「届きそうで届かない」

刹那玻璃

第1話

 届きそうで届かない何かがあった。




 君と僕の距離のこと。

 君は僕のことを知ってる?

 僕はずっと君を見てた。

 僕は君の仕える屋敷の中を流れる小川の奥の淵に潜む竜。

 君は一年中その側で泣きながら洗濯物を洗ってた。

 最初は綺麗な水が汚れると腹も立った。

 でも、君はカサカサの真っ赤になった手で、丁寧に丁寧に一枚一枚洗っていた。

 泣いているなら止めればいい。

 ほら、手のあかぎれが裂けて血が滲んでる。

 それなのに、雨が降っても風が強くても、君は毎日やってくる。

 一枚だけの擦り切れた衣は汚れていて、その上雨や汗で濡れている。


 その日は、頰が赤く腫れて唇から血が滲んでいた。

 僕はとっさに淵から顔を覗かせてしまった。

 君は目を見開いた。


 異質な僕を拒絶するだろうか?

 すると、真っ青な顔で座り込み頭を擦り付けるように、


「申し訳ございません。申し訳ございません!ここは竜神様が住まわれると分かっておりました。しかし、誰も洗濯場を譲ってくれず、仕事が出来なければ主人や奥様に叱られてしまいます。それで……罰は如何様にもお受けいたします。申し訳ございません」


 泣きじゃくる君が痛々しくて、僕はつい持っていた宝珠をかざした。

 僕のこの淵に潜んでいた長い時と共に蓄えられた力、ほんの少しで事足りる。

 君の頰の傷と手足のあかぎれを治した。

 君は頭を上げ、きょとんとこちらを見た。


 普段は俯いていたけれど、こちらを見る瞳はこの辺りの人間と違う空色。

 髪は布に覆われていて、痩せこけているけれど顔立ちは整っていて、きっと成長したら美しくなる。


「竜神様がしてくださったのですか?ありがとうございます」


 わぁ、笑った。

 花が開いたみたいに……こんなに可愛いんだ。


「本当にありがとうございます。でも、これ以上竜神様の淵を穢す訳には参りません。もう二度とお邪魔致しませんのでお許し下さいませ」


 もう一度頭を下げる君に、構わないと言ったのは何故だろう。

 いつのまにか、君がくるのを待ち遠しく思うようになったのは?

 恐れず話しかけてくれる君に嬉しいと思い、配下の魚たちや近くの動物に頼んで二人で一緒に食べるものをこっそり集めているのは……。




 そして、最近僕の身体が大きくなり、この淵が手狭になってしまった。

 天空に登る時が来たようだ。

 今日君が来たらそれを告げたい。

 君の名前を教えて欲しい。




 そして……君と夜空を駆けたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「届きそうで届かない」 刹那玻璃 @setunahari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ