第32話 吉備津采女の死
吉備津采女の死にし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌一首
秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる児らは
いかさまに 思ひ居か たく縄の 長き命を
露こそば 朝に置きて 夕には 消ゆといへ
霧こそば 夕に立ちて 朝には 失すといへ
梓弓 音聞く我も おほに見し こと悔しきを
しきたへの 手枕まきて 剣太刀 身に添へ寝けむ
若草の その夫の子は さぶしみか 思ひて寝らむ
悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし児らが
朝露のごと 夕霧のこと
(巻2-217)
秋の山が黄葉に色づいたようなあの子
しなやかな竹のような、たおやかなあの子
いったい、何を思いつめてしまったのか
まだまだ先が長い命を
露であるならば朝におり、夕には消えるというけれど
霧であるならば夕に立ち、朝には消えるというけれど
彼女のことは噂でしか聞くことはない私であるけれど
生前、一度しか見かけることができなかったのを、悔やむくらいなのに
それ以上に 手枕を交わして 身を寄り添って共寝をしたであろう
その夫は 今ごろは 寂しさに包まれて 一人寝をしていることだろう
悔やんで 思い焦がれていることだろう
時ならず 自ら命を絶ったあの子は
朝露のような・・・夕霧のような・・・
※たく縄の:長きにかかる枕詞。梓弓:音にかかる枕詞。
※しきたへの:手枕にかかる枕詞。※剣太刀:身にかかる枕詞。
※若草の:妻(夫)にかかる枕詞。
采女は、各地の有力な氏族から容姿端麗ななる女性を選び、出仕させ、天皇の身辺の世話をする女性。
古くは、各豪族の服従の贄として、貢上されたもの。
この美女たちは、美しい装飾、美しい衣服を身にまとい、しかも天皇側近という、一般の廷臣とはかけ離れた世界にいた。
それを垣間見る廷臣(人麻呂も含む)にとってみれば、憧れるだけで近づきがたい存在。
また、その采女という職掌の性格上、出仕の間は、天皇以外の男性と関係を持つことは、厳に禁じられていた。
この吉備津の采女の場合は、歌の中に「夫」とあることから、禁断である天皇以外の男と密通し、それが露見してしまった。
それを悔い、恥ずかしみ、突然、入水自殺をしてしまったようだ。
人麻呂は、そんな話を噂で聞き、彼女の命の儚さと、禁断の恋を思い、悔やんではいるけれど、最後は「朝露のごと 夕霧のこと」(朝露のような・・・夕霧のような・・・)と、儚さだけを詠み、終えている。
彼女の罪を責めてはいない、ただ、その儚さだけを、悲しむだけである。
様々な辛さに耐えかねて、水底に沈む美女。
このテーマは、様々な歌で、万葉集に出て来る。
また、他国ではあるけれど、ハムレットのオフェリアも、浮かんできた。
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