第36話 柿本人麻呂死に臨みし時に
柿本朝臣人麻呂の、石見国に在りて死に臨みし時に、自ら傷みて作りし歌一首
鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
(巻2-223)
柿本朝臣人麻呂の死にし時に、妻の
今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡に交じりて ありといはずやも
(巻2-224)
直の逢ひは 逢ひつかましじ 石川に 雲立ちわたれ 見つつ偲はむ
(巻2-225)
柿本朝臣人麻呂が石見の国にて、自らの死を目前にした時、自ら悲しんで作った歌一首
今、私は鴨山の岩を枕に、死を迎えようとしている。妻は、それを知らずに、今も私を待ち続けているのだろう。
柿本朝臣人麻呂が死んだ時に、妻の
今日か今日かと待っていたあなたは、石川の峡谷の中で、斃れてしまったというではありませんか。
こうなってしまったのなら、直にお逢いすることは、難しいでしょう。
せめて、石川に雲として、立ち昇ってください。
その雲をあなたとして、見て偲びます。
「岩根しまける」は、死を意味する言葉。
人里離れた山中で、荒々しい岩を枕に亡骸を横たえる行路の死。
家にいれば、隣には妻がいるけれど、今ここで岩を枕に永遠の眠りにつかなければならない。
どうにもならない「死の現実」を認めなければならない。
自ら悲しむというけれど、自分自身の悲運に対する思い、その自分自身を待つ妻の思い、妻を愛する自分の思い、この三種の思いが響き合ってこの悲運の歌が詠みこまれている。
一方、人麻呂の死を告げられた妻の
ずっと待ち続けた貴方は、岩の中で、斃れ伏していると聞きました。
とても、女の身で、そこまではたどり着けません。
せめて、立ち昇る雲をあなたとして、偲ぶこととします。
(人麻呂が命を落とした方角の山から、立ち昇る雲を、人麻呂を火葬した雲にする。そして、せめて、それを人麻呂として偲ぶことにする)
※依羅娘子は石見国での柿本人麿の現地妻とされる女性であるけれど、未詳。
※鴨山、石川の地は、諸説あるけれど、未詳、確定していない。
※石見での死を疑う説もある。
実際には死んでいない人麻呂が、別れた妻に対して「自分は石見の山に落ちて死んだことにしてくれ、死しても(別れても)お前のことを思っている」の意味を込めて、一首目を詠み、その意をくみ、別れた妻も「あなたは石見の山で足を滑らせて死んだと思いきります、もし、その方角に煙が昇れば、それを死んだ(別れた)あなたとして偲びます」と答えたのでは、ないだろうか。
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