第五話.ロボ殺し シーン2
待ち合わせは、近場のターミナル駅の改札内だった。日曜の朝なので構内はそこそこに混み合っていて、待ち合わせ相手を見つけるのに少し時間を食った。
彼女が、いつもと違う装いをしていたからということもある。
全体的に淡い色合いのコーディネートで、ワンピースの上にボレロのような物を着込んでいる。テレビや雑誌のグラビアで見るようなトレンドとは違うかもしれないけど、ふんわりと落ち着いた雰囲気でよく似合っていた。
見慣れた制服姿よりいくらか柔らかいシルエットになった
人の波に
思わず駆け足になりそうになって、思い直して立ち止まり、改めて身繕いする。家にあった中で一番垢抜けた服を選んできたつもりだが、元々の中身が垢抜けないせいかどうにも落ち着かない。
髪に手櫛まで入れ、改めて足を速めて近付くと、帆影もこちらに気付いたようだった。髪留めの位置を据え直す手を止めて、一歩だけ踏み出してくる。
「ごめん……待った?」
なんだこいつ、まるでベタな漫画で見るデートのようなセリフを言っていやがるぞ、と自分自身が冷や汗の温度のツッコミを入れてくる。
「いえ」
対して帆影は、普段通りの淡白な答えだ。この素っ気なさに安心するようになってしまっているのは良いことなのか悪いことなのか。
「約束の時間まで三〇分あります」
言われて反射的にスマホを確認すると、確かに三〇分ほど早く着いてしまっていた。遅延やなんやに備えて早めに来たのだが、帆影はいつから来ていたのだろうか……?
帆影も時間を見ていた。それを目で追って、彼女が腕時計をしているのに気付く。男物に比べると半分くらいの太さしかない革ベルトが付いた、オモチャみたいに小さな時計だ。
――女の子の時計だ……と、ただそれだけの感慨に呼吸が止まった。普段の帆影は時計をしていないから、実用品でなくアクセサリに見えたせいかもしれない。
小さく首を傾げながら、くたりと曲げた左手首を見下ろす帆影の姿は、よそ行きの服装とあいまって僕の頬から力を抜かせる。
休みの日に、いっしょに出かけたから見られる仕草。その事実がじわじわと胸をくすぐってくる。
あんまりまじまじと見ていたせいか、帆影はつと顔を上げてまばたきした。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……良い時計だなと」
「……はい。
帆影のお祖母さん、僕のこと知ってるのか……具体的にどう聞いてるのだろうか。想像すると照れくさいような怖いような……
それはともかく、帆影は時計を褒められて少し顔をほころばせたようだった。心なし満足そうに、ほぅと息を抜いている。
ロボの件でちょっと溝ができたかと心配していたので、不機嫌でないと知れて胸を撫で下ろした。あの時計、自分でもお気に入りだったのかもしれない。
ちなみに
「三〇分て……いくらなんでも、ちょっと早く来すぎじゃないですか?
その時計を持たない妹が、僕のスマホを引っ張ってのぞき込みながら暴言を吐いた。
気を悪くしていないかと帆影を見ると、彼女は平気な顔をして、ただほけっとして映を見ている。「重い」の意味がよく伝わっていない気もする。
僕は緩んでいた顔を固めて、妹の手からスマホを取り返した。
「お前は来なくてもよかったんだぞ?」
――妹同伴であることからも解る通り、今日は帆影とのデート……というわけではない。先日、巨大ロボットについての話で、帆影はその存在を全否定した。僕としてはその考えに異を唱えたくて、ちょうどよく誘われていたイベントへ帆影にも付いてきてもらうことにしたのだ。
動きやすさ優先の、いつも休日にショッピングへ行く時の格好をした映は、頭痛かなにかをこらえるような顔をして答えてくる。
「だって……果穂がいるんでしょ? 兄と先輩二人だけで行かせるわけにはいかないし」
たしかに、今日のイベントに呼んでくれたのは果穂ちゃんだ。この間の夜のメールで案内をくれた。でも、
「なんで僕らが二人で行っちゃいけないんだよ?」
「……果穂はわたしの友達なんだから、わたしも行くべきでしょ」
そう言われるとそれまでかもしれないが、微妙に目をそらしているのが気になる。言いたいことはなんでもずけずけと口にする妹にしては歯切れが悪い。
しかし、こんなところで問い詰めても始まらない。それに、三人で立ち止まっていたら通行の邪魔になりそうだ。
「……それじゃ、ちょっと早いけど、行こう」
「はい」
帆影がこくりとうなずくのを見てから、乗り換え先のホームへと歩き出す。せっかちな映はすでに先行していた。
帆影はちょっとうつむいて、それからまた髪留めに手をやってから、僕の後を付いて来た。
土日のダイアに気を付けながら電車を乗り継ぎ、海岸付近の駅に着いたのは一〇時過ぎのことだった。
線路沿いに数分歩けば、ショッピングプラザとオフィスビルが一体になった複合施設が建っている。そこが今日の目的地だ。
天気は快晴。並木道の木々は初夏の日差しに熱せられて緑の匂いを振りまいている。僕は日向の側に回って帆影と並び、
頭上の枝葉を塗って差し込む光に細められていた彼女の目が、不意に見開かれた。
「……あれですか?」
まだ数十メートルほども離れているけれど、それの姿がはっきり見える。僕も実物は初めて見る、今日のイベントの目玉だった。
「ああ。あれが『
――『幻獣駆除会社Li・ot』は、アニメ版の放送を間近に控えたライトノベル作品だ。
人口の密集した都市部に巨大モンスターが現れるようになった地球を舞台に、そのモンスターを市街地で迎撃するために作られた
脂の乗ったベテラン作家が満を持して放った、
ライトノベルはあまり読まない僕も、これだけは必ず発売日に買ってその夜の内に読んでしまう。それくらい好きな作品だ。
そのことを知っていた
そして今日は、
「――ほら見ろ」
全高一五メートルを超える立像は、アニメ化のプロモーションとこの施設のランドマークを兼ねて建造されたオブジェで、大人でも
オブジェの足下を囲む進入禁止の柵に張り付いて、
僕らのすぐ目の前には親子連れの姿もあって、小さな子供をお父さんが抱き上げて巨大ロボの勇姿を見せてやっていた。
鉄骨の内部フレームが完成して以来、つい今朝までは幕で覆われていて誰も全貌を見ることができなかった。今日が公開初日ということもあって人出の多さにつながっているんだろう。
けれど、そんなことを知らずに通りがかった人たちまで立像に目と足とを止めている。
なんだかんだ、そこに巨大ロボットがあれば人はパシャパシャやってしまうものなのだ。
「やっぱり大人気じゃないか。みんなロボットに釘付けだよ」
「そんなの物珍しいだけでしょ。今時の大衆はSNSでイイネもらうことしか考えてないから」
立像の設置された広場の群衆にまぎれながら、やれやれと冷めた目をして言い捨てる映。しかし、
「いや、お前もパシャパシャやってるだろ……」
そう、僕らは兄妹並んで、
――蒼天に突き立つ白い巨体。それに装甲の隙間からのぞくフレーム部分の金属色が相まって、五感にのしかかる圧倒的
人の形をして遥かに巨大。二足で直立する重力への
中身は色気もなにもない鉄骨だと頭では解っていても、それは胸を熱くする偉容なのだ。美術館で塑像を見る時に、石膏の塊だと知りつつダイナミックな存在感を感じるのと同じことだろう。
創作の世界から顕現した巨体をたっぷりと「浴びている」僕をかたわらに見て、ただぼーっとたたずんでいた帆影が、ふと合点が行ったように手を打った。
「これが、伊井坂さんがイベント会場に出没すると言っていたローアングラーですか」
「違う……いや、物理的な意味は合ってるけど。まぁ違う」
僕は広場中で撮影に興じる人々の名誉のために訂正を入れ、シャッターを切る手を止める。すぐ隣で僕を見上げていた帆影と目が合った。
帆影は「そうなんですか」と少し僕の方を見ていたが、ややあって自分もスマホを出してカメラを起動したようだった。
しかしアングルが決まらなかったのか迷っている内に、例の親子連れがカメラの前を横切って、それを機にか、帆影はそのままだらりと手を下げた。
……ロボの実物(?)を見てもまだ、ピンときていないようだ。
「ちなみにあれは、主人公しか使いこなせない設定の専用機なんだ」
「専用ですか」
「うん。いいよな、専用」
「はぁ……しかし、道具なら誰でも等しく使いこなせる方が理想なのではないかと」
「それはそうだけど……」
さり気なく(?)設定を語ってみても帆影の琴線に触れる様子はなく、会話が途切れた。話せば話すほどドツボにはまる気がする。
それでも僕に諦めるつもりはなかった。今日は、少しでも帆影とロボについて通じ合うために来たのだから。
巨大ロボを実際に見てもらおうと今日のイベントに誘った時、帆影はただ、
『わたしも行っていいんですか?』
と首を傾げただけだった。特に嫌なようでもなかったので、是非にと頼み込んだ。趣味を押し付けるつもりはなかったけど、僕が「いい」と感じているものを少しでも伝える努力をしたかった。
僕には帆影のような知識はないし舌っ足らずだけど、彼女と同じように臆さず自分を表現したいと思っている。帆影に出会えたからこそ、そう思う。
……もちろん、単純にカノジョと休日に出かけてみたいという欲もあった。とはいえ、あの状況からデートというのも無理があったから伊井坂も誘ってみたのだが、別の用事があるとかで今日は来ていない。
結果、
そんなことを考えながら、なかば無意識に写真を撮りまくっていたが、いつまでも撮影タイムというわけにもいかないだろう。映も飽きる頃だ。
早く着いたせいもあってサイン会まで時間があるけど、とにかく動こう――と、不意に気付く。
「帆影っ……大丈夫か?」
人波に揉まれながらもすぐ隣にいた帆影が、うつむいてぐったりしているように見えた。ハッとして肩に触れると、ふらりと見上げてくる顔が蒼い。
「すみません、人込みに慣れないもので……でも、平気です」
請け負う声からして頼りない。額に汗をかいて、とろんとした目をしている。混雑だけでなく、暑さにもやられているのかもしれなかった。
僕は、うろたえた。
「平気じゃないだろ。休めるところを探そう」
会話の聞こえていた映――さすがに心配そうに帆影を見ていた――を目で促しつつ、僕は半ば強引に帆影の腕を取って歩き出した。
複合施設の下層はショッピングセンターになっていて、若者向けのショップやレストランが入居している。休日とあってどこも混み合ってはいたが、まだ昼時には早いせいもあって全国チェーンの喫茶店に席を取れた。全国チェーンの、比較的安価で手堅い店だ。
店内に行き渡る冷房が、焦りきっていた頭をほどよく冷やしてくれた。
「ごめん……帆影」
テーブル越しに彼女と向かい合い、僕はすっかり恐縮していた。ロボに浮かれ上がっていた心もしなびて枯れている。帆影が具合を悪くしているのにも気付かず、呑気に写真を撮っていた自分の間抜けぶりには呆れ果てるほかない。
映は果穂ちゃんと連絡が付いて、先に会いに行っていた。だから、今は二人席に帆影と差し向かいだ。
「なんで謝るんですか?」
帆影は本当に不思議そうにしている。人込みから離れたせいか顔色も良くなり、今はカフェラテのカップをちびちびと口に運んでいた――学校の近くの喫茶「るそう園」では「カフェ・ラッテ」表記だったが、この店では「カフェラテ」だった――
……帆影と二人で喫茶店に来るのは夢だったはずなのに、今は自分の情けなさが先に立って楽しめない。
「いや……一応は彼氏なのに、実物大ロボに溺れて帆影が気分を悪くしてるのに気付かなかったし。ダメだな、ホント……」
なんとなく上目遣いに見ながら言うと、帆影はちょっと長めにカップへ唇を付けて、それからカップの中身へ視線を落として、それからゆっくりとカップを置いた。
二人の間に次の言葉が出てくるのに、少し間があって、
「新巻くんは、どうして大きなロボットが好きなんですか?」
帆影が口にしたのは、状況から少しばかりジャンプした質問だった。
場違いというわけでもない。この喫茶店の窓からも、例の立像の一部が見えていた。
しかし改めて
「なんでって……小さな頃からのヒーロー像だから、かな? いや、自分でも子供っぽい趣味だとは思うけど」
ぽつりぽつりと答えていく内に気恥ずかしくなって、帆影から目をそらしてしまう。
「……ああ、でも、それだけじゃなくて――」
言葉を切ったのは、新しい客が僕の背後の席に案内されてきたからだった。すぐ横を通られて、反射的に声を落としてしまう。
新来の客は僕らより少し下くらいの男子の二人連れで、なにやら盛り上がっているのか大声で話しながら席に着いた。
「いやー、どうだったよ? 外のやつ」
中肉中背で眼鏡をかけた方が、やや太めの相方に問いかける。
「あのリムド? 全然ダメ」
リムド、というのは、外の立像の原作である『幻獣駆除会社Li・ot』に登場するロボットのカテゴリ「リムド・チャリオット」の俗称だ。
な……なんだこいつ、あのありがたい神像のどこに文句があるって言うんだ?
僕はずぞぞ……と音を立ててコーヒーをすすりながら、思わず聞き耳を立ててしまっていた。まさに聞き捨てならない発言である。
僕がカップの中のコーヒーに修羅の瞳を映しているとも知らず、背後のお調子者たちは声を弾ませる――
「やっぱさぁ、あれじゃマシンって言うより建造物なんだよね。デカすぎ」
「だよねー。て言うか、人型兵器とかありえないでしょ。あんなの関節が
…………その時の僕の心境を端的に言うなら「やろう、ぶっころしてやる。」だったが。
一六年以上も生きてロボ好きをしていれば、この程度の批判は当たり前に見聞きする。ソーサーに載せたカップをカタカタと震わせながらも、僕はあくまで平静を保った。向かいの席の帆影が心なし気遣わしげな顔をしていたが、自分では平静なつもりだった。
ふっ……大人になれ新巻
だが、ありもしない大人の余裕にすがり付こうとする僕とは別に、彼らのかたわらに立つ者があった。
「やぁ。外の機体、君たちはお気に召さなかったようだね」
まるで知り合いに対するようにフランクなアプローチだったが、話しかけられた二人がぎょっとして固まっているところを見るに、おそらくは初対面なのだろう。
いや、初対面でなかったとしても、あんな男に突然話しかけられれば驚きもするか。年の頃は四○前後だろうか、現役プロレスラーだと言われても信じてしまいそうながっしりした体格、
まったく似てないのになんとなく思い出されるのは、帆影と行った「るそう園」で行き合わせた奇矯な兄妹の顔だった。
…………なんで僕らは、喫茶店に入るたびに変な人に遭遇するのだろう。
露骨に警戒する二人を見下ろし、がたいの良い男はふと気付いたように後頭部へ手を当てた。
「ああ、いきなりですまなかったね。実はわたしは、あれの関係者でね。ちょっとしたマーケティングとして、意見を聞かせてもらいたいと思ったんだ」
関係者というと、あのロボの展示を企画した業者の人とかだろうか。なるほど、それなら、通りすがりに声が聞こえて急に話しかけるということも……まぁ、因果関係としては解らなくもない。
ロボアンチの二人もそれで安心したのか、いくらか態度を
「気に入らなかったって言うか……今時ロボって……なぁ?」
「そうそう。ぶっちゃけ時代遅れって言うか……子供にも売れてないんでしょ? これからヒットを狙うのは難しいんじゃないかなぁ」
「ははははは、そうかそうか。ロボは解らんか――」
関係者を前に失礼な発言を受けても、大柄な男はあくまで
そして朗らかに笑ったまま、雷雲のようにごろつく声で宣告したのだ。
「――それはお前が小さいからだ」
「…………え?」
「それはお前がフニャフニャだからだ」
「なっ……なにを……?」
言われた方は目を点にして、恐らくは自覚なく仰け反っていた。「関係者」の傲然たる
「――人間には共感能力がある。他者に自分との類似点を認め、それを魅力的に思い信愛するのだ。しかるにお前たちは、大にして強固なる
その意味するところは、だ」
憐れなまでに萎縮した二人の少年に、怪人物は
「鋼の巨人に己を
「「えっ、ぇえぇぇぇぇぇぇ……!?」」
大音声の一喝と、その理不尽さへの二人組の悲鳴が喫茶店に響き渡る。
喧噪に満ちていた店内がしん…………と静まりかえり、店中の視線がおずおずと、しかしはっきりと彼らに集まる。
僕はと言えば、突然の大声に驚いてカップを倒しかけた帆影の手を押さえていた。
その姿勢のまま様子を見る僕の耳に、他の客たちのささやき声が聞こえてくる――
「ぇ、なにあの人たち……?」「小さいんだ……」「ロボがどうとか……」「外のあれ?」「あの子たち、フニャフニャって……」「かわいそうに……」「硬くならないの……?」「かわいそう……」「おかーさん、あのおにいさんたち、ちいさいの?」「しッ!」
……非常にいたたまれないささめき声と、二人組に対する同情の視線が喫茶店の一角に
無論、当の二人組は第三者の僕らよりもいたたまれなかったのだろう。
まだ注文していなかったのをいいことに席を立ち、「なんかやべーオッサンにカラまれた……」「フニャじゃねぇし……」などとぶつぶつ言い合いながら店を後にする。
…………ついさっきまで彼らへの怒りに燃えていた僕をして、気の毒としか言い様のない光景だった。これはまさにオーバーキルだ。
「あの……新巻くん……」
戦慄に固まっているところに声をかけられて、帆影を見る。彼女の視線は手元のカップを向いていた。こぼしかけた帆影の手を押さえるため、包み込むように僕の手が添えられている。
――意識した途端に帆影の細い指の柔らかさと暖かさが手の内に広がってきて、僕はあわてて手を引いた。
「ぅぁっ、ごめん……」
「いえ……ありがとうございます」
帆影は目を落としたまま、解放されたカップに手をやろうとして、こぼれたカフェラテが指にかかっていることに気付いたみたいだった。
拭き取るか迷ったような間があって、それから帆影は自分の指先に口付けするように液体を
僕は自分の掌を見て、手汗をかいてなかったかと今さらになって気になりだした。帆影の手を握るのは二度目だったけど、やっぱり緊張する。あんなに繊細なものを握っていいのかという罪悪感。それでいて、もっと触れ合いたいという欲も強くなっていく。
特に汗ばんでいなかったことを確認して顔を上げると、例の大男はまだそばにいた。また人の良さそうな物腰に戻って「いや、お騒がせしました」などと周りへ愛想を振りまいている。
……ホント、なんなんだあの人は……?
不審人物の動向を目の端でうかがう僕だったが、知った顔が店に入ってくるのに気付いて注意を奪われた。向こうはきょろきょろと店内を見回しているが、僕らには気付いていないようだ。
もしかして、映から聞いて僕らを探しているのかもしれない。こちらから声をかけようと腰を浮かせ――と、その女の子が声を上げた。
「――あ、先生。こんなところに!」
きちっと整えられたショートカットに利発そうな目鼻立ち。今日はコンタクトレンズなのか眼鏡はかけておらず、スーツ姿――お母さんから借りたらしい――のせいもあって大人びて見える。
彼女――映の親友・
「おお、
先生と呼ばれた大男の方も果穂ちゃんのことを知っているらしい。「新瀬
果穂ちゃんはずいぶんあわてているようで、コンパスの小さい脚をせわしなく動かして大男の前に立ち、切実な目で見上げた。
「もう打ち合わせが……編集さん、また胃薬飲んで。それは、反応を見て回りたい気持ちも解りますけど……」
なにか必死に訴えているが、よほど焦っているのか言葉がまとまらず、急かされている
よく知っている子がわたわたしているのを
「果穂ちゃん。だいじょうぶ?」
「ぇ? あ……天太さん?」
さらに目を白黒させてしまったが、声をかけてきた相手が僕だと気付くと、果穂ちゃんは一転して安堵の息を吐いたようだった。
「そういえば喫茶店で休憩してるって映が……ここだったんですね」
「ああ。映が会いに行ったと思うんだけど」
「すみません……ちょうどわたしがお
その「お遣い」というのが、この大男氏を探すことなのか。果穂ちゃんは出版社のサイン会の見学と手伝いに来ているはずだから、ということはこの人は……
僕が例の大男に目を向けたのに気付いて、そっちをほっぽっていたことを思い出したのだろう、果穂ちゃんは早口に紹介してくれた。
「あ、あの、紹介します。こちらは『Li・ot』原作の、ジョー
「えっ!?」
こ、この人が、そうなのか……
戦場の緊迫感を活写する熟達の筆致と精細なメカ描写で絶大な人気を誇り、ライトノベルばかりでなく一般文芸にも作品を供給する職人的作家ジョー鉄。作品には著者近影が載ってないから素顔は初めて見るけど、こんな……壮絶な人だったのか……「あとがき」の語り口は理知的かつ紳士的なのに。
愛読している本の作者を目の当たりにするのは生まれて初めてのことだ。棒立ちで硬直する僕に、果穂ちゃんが説明を続ける。
「鉄先生はわたしがコンクールを受賞した時の審査員のお一人で、その縁で今日も声をかけていただいたんです」
その辺のことは、この間のメールにも書いてあったから知っている。それで、もしかしたら引き合わせられるかもしれないと、今日のイベントに誘ってくれたのだ。
僕だって、ファンをしている作家先生には会ってみたかった。しかし実際に鉄先生に会ってみると、さっきの二人組への仕打ちを見ているせいもあってガチガチになってしまう。
元から対人関係に不器用な僕には、にわかに言葉も出てこなかった。
驚き、憧れ、混乱、困惑、放心…………
僕の惑乱を察したのだろう。果穂ちゃんがこちらへ手を向けて、先生へ紹介してくれる。
「それで、鉄先生。この人はわたしの……あの…………友人のお兄さんで、新巻天太さんです」
仕事でつながりのある人にプライベートの知り合いを紹介するのが
鉄先生は意味ありげに僕と果穂ちゃんを見比べ、顎に手を当ててうなずいた。
「ほぅ。君が新瀬先生の言っていた……」
それから、あくまで鷹揚に――しかし眼を底光りさせながら――問いかけてくる。
「君はロボが好きかね?」
「もちろん好きですよ! いいですよね、ロボ!!」
僕は即答した。
元よりウソではないけれど、ことさら食い付くような勢いになってしまったことは否めない。――ふッと脳裏に差したのは、あまりと言えばあまりの罵倒を喰らって退散した二人組の悲惨な背中だった。
「……? さっきは子供っぽい趣味だと思うと言っていたような……」
いつの間にかすぐ背後に来ていた帆影がぼそりと
帆影に反応したのは鉄先生の方だった。
「む? そこの彼女は君のお連れさんかな」
「あ、はい……」
「帆影です」
帆影は僕の横に並ぶと、ぺこりと行儀正しく鉄先生にお辞儀した。迫力満点のプロ作家を前にしてもいたって平然としているのが帆影らしい。
「二人で文芸部をしているんですよね?」
果穂ちゃんが補足してくれた。家出した時の件で、帆影には親しみを感じているようだ。その視線にはほんのりと尊敬の念が感じられる。
鉄先生が「ほお」とうなった。
「それは羨ましいな。カップルで部活か」
「っ……」
思わず息を呑んで、帆影を見る。一拍遅れて、帆影もやおらに僕を見た。
やっぱり淡々として、いまだに感情の読めない目だった。この目を見ると、いつだって自分に向き合うことになる。常勝無敗と言ってもいいくらいの消極思考、引っ込み思案、そんな僕の性格と。
帆影とは付き合い始めて二ヶ月ほどになるけど、世間の高校生が体験しているであろう「恋人らしいこと」はほとんどしていない気がする。こんな状態で、初対面の人に胸を張って交際宣言などしていいのだろうか?
僕らは、客観的に見て果たして恋人同士なのか。それすら定かでないのに。
帆影だって、いまだに
あいまいに済ませてしまった方が、帆影にも先生にも気を遣わせないでいいかもしれない。弱気や気恥ずかしさから来る言い訳は湯水のように湧いてくるのに、喉は渇いてしかたない……
「ぇ、え……と……そういうわけではなくて、二人はお友達――」
僕らが困惑しているように見えたのだろう。果穂ちゃんが助け船を出すように言葉を挟んでくれる。けれど。
喫茶店の窓からは、フィクションの世界から現れた巨大なロボが見えている。
鉄先生も言っていたではないか。人間には共感能力がある。大きな
「はっ――はい。ちょっと前から付き合ってます」
半歩踏み出しながら言ったので、帆影がどんな顔をしたのかは見えない。
鉄先生は微笑ましそうにうなずき、なぜだか口元を押さえた。
「お、おう……まぶしいな……そんな風に真っ赤になって恋を語る初々しさを忘れんでくれよ……っ」
……どうも、笑い出すのを我慢しているようだ。僕は今の言葉を、よほどテンパった顔で言ったらしい。ますます顔の赤くなるのが、これは自覚できた……
ふと気配を感じると、帆影が横に並んでいた。ただそれだけで、なにを言うでもないし僕と違って顔色にも変わりない。ちょっとうつむいていて、目も合わない。でも、なんだか胸が緩んだ。
余裕が戻って周りの様子が目に入るようになると――頬が引きつった。周囲の席の客たちがちらちらとこちらを見て、笑ったり冷めた目を向けてきたりしている。
しまった……なんにしても衆人環視の喫茶店でする話じゃなかった……!
自分のうかつさに絶望しつつも、にわかに冷静になった僕はこれまでの成り行きを思い出していた。果穂ちゃんは鉄先生を捜してここに来たのだ。
「そうだ果穂ちゃん、ずいぶん急いでたみたいだけど――」
「おお、そうだ新瀬先生。打ち合わせの時間だったか――」
と、鉄先生と二人ながら彼女へ目をやって、言葉が途切れた。
果穂ちゃんは、どこか遠くへ放心していた。
虚ろな目を誰もいない方向にピン留めして、
「か、果穂ちゃん……?」
「二人…………お、お付き合い、してたんです、か……?」
辛うじて出てきた言葉には、干からびたように力がない。
「う、うん……ああ、そういえば果穂ちゃんにはまだ言ってなかったっけ」
「そう、ですか……………………へえ、そうだったんですね…………映、あの子、なにも言わないから……」
最後の、映に対する言葉だけは微妙にドスが利いていた。
……しかし、映もだったけど、僕にカノジョが出来たことに驚きすぎじゃないか? 果穂ちゃんのことは「可愛くない妹と違って可愛い妹分」だと思っていただけに、そこまでモテないと認識されていたことがショックだ……いや、自分でも奇蹟のような状況だと思うけど。
その果穂ちゃんが、幽鬼のようにのっそりと首を巡らせ、鉄先生に目を移す。
「……行きましょう先生。もうスタッフルームに行かないと時間がありません。わたしも、友達とじっくり話し合う問題が出てきたので……」
その生気のない顔を向けられ、鉄先生は何事か察したようにたじろいだ。
「あ、ああ。……もしかして、余計なこと言っちゃった……?」
「いえ、いいんです……こっちのことですから…………はぁっ……」
溜息混じりの果穂ちゃんに先導されて、鉄先生は喫茶店の出入り口へ向かっていく。「ご、ごめんね!」と案外お茶目な感じで果穂ちゃんに謝りながら。
「……ホント、いいですから。ところで、なんで携帯がつながらないんですか?」
「締め切り前はわざと充電してないんだよ」
「締め切り前なんですか!?」
――そんな、
この喫茶店に嵐を巻き起こしたジョー鉄先生は、どうも元気のない果穂ちゃんとともに去って行った……
店内でずいぶんと目立ってしまったので、僕と帆影はいそいそと会計を済ませて外へ出た。屋内の冷房で冷めきった肌に日差しが心地いい。
広場の立像にはまだまだ人が群がってひたすらにパシャパシャ撮っている。大半がスマホだ。今時のモニュメントは鑑賞するものではなくシェアするものらしい。
ああやってみんなの撮っている巨大ロボの原作者と、ついさっき言葉を交わしたのか……
早くも現実感を失いつつあるが、あの強烈なインパクトが
……想像してたのとは全然違う方向に凄い人だった。数十年に渡って奇想珍談で食べているベテラン作家なんて、変人にしか成りえないということなのかもしれないけど。
「でもさすが、大物って感じではあったな……」
作品とロボに賭ける熱い魂を持った、マグマのような人だった。あそこまで
そんな想いに捕らわれつつ、遥か高みに在る立像の頭部を眺めながら歩いていると、ふと視線を感じた。隣を歩く帆影からだ。
「よく解らないのですが……」
僕のカノジョは、まったくもって純粋クリアな目をして、小さく首を傾げた。
「男の人には、大きくて硬いことがそんなに重要なんですか?」
げふっ、と咳き込みそうになった。思わずたたらを踏んで立ち止まる。
帆影も足を止めて、答えを求める目を僕へ向けてくる。喫茶店でジョー鉄先生に駆逐された二人組や僕が、なにをそんなに怯えていたのか、気になっていたのだろう。
たしかに、女子には解りにくい世界かもしれない。とはいえ。
「…………いや、まぁ、大は小を兼ねると言うか……自信の問題と言うか……」
僕の口からだって、しどろもどろな答えしか出てこない。そもそも、鉄先生の言っていた「大きい」とか「硬い」の意味もよく解らないんだから話しづらい。なんとなく、しかし強烈に否定されたくない気がするというだけだ。うん。やっぱり、ほら……
しかし、自分の口にした「自信」という単語に引っかかりを覚えた。そうして、ついさっき、帆影がこぼしそうになったカップを反射的に押さえた動きがどこからきたものか、思い出した。
――まだ僕も映も小さかった頃、落ち着きのない妹はよくコップを倒して牛乳やジュースをこぼしていた。だから僕はいつも映の手元に注意して、飲み物とか花瓶の水をこぼしそうになった時は、さっきみたいにその手を押さえるくせが付いた。
でも、いつも成功するわけじゃなくて、テーブルやカーペットを汚して両親の仕事を増やしてしまった覚えがある。
僕だってまだ小学校に上がる前後のことなんだから、上手くいかない時があるのは当たり前だったろう。でも、多忙な母さんから世話を頼まれた妹をフォローできないのは悔しかった。任されて、誇らしくて、だからそれをできない自分自身への失望でたまらなくなった。
ああ……――と、悟る。だから、僕は。
「……さっきの、喫茶店での話に戻るけど」
あまりに強烈な闖入者によって宙に浮いていた話題に、帆影はすぐ対応してくれた。
「なぜ大きなロボットが好きか、という話ですか?」
「うん、それ。なんか、急に思い当たったよ」
「はい」
「いや、大したことじゃないんだけど……
僕の小さな頃、
帆影はきょとんと目をしばたたかせた。
「だから……ですか?」
「ああ。たぶん、背伸びしたかったんだ。アニメの再放送なんかで見る、子供でも大きな敵に勝てるロボットに乗りたかった。そうしたら、いそがしくてあんまり構ってくれない親を助けられるし、映も不自由なく守れるだろ?
だから……つまり、自分と同じ
「だから、大きく硬くですか」
帆影は物分かり良くうなずいてくれた。……なんだかごまかしてしまったような気もするが、だましたつもりもない。
「それからは『
帆影は興味深そうに、おとがいへ指を添えた。
「なるほど……大きなロボットを使ったフィクションは、一種の類感呪術なのかもしれませんね」
「ルイカンジュジュツ?」
オウム返しに聞き返すと、帆影はざっとさわりを解説してくれた。
要は、類似した物はお互いに影響を及ぼすという考え方のことで、たとえば呪いの
とすると、自分を仮託した
「なんてこった……プラモは呪術だったのか……」
「どうでしょう……? でも、心理療法に箱庭セラピーというのもありますし、案外に実用的かもしれません」
大仏や巨大な人型ロボを見ることで、自分が大きくなったイメージ、巨視的な物の見方を感じ取る……あの立像も含めて、人型の巨体にはそんな
ともかく、僕の早く大きくなりたい、実力が欲しいという欲求が、巨大ロボへの憧憬につながったのだろう。今だって、そういう欲求は強いのかもしれない。
「……やっぱり大した理由じゃなかったかな。誰にでもありそうな成長への願望が、たまたまロボ好きって形で表れただけで」
それが、喫茶店から続く会話の結論だった。
そして、こんな所まで帆影を連れ出して、僕が帆影に伝えたかったことの答えでもあるのかもしれない。たったそれだけのことだ。
我ながら力弱く苦笑いする僕に、帆影はしばらくの間、ただ静かな視線を向けてきていた。それから自分の足下へ目を落として、また顔を上げて、広場を見回しながら言ってくる。
「ここは親子連れが多いですね」
「え? ……ああ、休日だし、遊ぶ場所も多いしな」
建物の上階にはボーリング場やスポーツアトラクション施設、ゲームセンターもあって、主な客層は若者だけど子供連れで遊びに来ている人も多いようだった。……ただロボを見てサインをもらいに来た僕のようなのは圧倒的にマイノリティだろう。
帆影は、すぐ近くで父親のカメラを自分にも使わせてほしいとねだっている小さな子に目を留めて、少しかすれたような声を出した。
「大きなロボットも、あの親子と同じなのかもしれません」
「? どういう意味だ?」
「小さな子供は、親やそれに準じる人のマネをして生活を覚えます。手足の使い方、歩き方、表情、言葉……自分と同じ形をして、自分より大きいものに
……なるほど。そう聞くと、子供が親のマネをすることと巨大ロボに憧れることは心象的には似ているのだろうと思える。
家に両親のいない時間の多かった僕は、だから人一倍に巨大ロボに憧れたのかもしれない。参考になる親の姿の代わりに、ロボを見ていた。
幼い頃への回顧にけぶる視界の中、帆影は親子連れから視線を
そうして彼女は、予想外の言葉を口にした。
「今日は、誘ってくれてありがとうござます」
「ぇ? いや、頼んだのは僕だし……そんな」
カノジョを子供じみたシュミに付き合わせてそんな風に感謝されると、逆に恐縮してしまう。
しかし、目を伏せたのは帆影の方だった。
「嫌われてしまったかと思っていたので、安心しました」
またも予想外のことを言ってくれる。開いた口が塞がらない、という感覚を味わったのは、映が小学生の時、文房具を買うためにもらった一〇〇〇円を「怪僧少女ラスプーちゃんコレクションカード」に全てつぎ込んでしまったのを聞いた時以来だった。
「きらわ……え? なんだ? なんで僕が帆影を嫌うんだ?」
「わたしは、新巻くんが好きだという物を否定してしまいました」
ああ……文芸部室でロボについて話した時のアレか。たしかに帆影は、巨大ロボの存在意義について割りと根本的に否定してくれた。でも、
「そんなことで嫌いになったりしないよ。帆影の言うことはたぶん、ざっくり正しいと思ったし」
「………………」
呆れ半分、焦り半分に告げる僕に、帆影はなにも答えてこなかった。ただ、ゆっくりと視線が戻ってきて、目が合った。むしろ僕の方が安堵に息を緩めた。
「て言うか……逆に僕の方が、趣味を押し付けるなって嫌われるかと怯えてたくらいだ」
帆影は虚を突かれたという風に目を見開いて、息を呑んだようだった。声もなく動いた唇が、「そうか……」と言ったように見えた。
それから、ゆっくりと左右へ首を振る。その動作のまま、人々に囲まれる立像を見上げた。
「今日は来られて良かったです。ロボットについてはまだよく解りませんが……
さっきみたいに新巻くんのことが聞けるのは、うれしかったです」
……………………
立ちくらみを起こしそうなくらい、顔の赤くなるのが自覚できた。
あるいは不思議な話だけど、さっき喫茶店で付き合ってると宣言した時よりも気恥ずかしくて、足が浮き出しそうだった。
…………ああ。僕は自分から言うのより、帆影に言ってもらう方がドキドキするタイプなんだな。と、思った。
爽やかに肌を打つ初夏の日差しの下、むずがゆいように
広場の並木を揺らして吹き来る風が帆影の髪を煽って揺らす。持て余し気味の前髪を押さえて撫で付けながら、帆影は僕へ視線を戻して、
「新巻くんは、きっともう――」
なにか言いかけたところで、広場にアナウンスの声が響き渡った。
『間もなく、「幻獣駆除会社Li・ot」アニメ化&立像公開記念、原作者ジョー鉄先生のサイン会、整理券の配布を開始いたします。先着八〇名様となっていますので、新刊文庫の代金を御用意の上、広場西側の特設ブースまでお早めにお越し下さい。なお、整理券はお一人様一枚となっており――』
スピーカーからの声を聞くと、なんとなく上を向いてしまうのはなんでだろう。それはともかく、
「……それじゃ、僕はちょっと行ってくるよ。映も果穂ちゃんとそこにいるみたいだし。帆影はどうする? 並ぶの退屈だろうし、後で合流するか?」
帆影はふるりと首を振った。
「いえ、わたしも並びます。伊井坂さんに、せっかくだからサインをもらってきてほしいと頼まれているので」
「そうだったのか……まぁ、僕が代わりにもらうわけにもいかないしな」
こうして僕らはサイン会の列に並び、無事に整理券をもらうことができた。こうした催しで集まる人数の相場というのはよく知らないけど、立像披露の影響か定員以上に参加者が集まり、急遽、二〇人ほど員数を増やしたほどの盛況だった。
果穂ちゃんと映は鉄先生がサインをしているテーブルの向こう側、スタッフらしき人たちにまぎれて立っていたが、お互いに目線を合わせようとせず、どこか険悪な雰囲気だった。
……またケンカしたのか。
とはいえあの二人、この間の家出騒動ほど大きなものでないケンカなら、小さな頃から何度もしてきた。だから二人の友情についてはあまり心配はしていないが、映の不機嫌のはけ口がこっちを向くのかと思うとそれが憂鬱だった。
僕の番が来ると鉄先生は「おぅ、来たね」と短く笑って、新刊の最初の
あっ、と思ったのは、帆影のは伊井坂への
その指摘を帆影にするには列が混み合いすぎていて、結局帆影は、伊井坂宛のサイン本をゲットすることができなかった。
「困りました。これでは伊井坂さんに渡せません」
「ああ……まぁ、帆影宛じゃなぁ」
「いえ、わたしの名前は入っていません」
? どういうことだろう?
と、そのサイン本を借りて開いてみれば、こんな風に書かれていた。
『アラマキくんのカノジョへ』
…………鉄先生。気を利かせすぎ、と言うか……
大変失礼ながら、ちょっと世話焼きオバサンみたいなセンスだと思ってしまった。
ぅ……と、照れるやら辟易するやらしている僕の顔を見ながら、帆影が訊いてくる。
「名前も入ってないですし、これを伊井坂さんに渡すべきでしょうか」
「ダメに決まってるだろ!」
即答して本を閉じ、帆影へと押し返す。そして、僕の勢いにたじろいでいる彼女へ、なんとなく目をそらしながら告げた。
「これは……帆影専用だから」
「ぁ………………はい」
帆影は手の中の文庫本をしばらく見つめ、それからバッグにしまおうと手提げの口を開いて、そこに入れかけてから思い直して座り込み、本が傷まないようにかバッグを整理して、そうしてようやく中にしまい込んだ。
「専用……」
起き上がった彼女は小さく呟いて、真昼の日差しを浴びる巨人の立像を眺めやった。
――その後、ジョー鉄先生が急遽ゲリラ的に敢行した「文明及び社会経済のエントロピー
目から
それから、担当編集さんと話があるという果穂ちゃんに別れを告げ、三人で昼食を取ることになった。ゲリラ講演が思いのほか長かったため、もう昼下がりといった時間になっている。
学期中はバイトもしていない高校生の財布なので、フードコートで各自適当な物を買ってきて食べたのだが、案の定、映が不機嫌で閉口することになった。
「……なんで果穂に、帆影先輩と付き合ってること言っちゃったかな? そのせいで怒られたじゃん……」
冷製パスタを注文した帆影がトイレで席を外し、兄妹でラーメンをすすっている時に、妹は前触れもなく愚痴りだす。
「いや……なんで果穂ちゃんに隠さないといけないんだ? 果穂ちゃんは帆影のことも知ってるんだし、言わない方が変だろ」
映が怒られたのは自業自得としか思えなかった。自分が帆影のことを気に入らないからって、僕と帆影の関係を隠すことはないだろう。
「どうせ、付き合ってるかどうかも怪しいビミョ~な関係なんでしょ? 速攻で自然消滅しそうだし、言いふらすだけややこしくなるだけじゃん」
……我が妹ながらなんて暴言を吐くんだ。しかも、僕が金を出したチャーシューを頬張りながら。
しかし、そこは痛い。痛い所を突かれた、というやつでもあった。
たしかに、恋愛漫画とかでも、相手の身内と仲良くなっちゃうと別れる展開になった時にダメージ倍増するよなぁ……でも。
「少なくとも僕は、別れることなんて考えたことないぞ」
「どうだかね。兄がそう思ってても、日本の国技と恋愛は一人じゃできないよ」
……いやホント、なんでこんなに可愛くない妹に育ってしまったんだろう? 僕の育て方が悪かったということになるのだろうか。いや、学校では八面玲瓏なパーフェクト優等生で通ってるわけだから、育成には成功しているはずなんだけど。
今だって、箸とレンゲを巧みに使って、汁の一滴も飛ばすことなく上品かつ気取りなくラーメンを食べている。あんなに食器を倒していた妹が奇麗に食事できるようになったのは素直に褒めたいところだ。ちょっとした感動すら覚える。
問題は、僕にだけはどんな仕打ちをしても平気だろうと高をくくって悪態三昧なことだった。事実なだけに始末が悪い。
そうやって、ラーメンの湯気越しに睨み合っている内に帆影が戻って来た。
淡々と麺をフォークに巻き付ける彼女を眺めて、粉チーズは多めに振りかけるんだなと思った。
◇
食事を終え、施設内の店舗を一通り冷やかした頃には夕方になっていた。家へは電車でも一時間近くかかるので、もう帰らなきゃならない時間だ。
同様に休日の外出を終える人や、仕事があった人の帰宅の時間も重なったのだろう。帰りの電車は
夏の
最初は近くにいた映だったが、いつの間にか空いた席に座ったかと思うと一駅で妊婦さんに譲って――ラーメンをすすっていた時の仏頂面からは信じられないような天使の笑顔だった――、結果としてだいぶ離れた位置で釣り革に
帆影はと言えば、ドアのそば、僕と壁に挟まれる場所で身を
電車が揺れる度、帆影の肩が僕の胸に当たり髪が顎のあたりを撫でるのがうれしくないと言えば大嘘になるが、それよりも彼女を困らせていることに胸が痛む。
……くっ、帆影にこんな思いをさせるなら、もうちょっと早めに帰っとけばよかった。帰るまで快適にエスコートしなきゃいけなかったのに……
これは完全に僕のミステイクだ。断じて映に言われたからではないが、彼氏失格の四文字が頭を
せめて、帆影が苦しくないようにしないと……と、僕は帆影の頭の横、壁に手を突いた。そのまま肘を突っ張る。つっかえ棒になって帆影が潰されないよう空間を確保するのだ。
「ぁ…………」
気付いた帆影が小さく声をもらし、すぐ横の僕の手を見て、それから顔を見上げてきた。他の客の迷惑にならないよう腕を伸ばしすぎないようにしているので、顔が近い。いつもは前髪に隠れがちな、透明感のある彼女の両目が息のかかりそうな場所にある。
――考えてみるとこの体勢、いわゆる壁ドンというやつだった。意識してしまうと恥ずかしくなってくる。こんなマンガみたいなポーズ、現実でやるもんじゃない。
つい最近、伊井坂にも同じことをしたが、あの時とは緊張の度合いがまるで違った。
気恥ずかしさをごまかすように、帆影へ話しかける。
「あのさ……この間の」
電車の中なので、なかば無意識にささやくような声が出た。それでも聞き逃すような距離ではない。帆影はまばたきした。
「はい」
「この間の朝、帆影が面白かった……いや、凄かったって言ってた本の話、聞きそびれてたと思って」
まさに、今日立像を見ることになった発端、巨大ロボの存在意義について部室で議論した日の朝に聞いた話だ。あの日、帆影は部室でもその本を机に出していたし、よほど気に入ったのだろう。
帆影はちょっと答えなかった。ただ、目の中でなにか感情が一回転したように見えた。
「……それでは、今度貸するので――ぅッ」
と帆影の言葉が途切れたのは、電車がカーブに差しかかって大きく慣性がかかったせいだった。
バランスを崩した帆影の頭が僕の胸にすっぽり収まって、小さな息がシャツに染みる。僕は僕でよろけたけど、座席のバーに掴まって踏ん張った。
一瞬ならず帆影の体が僕に押し付けられ、足が絡む。
電車はすぐに直線に戻り、僕も帆影を支えながら元の体勢へと復帰した。帆影もすぐに顔を上げ、もつれた舌をほどくようにしながら謝ってくる。
「すみません……」
「しょうがないよ」
笑いかけた表情が自然だったか自信がない。平静を保てているだろうか。
正面からこんなに密着するのは、文芸部室で初めて出会った時以来かもしれなかった。あの時と同じ柔らかい感触だけど、あの時よりも体が離れるのを名残惜しく感じている。
あの日から変わってないようで、ずいぶん贅沢になったと、思う。
帆影は少し、そんな僕の顔を眺めていた。それから、ぽつりと口を開く。
「やっぱり、ロボットのことはよく解りませんでしたが――っ」
ガタンッ、と電車が小さく揺れ車輪の音が大きくなる。
それで聴き取りにくくなると思ったか、帆影は少し声を大きくして続けたのだ。
「新巻くんはきっと、十分に大きくて硬いと思います」
――揺れた直後だったので、ちょうど車内には他の声がなく。
その帆影の言葉は、彼女が思っていたよりずっと広く伝わったようだった。
そこに露骨な反応はなかった。が、しわぶくようなざわめきが隠微に広がり、やがて僕の耳に断片的な言葉が入ってき始める……
「ぇ……なに?」「電車でなに言わせてんのあの子……」「痴漢……?」「いやプレイでしょ」「なんかさっき抱き合ってたし……」「やだ……ちょっと、変態ってやつ……?」「あー、録っとけばよかった……」
…………………………
解ってる。
帆影はたぶん、僕がもう、映の世話も満足にできなかった子供ではないと褒めてくれたのだろう。今日一日の流れからして、なにをどう考えてもそれ以外の他意はありえないし、カノジョからのポジティブな評価を、僕は素直に喜ぶべきなのだろう。
しかしそれはそれとして、この動く密室。視線とささやきの牢獄。周囲からの好奇の気配は耐え難いものがある。
焦熱地獄のように赤くなっているであろう僕の顔を、その理由を作った自覚のない帆影が不思議そうに見上げてきている。
次の駅で一旦降りようにも、映は離れた位置にいる――悪いことに、スマホの充電が切れそうだからオフにしとくと言っていた――し、はぐれると面倒だ。
逃げられない。
かくして。
周囲からのドン引きと軽蔑、下世話な揶揄の視線に囲まれ、朝に帆影と待ち合わせたターミナル駅までの長い道のりを行く羞恥の満員電車が始まった――
自分の乗ったロボットが暴走を始め、脱出もできなくなったパイロットの気持ちはこんな感じなのかもしれない。
そんな……よりにもよって、そんなところで……
本日のライトノベルは、そっとページを閉じるのだ………………
The Hokage's L/RightNovel
Episode #5
Gigantic figure always shaped like brave.
Fin.
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