第34話 柿本人麻呂 石の中の死人に哀しむ(1)

讃岐の狭岑島さみねのしまに、いわの中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂の作りし歌一首

玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ

神からか ここだ貴き 天地あめつち 日月と共に

足りゆかむ 神のみおもに つぎ来る 中の水門みなと

船浮けて わが漕ぎくれば 時つ風 雲居に吹くに

沖見れば とゐ波立ち 見れば 白浪さわく

鯨魚いさなとり 海をかしこみ 行く船の 楫ひき折りて

をちこちの 島は多けど なぐはし 狭岑さみねの島の

荒磯面ありそもに いほて見れば 波の音の しげき浜辺を

しき妙の 枕になして あら床に ころ伏す君が

家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを

玉鉾の 道だに知らず 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは

                                (巻2-220)

※玉藻よし:讃岐にかかる枕詞。※鯨魚とり:海にかかる枕詞。

※しき妙の:枕にかかる枕詞。:玉鉾の:道にかかる枕詞。


讃岐の国は、国柄ゆえか、いくら見ていても飽きることはない。

神の御心ゆえか、これほどにも貴い。

天地、日月とともに、永遠に満ち足りて栄え続けるであろう神の御顔として、

神代から続いて来た讃岐の国の那珂の湊から、

船を浮かべて、我々が漕ぎ来たところ、

その時間に決まって吹く強い風が、雲の彼方を吹きわたり、

沖を見渡せば、うねり波が立ち、海岸の近くでは、白い波がざわめている。

そのような海の恐ろしさを感じ、進む船の楫が折れてしまうほど漕ぎ急いで、

周囲には多くの島はあるけれど、その名が高い狭岑さみねの島の

荒磯の上に小屋を建てて眺めていると、波音が激しい浜辺を枕にして、

荒々しい地面を床にして、斃れ伏している君がいる。

君の家がわかるならば、訪ねて知らせてあげたいけれど、

君の妻が、このことを知ったならば、訪ねて来るだろうけれど、

その妻は、ここへ来る道など知らない。

今頃は、君の帰りを、ひたすら心配して待ち焦がれていることだろう。

君の愛しい妻は。


瀬戸内海に浮かぶ狭岑島で、旅の途中、行き倒れの死者を目撃して、詠んだ歌。

当時は、税の貢納や、賦役への従事のため、地方の人々は中央との往復があった。

多くの場合は、自力(自己負担)による旅。

往復の途中、行き倒れになった人々は、少なくなかった。

この歌で、狭岑島で行き倒れた人物は、中央出身者であるか、地方出身者であるか、判定はできないけれど、おそらく中央集権体制の下で、長距離旅行を強いられた人物ではないだろうか。

柿本人麻呂にとっても、未知の人物。

行き倒れのまま、放置されているのだから、その土地には無縁の人物の可能性が高い。


当初は、神代の時代を思い起こして、理想的な土地での快適な船旅であった。

その中で、突然の悪天候、退避場所の狭岑島で、予想外の悲惨な死人を目撃する。

歌の詠みはじめ時の快適さと、最後の悲嘆の落差。


死人の家を知らず、待ち続けるだろう死人の妻を思いやる。


「家を教えてくれれば、そこまで言って知らせよう」

「そうすれば、君の妻が迎えに来てくれるだろう」

「だから、家を教えてはくれないか」

「君の愛する妻は、君を愛する妻は、ずっと不安と寂しさの中、待ち続けることになるんだよ」

「告げるのも、辛いことだけど」


死人に語り掛ける人麻呂の姿が浮かんだ。


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