第14話

「お前、親父さんと何かあったのか?」


 私の心は、真っ二つになった。それほど衝撃的な問いだったのだ。

 いつかは皆に話さなければならないという気持ち。しかし思い出したくはないという抵抗感。


「あ、別にいいんだぜ? 話しづらければ」


 健太は自分の顔の前でぶんぶんと手を振った。

 だが、今話さなければ。自分からタイミングを計っていたら、ずっと話せないままかもしれない。きっと今こそが、自分の弱さを跳ね返すチャンスなのだ。

 強くあらねば。たとえ自分が弱くとも。


「さ、沙羅……?」


 私は一度、健太から目を逸らした。都合のいいことに、美穂と克樹は眠っている。まずは健太だけに話しておきたい。どうして健太なのかは分からなかったが、とにかく、そんなわがままが満たされた形だ。

 ゆっくりと息を吸い、声量を絞りながら、


「あの人のせいで、お母さんと里奈は死んだのよ」


 健太は目を丸くしたが、それに気を取られている暇はない。今の言葉を皮切りに、私は事の次第を語り始めた。


         ※


 今から七年前、七月下旬。


「はーい里奈、お姉ちゃんに『行ってきます』って」

「いってらっしゃい」

「違うわよ里奈、『行ってきます』でしょう?」


 自宅の玄関前で、私は幼稚園に向かう妹の見送りをしていた。無邪気な妹、里奈と母との触れ合いに、胸が暖かくなるのを感じる。当時、私は十歳。小学四年生だった。

 やけに空が青かったこと、そして蝉の鳴き声が賑やかだったことはよく覚えている。


「行ってきます!」

「はい、よく言えましたね、里奈」


 母がさっと妹の頭を撫でる。


「それじゃあ、お母さんは里奈を幼稚園まで送って来るから。沙羅、夏風邪はこじらせると大変だから、すぐ部屋に戻りなさい」


 笑顔を崩さずに、階段の上の私を見上げてくる。


「あともう少しだけ! そこの国道まで見送ってもいい?」

「風邪がひどくなったら、大変なのはあなたなのよ、沙羅?」

「だってお父さん、もう一ヶ月もいないんだもの! 独りでいるのは寂しいよ!」


 そこで、微かに母の顔が歪んだ。父のことを娘の私に指摘されたのが気にかかったのだろう。

 しばしの間、母は思案顔で俯いていたが、それもそう長い時間ではなかった。


「分かったわ。でも、すぐそこまでよ?」

「了解です!」


 私はおどけた敬礼をして見せたが、母は口をへの字に曲げて『そんな遊び半分でやるんじゃありません!』と拳を振り上げる動作をしてみせた。その動作が滑稽で、そしてそれは母自身も承知の上で、互いに笑いあった。


「さあ、行くわよ里奈。沙羅、そっちの手を繋いであげて」

「はい」


『は~い』と返事を伸ばさないように、とは厳しく言われていたので、そこは守ることにする。


 燦々と照り付ける太陽の元、きゃっきゃと跳ね回る里奈。


「そんなにはしゃぐようなら、お父さんが帰ってきた時に叱ってもらいますよ」

「里奈はお父さん、大好き!」

「あ、私も!」


 私も空いている方の腕を振り上げる。


「そうね、今度お父さんが帰ってきたら、皆で美味しいものを食べに行きましょうか」

「お母さん、私、ハンバーグがいい!」

「里奈も!」

「はいはい」


 母は零れるような笑みを浮かべ、私たちを見下ろした。


「あら、もう着いちゃった。ここから一人で帰れるわね、沙羅?」

「うん! お母さん、里奈、いってらっしゃい!」

「行ってきます!」


 そう言って、里奈は一際大きく飛び跳ねた。私はそっと、その手、その指先から手を離す。

 仲睦まじく、私から離れていく二つの背中。私が陽光に目を細めた、直後のことだった。凄まじいブレーキ音が、鼓膜を貫いたのは。

 ほぼ同時に聞こえてきた、ドン、という鈍い衝撃音。そして、二人の姿が一瞬で視界から消えた。

 

 私は無意識に、視線を右から左へと飛ばした。バタン、という打撃音がして、母の身体がアスファルトに打ちつけられる。その胸には、里奈が抱きすくめられていた。しかし、母も里奈の全身を守り切ることはできなかった。里奈の頭部からは、真っ赤な液体の筋が流れ落ちている。


 母の姿はと言えば、私の記憶には残っていない。救急車に同乗させられた私は、多臓器損傷とか、複雑骨折とか、わけの分からない言葉に晒されていた。

 言葉自体が、当時の私には難しすぎたのかもしれない。しかしそれ以前に、『家族が事故に遭った』ということが信じられなかった。


 それに輪をかけるようにして、私は急に孤独感に襲われた。真っ暗な世界に叩き落されたのだ。私にはもう、お父さんしかいない。その時、救急車備え付けの電話が鳴り響いた。


「何? ご主人が不在? 自衛官で今イラクにいるって?」


 はっとした。顔を上げると、訝し気な顔をした看護師と目が合った。看護師は気まずそうに、私から目を逸らす。


「任務は? 今年の……え? 来年の一月まで? そ、そうですか。こちらから連絡はつきますか? はい、はい。お願いします」

「何があったんですか?」


 別な看護師が尋ねると、


「いや、それは後ほど……」


 と言って言葉を濁した。私に気を遣ってのことだろう、看護師たちはこの場での会話を断ち切った。


 翌日から一週間後に至るまで、私の記憶は飛び飛びになっている。黒い服を着せられ、母と妹の写真の前で、ずっと正座をしていた。正座自体は、慣れっこだったので苦ではない。しかし、顔見知りの伯母さんや、今まで会ったことのない男性陣など、多くの人に囲まれて、落ち着いてはいられなかった。

 その誰もが、憐れむような視線を寄越してくる。それが否応なしに私の緊張感を高めた。


 数日後、私は風邪で寝込んだ。確か、件の伯母の家に泊めてもらっていた時のことだと思う。学校はまだ夏休みが続いているし、叩き起こされる要因などなかったはずだ。

 しかし、それは私の思い込みだった。


「それはどういうことですか!!」


 私の目を覚まさせたのは、伯母の絶叫だった。そこには怒りが満ち満ちており、私は以前テレビで観た、ハワイの火山噴火の様子を思い出した。

 続いて、ダン、とテーブルを叩く音。衝撃で固定電話がひっくり返り、受話器からの音声が本体から駄々漏れする状態になった。


《い、いや、わたくし共も神山三佐に進言したのですが、三佐は一向にお聞きにならず……》

「構いません、すぐにでも日本に帰してください」

《しかしですね、そのためには三佐ご本人の要請が必要でして、三佐が帰国を望んでおられない以上、わたくし共ではなんとも……》

「あなたと話し合ってもどうにもなりませんわね。責任者を出しなさい。今すぐ!」

《それが、今はわたくし以上の者は誰もおりません。申し訳ありませんが、日を改めて――》


 ガシャン。

 唐突に響いた破砕音。伯母が、電話機をテーブルから払いのけ、床に叩き落としたのだ。

 それから、私にも聞こえる音量で、深いため息が家中を震わせた。


 私はゆっくりと、伯母のいるリビングへと歩を進めた。伯父が伯母を宥めるように声をかけていたが、やがて伯母のため息は嗚咽へと変わり、ヒステリーを起こすのではないかとこちらが心配させられそうになった。


 廊下との境に立って、私はリビングを見渡した。


「ああ、沙羅ちゃん。すまないね、起こしてしまったかい?」


 気遣わし気な伯父の言葉に、しかし私は無反応を貫いた。意地を張っていたわけではなく、どんな挙動を取ればいいのか、さっぱり見当がつかなかったからだ。

 

「ほら、今コーヒーを淹れるから、お前も落ち着きなさい」


 柔らかくも芯の通った声音で、伯父が伯母に囁く。


「沙羅ちゃんもおいで。ジュースがあるよ」


 伯父に誘われ、私は律儀にも『失礼します』と言ってリビングに足を踏み入れた。

 十畳ほどの、広いリビング。食器棚や固定電話(大きなヒビが入っている)を乗せる小さなデスクが隅に置かれており、中央には楕円形の洒落たテーブルが置かれている。


 しかし、今やリビングは、そんな品のよい空間ではなかった。

一つには、伯母が泣き崩れている、ということもある。だがそれよりも、『明確な事実』が私の胸中に叩き込まれたという衝撃の方が大きい。


「悟志さんは仕事の方が大事なのよ! 地球のどこにいるか知らないけど、今じゃ一週間もあれば戻って来られるでしょう? それなのに、沙羅ちゃん一人を残して、任務任務って、あんまりじゃない!」

「おい、沙羅ちゃんがいるんだぞ!」

「佳子も佳子よ! どうしてあんな男に嫁いだの? こんな薄情な、酷い男のところに!」


 佳子、という母の名前を出されて、私は何も言えなくなってしまった。

 そうか。父にとって、私はその程度の価値しかなかったのか。母も里奈も、任務とやらの前ではどうでもいい存在だったのか。


 その衝撃は、思いの外易々と私の頭にインプットされた。いや、衝撃自体が大きすぎて、『これが当然』という気になってしまった。


 結局、私は母方の祖父母の元で落ち着いた。転校するほど距離が離れていなかったのは幸いだった。お陰で仲良し四人組は離れ離れにならずに済んだのだから。

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