第24話 有間皇子と岩代の結び松
(巻2-141)
家にあれば
(巻2-142)
有間皇子が自らを悲しんで松の枝を結んだ時の歌二首。
岩代の浜松の枝を引き結んで、幸いにも無事であったなら、また帰りに見ることができるのだけれど。
家にいれば、器に盛って食べる飯を、旅の途中なので(道中の手向け)として、椎の葉に盛ることになった。
※自傷:我と我が身を悲しむこと
※岩代:紀伊道を南に下った白砂青松の美しい浜辺(天皇行幸先の紀の湯と、有間皇子が死を賜った藤白坂との間にある)。
※
※飯:コメなどの穀物を蒸したもの。
※草枕:旅にかかる枕詞。
※松の枝を結んで手向けの呪術として、幸いを祈る習俗があった。
〇有間皇子は斉明(皇極)天皇の弟孝明天皇の皇子で、中大兄皇子(天智天皇)のいとこにあたる。
斉明3年(657)9月、狂人をよそおい、紀伊の牟婁の湯に療養。帰京後、伯母の斉明天皇にその効用を述べ、牟婁の湯に出かけることを進言する。
翌4年11月、天皇の牟婁の湯行幸の留守中、曽我赤兄の謀略にかかり、謀反を企てたけれど、発覚。捕らえられて牟婁滞在中の天皇のもとに護送される。
中大兄皇子の訊問を受け、帰途藤白坂で絞首刑に処せられた。ときに19歳。
この一首目は、斉明天皇のもとに護送される途次、岩代で松の枝を引き結んで、土地の神に、「ま幸くあらば」と、自分の平安無事を祈ったもの。
しかし、その甲斐もなく、皇子は、わずか19歳でこの世を去ることになった。
二首目の「椎の葉に盛る」の解釈はまとまっていない。
岩代の神への手向けの神饌として、椎の葉に飯を持ったという説。
尚、熊野地方では、地の神を祀るのに、木の葉を皿代わりに用いる習慣があった。
あくまでも、「家にいれば」を重要視し、不本意にも捕らえられ、護送の身(ほぼ死刑を悟った)を嘆き、それによる不如意な食事を詠んだ歌との説。
あるいは、両方の意味を含むと考えたほうが、有馬皇子の哀切を感じるのではないだろうか。
長忌寸意吉麻呂の、結び松を見て哀咽せし歌二首
岩代の 崖の松が枝 むすびけむ 人はかへりて また見けむかも
(巻2-143)
岩代の 野中に立てる 結び松 心も解けず 古思ほゆ
(巻2-144)
長忌寸意吉麻呂が、結び松を見て、悲しみ咽んで作った歌二首
(長忌寸意吉麻呂は未詳の人物、おそらく有馬皇子事件の40年後、持統・文武天皇の紀伊行幸に従った人物)
岩代の崖の松の枝を結んで祈ったお方は 立ち返って再び見ることができたのだろうか。
岩代の野中に立っている結び松、その結び松と同じに、私の心も穏やかにはならない、昔の事件を思い出してしまうから。
この長忌寸意吉麻呂の哀傷歌に続いて、
山上憶良の追和歌
天翔り あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ(巻2-145)
有馬皇子の御魂は、磐代(岩代)の松の上を 天翔けて行き帰りして、見ているのだろうか、ただ、それは人間にはわからず、松だけが、よくわかっていることなのだろう。
柿本人麻呂の追和歌
後見むと 君が結べる 磐代の 子松がうれを また見けむかも(巻2-146)
帰りの道で見ようと、有馬皇子様が結んだ磐代(岩代)の松の若芽を、有馬皇子様は、再び見ることができたのだろうか。
全ての哀傷歌、追和歌が「岩代の結び松」をとおして、有馬皇子の御魂を鎮める歌となっていることから、当時すでに有馬皇子は悲劇の皇子として、享受されていたと思われる。
また、この有間皇子の悲劇は、その後も、数多くの人々の同情と哀悼の気持ちを呼び起こし、岩代の結び松の地は江戸時代に至るまで紀伊熊野路の名所として人を集めた。
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