金曜の朝
寺町 果子
第1話(これっきり)
少し苔むして所々に細い亀裂の走った、打ちっぱなしのコンクリートのアパートの一室から、目覚ましのアラームがかすかに聞こえてから三十分が経過しようとしていた。人気のない廊下に重いドアが叩かれる音が響いている。
隣人がこの部屋の主を起こしに来たようだ。隣人はスーツを全身にまとい、片手には湯気の立つ、ココアが並々注がれたマグカップを持っていた。休日の穏やかな朝を邪魔されたことに耐えきれなくなったらしい。
隣人は朝の良い気分を崩したくなかったのでほどほどに優しい言葉を選ぶ。
「週末の出勤ほどつらいものはないよなぁ。でも、今日一日くらいは頑張って見ねぇ?お前ならできると思うんだよ。お前はもう立派な社会人なんだ。そう、立派だ」
ほんの少し間を置いて、
「でも、そろそろ起きろよ」
隣人が耳を澄ましても部屋の中からは相変わらずアラームだけが聞こえてくる。
隣人は勘弁してくれよ、と言わんばかりにため息をついた。
俺はこんなことを毎朝の習慣にするつもりはないんだけどなあ、隣人はそう呟き、ドアノブに手を掛けた。
隣人がドアを開けて、ベッドの方に目をやると、そこには姫をさらわれた騎士のように片手を伸ばしたまま布団に伏した男がいた。
伸ばした手の先では時計が鳴っている。
隣人は時計のアラームを止め、冷静に努めて言った。
「起きろ。朝だ」
男は隣人の呼びかけにいびきで応える。心なしか一段といびきが大きくなっている気がする。
「あ、そう来るのね」
隣人はそう呟くと手に持ったマグカップのココアを飲み干してキッチンの方に向かった。
そして隣人は再びベッドの前に立ち、汲んできた水を頭の上から男にぶち撒けた。
隣人はその時点で男が目覚めつつあることを確認していたのだが、少々腹が立っていたのでその後もキッチンとベッドの間を数回往復した。
やっと誰かが水を掛けて来なくなったことを確認して、男は情け無い呻き声を上げ、だるそうに寝返りを打つ。
「今、何時ですか」
男はしばらく返事を待っていたのだが、一向に返って来ないので、これは相当怒らせてしまったと思い、水に濡れて強張った体を恐る恐る起こした。
しかし、そこには1つの人影もなく、窓やドアが開けっ放しだということもなかった。更に加えると、ドアの鍵はしっかりと閉まっていた。それでも枕の辺りがひたひたになっているのが汗によるものではないということは彼のパジャマやベッドを浸す水の量を見れば明らかだった。
目覚まし時計のアラームを止めようとしたところまでは覚えている。しかし目を覚ましたら誰かに水を掛けられていた。男には何が起きたのか分からなかった。
しばらく考えていると足元に目覚まし時計がポツンと転がっていることに気づいた。
男は壊されたかもしれないと心配したが、杞憂だった。針は昨日と変わりなく動き続けている。
その目覚まし時計は男が会社の同僚から誕生日プレゼントで貰ったもので、発売当初は実際にベーコンを焼いたその匂いと共にアラームで目を覚まさせるというユニークさでテレビや雑誌を賑やかせていた。
その同僚も使ってみたのだが、焼き加減が期待していたものと違っていた、もう少しカリカリなやつが良い、という理由で半年以上早い誕生日プレゼントとしてもらった。
男と同僚はよく似ている。二人はお世辞にも仕事ができるとは言えないけど他の人にはない「緩さ」がある。
「ああ、良かった。頑丈な時計で。ベーコンは焼けなくてもアラームを鳴らしてくれればいいや」
そのアラームも男にとっては意味を持たないのだが。
「さて、時間を教えておくれ」
時計を持ち上げる。
「あれ?」
男はもう一度針の位置を確認して、大きなため息をついた。そして数分後には家を飛び出した。
金曜の朝 寺町 果子 @yumekanaemasu
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