第25話 大伯皇女は亡くなった大津皇子を悲しむ(1)

大津皇子の薨ぜし後に、大来皇女の、伊勢の斎宮より京にのぼりし時に御作りたまひし歌二首

神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに

                                (巻2-163)

見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに

                                (巻2-164)


大津皇子がお亡くなりになった後、大伯皇女が伊勢の斎宮から上京した時に作られた歌二首。

伊勢の国に残っていればよかったのに、何故、都に戻って来たのだろうか、弟(大津皇子)もいないのに。

※神風の:伊勢にかかる枕詞。


遭いたいと思う弟もいないのに、馬も疲れるだけなのに、どうして都に戻ってきてしまったのだろう。


〇大津皇子の謀反が発覚し処刑されたのは、朱鳥元年(688)10月3日。年齢24歳。〇大伯皇女(大来皇女とも言う)は、大津皇子の同母姉。同年11月16日、天武天皇崩御に伴う忌服のため、伊勢斎宮を離任。


かつて、死を賜ることを予感し、伊勢まで馬を飛ばして自分に別れを告げにきた、弟大津皇子。

その大津皇子を自分は、深夜から立ち尽くして、露霜に立ち濡れながら見送った。

斎宮の職を解かれ、都に戻ったとしても、弟はすでに、この世の人ではない。

そんな、自分には寂しさしかない。


〇万葉集の詠まれた時代は、自然の豊かな中で人々がのどかな暮らしが営まれていたと思われるけれど、現実は、皇族間の覇権抗争や、臣下の豪族、貴族の争いが多かった時代。

結果的に、有間皇子、大津皇子等、謀反事件に巻き込まれて、死刑に処せられる皇子も多かった。

中大兄皇子(天智天皇)や、持統天皇だけが特別に残酷だったわけではない。

この時代においては、このように肉親縁者であっても、自分直系の子孫に覇権を握らせるために、罠に落としいれて殺害することが、多かった。

残酷と言えば残酷、哀切といえば哀切。

死を賜った人も、残された人も、辛い。

人の歴史は、血と涙の歴史とは言うけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る