第33話 柿本人麻呂 楽浪の、そら数ふ  二首

短歌二首

楽浪の 志賀津の児らが 罷り道の 川瀬の道を 見ればさぶしも

                         (巻2-218)

そら数ふ 大津の児が 逢ひし日に おほに見しくは 今ぞ悔しき

                         (巻2-219)


※楽浪の:志賀、大津にかかる枕詞。※そら数ふ:大津にかかる枕詞。


志賀津の娘が、死出の道として通った川瀬の道は 見るからに寂しさがこみあげて来る。


あの大津の娘が姿を見せた時に、何気なく見ただけであったのが、今は悔やまれる。


様々な説があるけれど、前回の長歌と合わせて考えると、この采女入水自殺事件は、近江大津宮時代に起きたようだ。

一人の采女が、若い男性との恋に身を焦がしてしまった。

それが世間に知れ渡ってしまった。

もともと、采女は地方豪族が天皇への服従のしるしとして、貢上したもの。

選び抜かれた美しい女性たちであったので、大宮人たちの関心をそそる存在であったけれど、自由な恋愛や結婚は禁じられていた。

しかし、その禁忌に彼女は背いてしまった。

そして露わになった禁忌を苦にして、自ら入水自殺を遂げる。


「罷り道の川瀬の道」は、采女の入水自殺のための、あの世へと向かう道。

世間の人が歩く尋常な道でもなく、采女の宮殿から退去した川沿いの道でもない。

ましてや、采女の葬送の列が通る道ではない、すでに采女は罪深い立場なのだから。



しかし、人麻呂は、その采女の悲運を嘆く。

それで、人麻呂は采女が沈んだ川を見に行ったのでないだろうか。

その川の流れは、采女の死出の罷り道。

罷り道は。どんなに辛かっただろう、どれほど冷たかっただろう、どれほど苦しかっただろう、どれほど寂しかっただろう。

采女が沈んだ川の流れを見つめて、儚く命を終えた采女に思いをはせる。


采女が罪深いからと言って嘆かずにはいられない。

人の心は、そんな杓子定規にはできてはいない。




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