惨劇

惨劇①

三十秒、一分、待てど暮らせど返事はない。


もう一度、インターホーンを鳴らす。


やはり清水は出てこなかった。


やはり寝たのか?


もしかして出掛けたのか?


俺はそんな事を考えながら、なにげなくドアノブを回し、引っ張った。


するとドアは簡単に開いた。


清水は鍵を掛け忘れたようだ。


「…清水?…清水!?」


黙って入るのは礼儀に反する。


主の名前を呼びながら部屋へと足を踏み入れた。


結構な大声で呼び掛けてはいるものの、未だ清水の返事はない。


出掛けている可能性が高そうだ。


廊下を渡り終え、俺は先程飲んでいた部屋へと入った。


やはり、机の上に、狸のキーホルダーに付けた俺のアパートの鍵があった。


ほっとした俺の口から、溜息が漏れる。


キーホルダーを取ると俺は、部屋を出ようとした。


しかし、今さらながら、主人の居ない家に黙って入り込んだ事に気が引けてきた俺は、もう一度、清水の名前を呼んだ。


「清水!居ないのか!?」


しかし案の定、清水からの返事は無い。


諦めて帰ろうとしたが、この家には高そうな置物や、絵画等が、わんさかある事を思い出した。


このまま誰も居ない部屋から、鍵も掛けずに出ていいのだろうか?


何か盗まれでもしたら大変だと、帰る事を躊躇してしまった。


しかし帰って寛ぎたい自分もいる。


ただ酔い潰れて寝ているだけかも知れない。


そんな考えが頭を過ぎり、俺は清水を探す事にした。


寝室を探しながら、部屋のドアを開けていく。


風呂場、便所。


幾つかのドアを開けたが、全部不正解。


清水が便所で寝る習性があるのならば、それは寝室と呼んでも過言ではないだろうが、そんな奴ではないだろう。


酒を飲んでいたリビングに、もう一つドアがあった。


俺はそのドアを開けながら清水の名を呼んだ。


しかし返事はない。


真っ暗な部屋に、リビングからの光りが射し込む。


ベッドの陰影がうっすらと見えた。


ドアの近くの壁をまさぐると、電気のスイッチらしきものに触れた。


俺はスイッチを入れる。


その瞬間、訳が分からなくなった。


床や壁が真っ赤な液で染まっている。


そして人間らしき物体が、床に転がっているのだ。


しかし、その物体には首がない。


「…清水?」


俺は悲鳴を上げたいのを堪え、崩れるようにして、その場に座り込んだ。


俺は固まったように動けずに、首のない死体を、唇を噛み締め、見続けた。


数分間の後、ようやく動けるようになった俺は、立ち上がると、死体へと近付いた。


首の部分からはまだ、チロチロと僅かだが、血が流れている。


死体の服装を見ると、先程清水が着ていた物と全く一緒だ。


「…清水!?」


俺はようやく大声で叫んだ。


急いで部屋を出ると、携帯電話で警察に電話を掛けた。


「あ、あの清水が死んでます!」


「落ち着いて下さい。住所はどこですか?」


警察のオペレーターの声を聞き、冷静さを失っていた俺は、徐々にではあるが、気を落ち着けていった。


しかし初めて来た清水の住所など、分かる訳が無い。


俺は最寄りの駅からの道順を説明し、部屋番号を伝えるしか無かった。


「分かりました。部屋の中を荒らさないで、鍵を掛けて、じっとしていて下さい。すぐにパトカーを向かわせます。この電話は切らないでください」


俺は携帯電話を耳に当てたまま、リビングから廊下へと出ると、急いで玄関まで行き、鍵を閉めた。


「今、何処に居ますか?」


オペレーターの問い掛けに、俺は直ぐさま答える。


「玄関です!」


「家の中に、他に誰か居ますか?」


「分かりません…多分いないと思いますが」


こいつは何が言いたいんだ?


まるで犯人か誰かが、家の中に居るみたいな言い方だな。


ん?


犯人が…


そう思った瞬間、俺は玄関のドアを背に、しゃがみ込んだ。


体が勝手に震えてくる。


携帯電話を耳に押し当てたまま膝を抱えると、勝手に涙が出てきた。


「誰かが、家の中に居る可能性があります。玄関から動かずに、人影を見たら、急いでその家から出てください」


人の気も知らないで、こいつは俺の不安だけを扇ぎやがる。


俺は涙を流しながら、ピタッと玄関のドアに背中を押し当て、辺りを警戒した。


張り詰めた緊張感の隙間を縫うように、ふと先程まで笑っていた清水の顔が浮かんできた。


しかしそれは直ぐに首の無い死体へと切り替わる。


俺はガタガタと震える体を押さえ付けた。


しかし震えは止まらない。


「間もなく警官が到着しま」


そこでオペレーターの声が、突然途切れた。


人の声を聞くだけで、僅かだが冷静さを取り戻していた俺は、慌てて携帯電話の画面を見た。


しかしそこには、真っ黒な画面が存在するだけで、彩りを加える、光がない。


電源ボタンを何度も押すが、一向に反応しない携帯電話を握り締め、天井を仰いだ。


俺が天井を仰いだのは、冷静さを取り戻す為だ。


警察が来るまでの間、俺は一人きり。


取り乱す事は出来ないのだ。


警察に電話してから何時間経ったんだろう?


携帯電話で時刻を確認しようとしたが、充電が切れた事を忘れていた。


恐らくまだ、一時間は経ってはいないのだろう。


人は恐怖する環境下に置かれると、数分間が何時間にも感じるという。


それをどこかで見聞きしていた俺は、その事を思い出した。


そんな事を思い出せるのなら、俺は案外取り乱してはいないのだろう。


数時間にも感じる間、俺は色々なことを考えた。


もし本当にまだ、犯人がこの家に隠れていたらと、恐ろしいことを想像した。


犯人が隠れているのならば、この家から今すぐ出て行くのが、得策ではないか?


俺は震える体を立たせると、廊下に背を向け、玄関のドアのノブを握り締めた。


しかし次の瞬間、脳裏にこんな事が過ぎった。


玄関の前に、犯人が居るのではないか?


俺はノブから手を離すと、再びドアに背中を付け、寄り掛かった。


そして鍵に手を置き、廊下を注意深く見詰める。


これで犯人が、家のどこからか飛び出してきても、鍵を開け、玄関から飛び出せる。


早く来てくれ…

早く来てくれ…


俺はそれだけを考え、警察の到着を待った。


犯人が居るかもしれない、玄関の外にも感覚を研ぎ澄ませていたつもりだったが、不意に玄関のドアを叩かれた。


ドアを隔てて、誰かが居る。


犯人だったら…


俺は鍵の掛かったドアのノブを、必死に握り締めた。


「警察の者ですが」


警察…


ほっとして、全身の力が抜けるような感覚に包まれた。


しかし鍵を開けようとした時、ある予感が頭の中を走った。


犯人が警察になりすましていたら…


ドアチェーンを掛け、恐る恐る玄関を開けた。


「…警察の方ですか?」


「警察です。開けて下さい」


ドアの隙間から、黒光りする手帳を見せてきた。


警察だ…


俺は安堵の溜息を付くと、震える手でチェーンを外した。


「死体はどこにありますか?」


スーツを着た警察官が、冷静な表情で問い掛けてきた。


「…寝室に」


俺は、開けっぱなしのリビングのドアの向こうを指差した。


「あちらですか?…分かりました…ここを動かないでくださいね」


警察官はそう言うと、俺を残して寝室の方へ向かった。


一人残され不安がっていると、後ろに気配を感じた。


「…大丈夫ですか?」


声を掛けられた方を振り向くと、スーツを着た男が立っている。


「…ひぃ」


俺は、短い悲鳴をあげた。


「警察です。まだ犯人が隠れているかもしれないので、私の後ろへ」


男はそう言うと、胸元から拳銃を取り出し、構えた。


俺が、初めて間近で見る拳銃にびくついていると、玄関から新たに、スーツを着た男が二人入ってきた。


「御苦労様です…被害者は?」


警察手帳を見せながら入ってきた、顎に髭を生やした男が、何故か小声で尋ねた。


「寝室です」


俺が答えるよりも早く、拳銃を構えている警察官が答えた。


「…では、あなたはこちらに来てください」


あごヒゲと一緒に入ってきた、耳が餃子のように潰れた男が、俺に向かって手を伸ばした。


俺はあごヒゲと耳餃子に挟まれるようにして、清水の部屋から出された。


そしてエレベーターに乗り、マンションの外に出ると、目の前に止まっているパトカーの前まで連れて行かれた。


あごヒゲが後部座席のドアを開け、中へと入っていく。


「乗ってください」


耳餃子が後ろから急かすように、俺の背中を押した。


言われるままに、あごヒゲに続き、後部座席に乗り込むと、続けて耳餃子が乗ってきた。


車内は、俺以外は警察官だけ。


もう犯人に怯える必要はない。


そこでようやく俺は安堵した。


緊張感から少しずつ解放されていく中、後部座席に大の大人が三人乗るむさ苦しさに、嫌悪感を感じ始めた。


そんな中、洋服越しではあるが、体をべったりと俺に付けながら真横に座るあごヒゲが、唐突に質問してきた。


「あなたのお名前は?」


「日向響です」


「被害者の名前、分かりますか?」


「…清水忍です」


その質問に、変わり果てた清水の姿を思い出し、俺は恐怖心がぶり返した。


「あなたが第一発見者ですね?」


あごヒゲは睨むような視線を向けている。


「…警察に電話したのは俺ですが」


睨まれているならば、普段なら睨み返しているところだが、恐怖心に包まれている俺は、あごヒゲの視線から目を外し答えた。


「…詳しくは、署に着いてから聞きましょうか」


耳餃子はそう言うと、運転席に座っている男に合図を出した。


サイレンを鳴らし、パトカーが動き出す。


その中に俺は居る。


あごヒゲは、俺から視線を外す事はなかった。


目を合わさなくとも、見られているかは感じ取れるものだ。


俺は俯き、頭の中を整理した。


清水が殺された…


首がなかったから、自殺は考えられない。


殺されたんだ…


そう思うと、勝手に体が震えてくる。


誰がやったんだ?


清水の悲しすぎる死に姿が、頭にこびり付いて離れない。


誰がやった…


パトカーが停まる頃には、恐怖心よりも、犯人に対しての憎悪とも思える感情の方が強くなっていた。


ここが何という警察署なのかは知らないが、四階建ての少し古そうな建物に着くと、こざっぱりとした部屋へと連れて行かれた。


ドラマなんかで見た事がある、部屋と作りが似ている。


恐らく、取調室と呼ばれるものだろう。


「あなたのお名前は?」


いかにもといった、テーブルの前の椅子に座らされ、対面に座ったあごヒゲが、そう言って俺をじろりと睨んだ。


なんでこいつは俺を睨むんだ?


犯人に対しての憎悪が渦巻く中、あごヒゲのそれは、俺の怒りのボルテージをさらに上昇させていく。


「…さっき名乗ったでしょう?日向響です」


怒りを抑えつけながら、俺は嫌味を込めた言い方で、改めて名乗った。


「どちらにお住まいですか?」


この男には嫌味など通じないようだ。


あごヒゲは尚も睨み付ける眼差しで、俺の目を見据える。


俺はさらに沸き上がる怒りを抑えながらも、自分の住所を答えた。


「あなたは何故、清水さんの家に行ったのですか?」


「清水の家に忘れ物をしたから、行きました」


「何故、忘れ物をしたのですか?」


は?


俺はただ一言、そう思った。


忘れたからに決まってるだろう。


そう言いたいところだが、俺は喧嘩をしに来た訳ではない。


ムカつく奴だが、ここは小学生にでも分かるように、丁寧に説明してやろう。


「今日、街で偶然、二十年ぶりぐらいに清水に会ったんです。そこで飲む事になって、清水の行き付けの飯屋で食った後、清水の家で飲む事になったんです。それで一、二時間飲んだ後、帰ったのですが、電車を降りた後、自宅の鍵が無い事に気付き、清水の家に忘れたと思い、戻ったんです」


「なるほど、二十年ぶりに会って、飲む事になって、飯屋に行って食べたのですね?」


あごヒゲは何か回りくどい言い方をした。


「はぁ、そうですが」


俺はあごヒゲの言い回しが、癇に障った。


「ほぉー、あなたは飲む事になったら、飯屋に行って、何かを食べるのですか?」


「はぁ?…いや、だいたい分かるでしょう?その後、飲む事になったから、言い間違えたんですけど」


「本当に言い間違いですか?本当は違うんじゃないですか?」


なんだ、こいつは?


短気な俺は、テーブルの下で握り締めた拳をぷるぷると震わせた。


その姿を、さっきから部屋を歩き回る、耳餃子にちらりと見られたが、怒り心頭中の俺は、そんな事は気にしない。


しかし、別な事が気になり始めた。


なんでこいつは、さっきから部屋をうろつき回ってるんだ?


今気付いたが、こいつは歩き回りながら、俺を見ている。


いや、見ているというよりも、睨み付けるような目を、俺から逸らしていない。


「どうなんですか?言い間違えた訳ではないんでしょ?」


耳餃子に気を取られていると、あごヒゲが先程と同じ事を言い出した。


確かに俺はその質問には答えていない。


それを黙っている事が答えだと言わんばかりに、あごヒゲは、意気揚々と捲し立てている。


こいつは、根っから、神経を逆なでするタイプの人間なのだろう。


罵声を浴びせたいところをぐっと堪えて、俺は大きく息を吐き出すと、答えた。


「言い間違えただけです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶のパズル 村上未来 @ogigagamen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ