第15話 亡き天武帝を偲び 弓削皇子と額田王

吉野宮に幸したまひし時に、弓削皇子ゆげのみこの額田王へ贈り与へし

いにしへに ふる鳥かも ゆづるはの 御井みいの上より 嘆き渡り行く 

                                (巻2-111)


額田王の和し奉り歌一首 やまとの今日よりたてまつりり入れたり

古に 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が思へるごと

                                (巻2-112)

吉野より生ひたる松の枝を折り取りて遺はしし時に、額田王の奉り入れし歌一首。

み吉野の 玉松が枝は しきかも 君がみ言を持ちて通はく

                                (巻2-113)



(持統天皇)の吉野宮に行幸なされた時に、弓削皇子が額田王に贈り与えた歌。

天武帝がおられた昔のことを恋慕う鳥なのだと思います。ユズリハの樹のある御井の上を通って、鳴きながら飛んでいくのです。


額田王の返歌。倭の京(明日香浄御原)から奉られた。

その昔を恋い慕うような鳥はホトトギス。私が恋い慕うように、ホトトギスがおそらく鳴いたのでしょう。


弓削皇子が吉野から苔むした松の枝を折り取って贈った時の、額田王の返歌。

み吉野の松の枝は美しく愛しく思います。皇子のみ言葉を持ち運んで来られました。


※持統天皇の吉野行幸:在位中に30回以上。壬申の乱が始まる前の雌伏の日々を過ごした地であり、持統天皇は特に思い入れが強かったものと思われる。

※弓削皇子:天武天皇の第六皇子。推定で天武2年(673)年の生まれ。

      この歌の作成時期は20歳前。

※額田王:天智帝及び天武帝の妻にして歌人、この時60歳を超えていた。

※ゆづるは:トウダイグサ科の常緑高木。

※松の枝とこけ:松の枝から糸くずのように垂れ下がった苔。松の千年の寿命を示すものと考えられていた。



さて、これらの歌が詠まれた時期は、持統天皇4年(690)5月、あるいは5年(691)年4月。(正確には不明)

大津皇子が謀反の疑いを掛けられて謀殺された(朱鳥元年:686)後とされている。


また、吉野の地は、壬申の乱前の天武帝、後の持統帝の雌伏の地であるけれど、天武天皇の在世時(天武8年:679年)に、草壁皇子や大津皇子たち六人の皇子で兄弟が決して争わぬことを誓い合った場所。

しかし、その誓いにもかかわらず天武帝が亡くなると、すぐに後継者問題が起こり、大津皇子は殺害される。(朱鳥元年:686年)


吉野の誓いの場には弓削皇子はいなかったけれど、それでも吉野の宮に立った時、弓削皇子はこの時の盟約のことに思いが至ったのかもしれない。

また、自分の子である皇子同士の争いを悲しんでいいる天武帝の心を感じ取ったのかもしれない。


天武帝の妻でもあった額田王は、「自分もいつか殺されるかもしれない」という弓削皇子の不安を感じ取ったのだと思う。


弓削皇子が、「この苔の生えた松のように貴女も長生きをしてほしい」の思いを込めて、苔むした松の枝を贈ったのに対して、額田王は、心の底から「貴方の美しい気持ちを受け取りました」と返す。

その真意は、寂しく不安で、昔を思う気持ちは、弓削皇子様と同じですと、慰めているのだと思う。


しかし、結局、弓削皇子は、文武天皇3年(699)、27歳で夭折してしまう。


天武帝、弓削皇子、額田王の哀しみは、今も吉野の空の上に、飛んでいるのかもしれない。

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