第262話山上憶良 或へる情を反さしめし歌一首

まどへるこころかへさしめし歌一首 序をあはせたり


ある人、父母を敬ふことを知りて、侍養することをを忘れ、妻子を顧みずして、脱履よりも軽しとす。自ら異俗先生と称す。意気は青雲の上に揚がると言へども、身体は猶し塵俗の中に在り。未だ修行し得道するに聖を験あらざる聖か。蓋しこれ山沢に亡命する民ならむ。

所以に、三綱を指示し、更に五教を開き、遺るに歌を以てし、その惑を反しめむとす。


歌に曰く


父母を 見れば尊し 妻子見れば めぐし愛し

世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ

行くへ知らねば うけ沓を 脱きつるごとく 踏み脱きて

行くちふ人は 石木より 生り出し人か 汝が名告らさね

天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います

この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み

谷ぐくの さ渡る極み 聞し食す 国のまほらぞ

かにかくに 欲しきまにまに 然にはあらじか

                         (巻5-800)

反歌

ひさかたの 天路は遠し なほなほに 家に帰りて 業をしまさに

                         (巻5-801)

心の迷いを正そうとした歌一首

ある人が、父母を尊敬すべきことを知っていながら、世話をしようとはしない。

妻子を顧みず、脱ぎ捨てた藁沓わらぐつほどにも思わない。

自分から世俗とは異なる先生であると名乗っている。

その意気込みにおいては、空高く青雲の上にまで揚がっているけれど、身体は未だに汚れた俗世の中に留まっている。

修行をしているけれど、まだ道を得た確証がない仏門の聖なのか。

あるいは、おそらく、山や川に逃げてしまった流民なのであろう。

そう判断したので、君臣、父子、夫婦の三綱のあるべき姿を一つ一つ教え、更に父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝という五行の教えを説き聞かせ、歌を贈り、その考えを改めさせようとするものである。


父母を見れば尊い。

妻子を見れば愛しく可愛らしい。

世の中とは、それが当たり前のこと。

とりもちにかかってしまった鳥のように離れることは難しい。

この先自分がどこに行くのわからないと言い、穴があいた沓を投げ捨てるように、家族を踏みつけて放り出して捨てるような人は、石や木から生まれて来たような情が無い人なのか。

あなたの名前を教えなさい。

天に昇れば、その思いのままでかまわない。

ただし、その身が地上にあるからには、天子様がおられるのである。

地上を照らす太陽と月の下は、空の雲が垂れるはるか彼方まで、またヒキガエルが這っていく地の果てまで、天子様が治められる素晴らしい国なのである。

それを考えれば、自分勝手にやりたい放題など、それでは問題があるのではないか。


天に至る道は、果てしなく遠い。素直になって、家に戻り本来の仕事をするべきですよ。



当時、大陸渡来の新しい宗教や学問にかぶれ、父母や妻子を捨てて、山や川に精神的修行を求め、逃亡するものが多くいたらしい。

自身が遣唐使でもあり、大唐の事情にも精通していた山上憶良は、筑前国守として父母への孝養、妻子を慈しむことなどの人としての道を教え諭す職務も負っていた。

仏道修行をすると言えば、当時では、恰好がよかったのだろうか。

それを理由に勝手に出奔、父母や妻子を捨てて、どこで何をしているのかわからない。

当時の朝廷は、そういう行為を禁じたけれど、止まなかったらしい。


人として、基本は父や母、妻子を大切にすること。

自分勝手に浮ついた生活は、するべきではない。


当たり前といえば、当たり前。

反発する人もいるかもしれないけれど、何かに失敗して本当に苦しい時は、実に心に響く教えになる。



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