返ってくる。
彼は苦笑交じりで、その声を聞いた。
しかしだ――
今自分たちがなにをやっているのか?
母艦である特設水上機母艦「神川丸」に戻ったと思ったら、即補給して、再出撃の命令だ。
これは異例なことだった。1日に2度、それも間をおかず飛行命令が出ることなど今まではなかった。
任務の目的は、第一航空艦隊の上空護衛だという。
余計に訳が分からない。
自前の戦闘機を山ほど揃えた、第一航空艦隊が、なぜ下駄ばきの自分たちの護衛を必要としているのか。
ただ、それ以上の説明は無かった。上官自身、詳しい状況を把握しているとは思えなかった。
「無線の状態はどうだ?」
発進前にやっつけで、無線機の真空管の取り換えと調整を行っている。
「はい、今のところ問題はありません」
「了解。ちょっと変だと思ったら、すぐ伝えてくれ」
飛行自体は順調だった。天候も悪くない。通常単機の行動が多い零観であるが、今は4機の編隊で飛んでいる。
ちらりと、僚機を見ると、航空弁当をほおばっているのが見えた。
考えてみれば、最初の任務からずっと食事をとっていないことを思い出した。
神田飛曹長は、主計心づくしの航空弁当を取り出した。海苔巻だ。
彼は藤田一飛にも食べるように言った。
そして、それを頬張る。
「機影です! 後方180度―― 味方です。味方戦闘機の編隊」
藤田一飛が声を上げた。
神田飛曹長は後ろを振り返った。
(おいおい、なんだ? なにが起きてるんだ)
40機を超えると思われる編隊。
上陸部隊を輸送する船団の護衛についている軽空母「瑞鳳」、「祥鳳」の搭載機だった。それ以外に考えられない。
この2つの軽空母は、零戦だけを目いっぱい詰め込んで作戦に参加していると聞いていた。
おそらくは、それでも1艦あたり30機内外であろう。
であるならば、この40機という編隊は、全力出撃に近い。
護衛部隊の上空を空っぽにして、しかも自分たちのような下駄ばき機までつぎ込むという状況だ。
どう考えても、尋常じゃない。
戦況は相当不利になっているのではないか。そのような疑念が頭を掠める。
傷つき戦線を離脱して行った加賀の姿が浮かんできた。
「零戦隊から、編隊に追従するようにとのことです」
藤田一飛が言った。無線はまともに動いているようだった。
「無茶を言うぜ。こっちは下駄ばきだぞ」
しかし、神田飛曹長が心配するほど、巡航速度は速くはなかった。
艦上機としての特質上、零戦の巡航速度もさほど速くはなかったのだ。
零観の1割増しといったところだ。これなら許容範囲といえた。
考えても仕方がなかった。
行くしかない。神田一飛曹はスロットルレバーを操作する。
緩やかに零観が加速する。
「ゼロ」の名を冠する2種類の機体が、珊瑚海の空を征く。
日の丸の翼が風を切る音が響いていた。
◇◇◇◇◇◇
「レキシントンの復旧は無理か」
フレッチャー少将はつぶやいた。
誰も返事はしなかった。
それは、周知の事実を確認するための問いかけてあることを理解していたからだ。
ヨークタウンの艦隊司令部に温度を失った鉄のような沈黙が満ちてくる。
翼のある悪鬼のような日本軍機の攻撃により、アメリカ空母群は大ダメージを受けていた。
ワスプは既に沈み、レキシントンはどす黒い煙と火炎に包まれている。その巨大な煙突も黒煙に包まれ視認することができない。
ビリビリと空気を震わせる爆発が起きた。レキシントンはすでに空母としての存在を止め、ただ海上で燃えながら爆発するだけの存在となっていた。
すでに、日本軍の攻撃隊は去っていた。
相当数の敵機を墜したことは、確かだった。しかし、それも気休めにしかすぎないほど、手ひどくやられている。
ヨークタウンは数発の至近弾のみで、大きな被害はでていない。
それは、幸運といえたが、それは敵が損傷した空母に、攻撃を集中させたからだった。
「サラは…… 逃げ切れそうか」
「おそらくは」
サラトガはまたしても、魚雷で横腹をえぐられていた。
ただ、レキシントンのようなガソリン漏れによる火災が起きなかったのは幸いだった。
いや、レキシントンに運がないというべきだろうか。
駆逐艦の護衛を受け、戦線を離脱したサラトガ。
一方、彼女の姉妹であるレキシントンは、断末魔の中に喘いでいた。
巡洋戦艦改造のレキシントンは、頑丈な船体構造を持っており、1発や2発の魚雷でどうにかなる存在ではない。
普通であればだ。
だが、戦場では思いがけぬことが発生する。
被雷の衝撃で、ガソリンタンクからの燃料流出。そして揮発。
開放式格納庫の他の空母であれば、それに対し対応も可能であった。
しかし、空母建造の試行錯誤の途上にあったレキシントンは、閉鎖式の格納庫となっていた。
荒天での作戦行動には有利な面があったが、被害局限という意味では閉鎖式格納庫は開放式格納庫に劣っていた。
そして、ベンチレータもまた能力不足であった。
結果、ガソリンが格納庫に気化した状態で、ヴァルの投下した爆弾が命中。たった1発。
その1発が、4万トンを超える巨艦を火だるまにしていた。
連続した爆発音が響く。
天を焦がすかのような爆炎が吹き上がる。
フレッチャーは、魚雷によるレキシントンの処分を命じた。
米海軍はこの海戦で貴重な2隻の航空母艦を失った。
フレッチャーは燃え上がるレキシントンを見つめる。その目に刻み込むような眼差しで。
もし、ここでヨークタウンを失うことになれば、米海軍の空母戦力はほとんどゼロとなる。太平洋で運用可能な正規空母は無くなるのだ。
こちらの攻撃は敵にどの程度のダメージを与えたのか……
今のところ、情報が錯そうし、確証が得られない。
ただ、それなりの打撃を与えたことは確実と思われた。
「まだ、終わったわけじゃない」
フレッチャー少将はつぶやいた。小さくであるが、強い意思のこもった言葉だった。
◇◇◇◇◇◇
「翔鶴の火災は、鎮火の見込みです」
赤城の第一航空艦隊司令部に伝令の声が走る。
その瞬間空気が安堵の色に変わった。
そのような中、源田中佐だけは厳しい顔をしていた。
「翔鶴の脱落は痛いが……」
翔鶴は魚雷1発、爆弾2発命中。
火災は鎮火したものの、飛行甲板はめくれあがり、空母としての戦闘力を完全に喪失した。
駆逐艦を護衛に付け、戦線離脱させるしかない。
翔鶴は巡航タービンだけで26ノットの高速を発揮する。
主機関に損傷が無いのが幸いだった。
この速度を維持している限りは、潜水艦からの攻撃もほぼ心配がないといえた。
とにかく、艦を失うことが無かったことに、胸をなでおろすしかなかった。
潜水艦の攻撃により蒼龍を喪い、加賀が損傷した。
更に翔鶴も中破といっていい被害を受けている。
そして、飛龍が至近弾の飛散破片(スプリンター)で甲板上の零戦が炎上。
全力航行で舵を切り、艦を傾け、燃え上がる機体を振り落とすという正気の沙汰とは思えない対処でそれを切り抜けていた。
甲板が焼け焦げていたが、飛龍は辛うじて作戦能力を維持していた。
飛龍からは、敵空母を追撃すべしという発光信号が連打されている。
執拗なまでの攻撃精神。闘将・山口多聞らしいと言えば、らしいものだった。
しかし、すでに敵空母は逃走を開始しているという情報が入っていた。
アメリカの空母、レキシントン級1隻、そしてワスプの撃沈が確認されている。
さらに、レキシントン級はもう1隻が沈んでいる可能性もあった。
(3隻沈めたか……)
アメリカの正規空母は1隻のみとなったことになる。
おそらくは、ヨークタウンか。
(我々は勝ったのか……)
今一つ、首肯しかねる思いを抱えながらも、源田中佐はその結論にたどり着こうとしていた。
損失でいえば、敵3隻に対し、こちらは1隻だ。
戦闘に限って言えば、十分に勝利を誇っていいものであった。
しかし――
「ポートモレスビー攻撃の余力はあるかね。航空参謀」
南雲長官の声が源田中佐の思考を中断させた。
「機体の収容が済み次第、確認します」
彼は傷つきボロボロとなったまま、着艦してくる機体を見つめていた。
(空母による航空戦とはなんなんだ……)
編隊を崩し、バラバラとなり帰還してくる機体。
その多くが傷つき、無事な機体は数えるほどだ。
それでも、戻ってきた機体は運がいいといえた。
それ以上に多くの機体が、この南溟の空に散華していた。
空母艦隊による真正面からの殴り合い。
それは、勝っても負けても、無傷ではいられない。
特に、アメリカ海軍相手に、こちらが無傷で勝つなど夢想以外のなにものでもないことを知った。
数的優位がこちらにあってすら、ギリギリの勝利といえた。
仮に、彼らが数を揃え、立ち向かってきたら、我々は勝利することができるのか?
源田中佐は、自身の胸の内にあった問いに対し、今は明確に答えることができなかった。
いや、正確には答えることを拒否していたのかもしれない。
◇◇◇◇◇◇
「なんとか、アメリカ空母は撃滅したと……」
俺は、陸奥の作戦室で上がってきた報告を整理していく。
日本から遥か何千キロも離れた珊瑚海。
海戦の結果は辛うじて、こちらの勝ちといっていいものだった。
レキシントン級1隻、ワスプ1隻の撃沈。
さらに、レキシントン級がもう1隻沈んだ可能性があるという。
とにかく、作戦に投入されたアメリカ空母4隻全てになんらかのダメージを与えたことは確実だった。
「上陸部隊への航空支援は可能なのか?」
この点が気になる。海戦に勝ったとしても、これが出来なければ、作戦は頓挫だ。
ニューギニアに防波堤を作って、逃げ切る俺の構想を見直す必要がでてくる。
「十分可能であるとのことです」
「そうか」
俺は「ふー」と息を吐いた。
まだ、安心はできない。ポートモレスビーには推定100機以上の航空戦力が待ち構えている。
連日、こちらの基地航空隊との戦闘を行っているが、その勢力は衰える気配がない。
考えてみると、敵の潜水艦攻撃。これがかえって、敵を焦らせたのではないかと思った。
ポートモレスビー基地の攻撃圏内ではなく、外で空母戦が発生していた。
これは、アメリカ潜水艦が攻撃を成功させ、こちらの空母を削ったことが原因だろう。
それで、敵はこの機に、積極的に戦いを挑んで来たのではないか。
アメリカにとっては、日本海軍の空母を一気に撃滅できる千載一遇のチャンスに思えただろう。
結果として、ポートモレスビー基地と空母部隊が分断されたことになった。
なにが、幸運になるか分かった物じゃない。
ただ、この作戦が成功したとして、どこまで持ちこたえることができるのだろうか?
とうとう、こちらの空母も沈んだ。
蒼龍が沈んだ。
加賀と翔鶴も損傷した。
このまま作戦を継続することで、沈みはしないかもしれないが、損傷艦が出る可能性もある。
軽空母まで含めれば、8隻の空母を投入して、敵の4隻の正規空母部隊に対し、辛うじて勝ったという感じだ。
具体的な数は分からない。でも、搭載している機体、そして搭乗員の被害は相当な物だろうと思う。
下手をすれば、搭乗員の損害がそれほどでもなかった、ミッドウェー以上の被害を受けているのかもしれない。
局面の勝利を積み重ねつつ、追い詰められていくのではないか……
空母を沈めれば沸き立つ司令部も静かだった。
誰もなにも言わない。
宇垣参謀長も、日記のことを言わない。
沈黙がその空間を支配していた。いつまでも。
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