第593話水江の浦の島子を詠みし歌一首 

水江の浦の島子を詠みし歌一首 


春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣船の とをらふ見れば

古の ことそ思ほゆる

水江の 浦の島子が 鰹釣り 鯛釣り誇り 七日まで 家にも来ずて

海坂を 過ぎて漕ぎ行くに わたつみの 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向かひ

相あとらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り

わたつみの 神の宮の 内の重の 妙なる殿に 携はり 二人入り居て

老いもせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世の中の 愚か人の

我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も語らひ

明日のごと 我は来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば このくしげ 開くなゆめと そこらくに 堅めしことを 住吉に 帰り来たりて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて

怪しみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歳の間に 垣もなく 家失せめやと

この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉くしげ 少し開くに

白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り

こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ

黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける

水江の 浦の島子が 家所見ゆ


春の日が霞む時などに、住吉の岸に出て、釣り船が波を受けて大きく揺らぐさまを見ていると、遠い昔のことを、どうしても偲んでしまうのです。

あの水江の歌の島子は、鰹や鯛を釣るのに夢中になり、七日を経ても家に戻らず、遥か遠く、わたつみの国との境界を越えて漕いで行ったのです。

そこで、わたつみの神の娘に偶然にも出会い、言葉を掛け合い、結婚をすることになりました。

その後は、契りを結び、常世の国にまで至り、海神の宮殿の最も奥の立派な御殿で手を取り合い二人きりで入ったまま、年を取ることもなく、死ぬこともなく、永遠に生きていられるはずだったのです。

しかし、この人間世界の愚かな男は、その妻に打ち明けたのです。

「少しの間だけ、家に戻りたい」

「心配している両親に事情を話し、明日にも戻って来る」

愛しい妻は言います。

「この常世の国に再び戻って来られて、今のように楽しく過ごそうと思われるなら、この櫛笥は決して開けないように」

しかし、本当に堅く約束したのに、島子が住吉に戻ってみると、家を探しても見つからず、里を探しても里は見つかりません。

島子は、これは奇妙だ、信じられないと思い、思案を重ねました。

「家を出てから、たかだか三年、垣根どころか家もなくなっているとは信じられない」

「もしかして、この箱を開けてみれば、おそらく元通りの家が現れるに違いがない」

そこまで考え、櫛笥を恐る恐る開けた瞬間、白い雲が箱から立ち上がり、常世の国の方角にたなびいて行きます。

あまりの異変に、島子は飛び上がって大声をあげて袖を振り、地面を転げまわり、地団駄を踏み続けるうちに、突然、気を失ってしまいました。

若々しいはずの肌は、皺だらけになり、黒髪も真っ白になってしまいました。

その後は、息も苦しくなり、ついには死んでしまったと伝えられています。

その水江の浦の島子の家の跡が、そこに見えるのです。


高橋虫麻呂の作ではあるけれど、浦島伝説そのもの。

ただ、亀は出てこない。

おそらく書物で読んだ浦島伝説を、高橋虫麻呂がアレンジしたものと言われている。

元祖異世界伝説のような、古代から親しまれてきた話である。

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