閑話3.
簡易リフォームしたのはもう何年も前のことになるが、お風呂場の天井は汚れ一つない鮮やかなクリーム色だった。
湯船の水もキレイに澄んでいる。
夏を目前にしたこの時期、わたしは半身浴よりはもうちょっと多いくらい、
兄などはお風呂場にタブレットを持ち込んで無駄に長湯をするが、のぼせやすいわたしには絶対無理だ。猫の動画とか視ながら入りたい気もするんだけど。
お風呂と言えば――と、わたしは手で作った皿に湯をすくい上げながら思い出した。
その帆影先輩は、わたし、新巻
ということになっている、というのは、
帆影先輩は、おかしい。
ややもすれば陰気にも見えるけど顔立ちはなかなかキレイな人だ。
でも、すっとぼけた無表情をしながらヒワイな言葉を連呼したり、人間らしい愛情とか尊厳とかを無視して、動物を観察する目で人を語ろうとする。そういう人でもある。
挙げ句の果てに、恋人であるはずの兄を「都合のいい人」呼ばわりだ。恋も愛も、あの人にとっては、便利に利用できる相手へ向ける感覚でしかないということだろう。
ただでさえコミュ力が欠乏して頼りない兄を、あんな変人に任せるわけにはいかない。せっかくわたしが日々講じている、すっかりオタクになってしまった兄の更生計画が台無しになってしまうではないか。
つい先日も、同性同士の……なんと言うか……濃密な小説を読んだことから始まった話の中で、帆影先輩は戦争がどうの人口がどうのと、生物のシステムの話をして、恋する人間の切ない情感について全く考慮していなかった。
これまでに知った帆影先輩の性格からすると、恋愛という概念を理解してはいるらしいが、それを具体的なことだと思い込んでいるようだった。仕組みがあって、決まった条件でスイッチが押されると恋が始まって、スイッチを切ると愛が終わる。電球のフィラメントの親戚。そう思っているようだ。
そんな人だというのに、兄は本気でぞっこんのようだ。いつもあの人の肩を持って、わたしの言うことはちっとも聞いてくれない。
この間なんて、帆影先輩が怪我をしたというので保健室を見舞ってみれば、ベッドの上の先輩に兄がのしかかるような体勢になっていた。
後で兄が言い訳してきたことによれば、落とし物を拾う時にたまたまあんな形になっただけだというが……
帆影
あんな冷血な
きっと、オタク趣味のデフォルメされた女性像に浸かる内に、胸とか、女性の記号が明確な人にしか関心を持てなくなってしまったんじゃないだろうか。認識力の衰弱だ。やはりオタクは害悪なり。
慎ましい体つきをしている果穂を、
ちなみに、湯船の中の我が胸は上品かつスポーティだ。
体付きと言えば、伊井坂先輩も案外にスタイルが良い。
兄は、その伊井坂先輩にも迫っていた。あれはいわゆる壁ドンだ。わたしに変な本を押しつけたことへのお仕置きだと言っていたけど。
その伊井坂先輩は、今日も懲りずにライトノベルを貸してくれた。
さすがに前回のようなインモラルな内容ではないらしい。なんでも、歴史上の偉人だか英雄だかの霊魂が様々な時代から現代に呼び出され、いくつかの陣営に分かれて相争うという内容なのだとか。
歴史は嫌いじゃないし、これなら少しは楽しめるかもしれない。果穂が今
そんなことを思いながら、わたしは
考え事をしたせいか長湯になって、肌がむき海老みたいなピンク色に染まっている。
むぅ……これも、あの
◇
「――実にくだらないですね!」
翌日、放課後。
例によって文芸部室を訪れたわたしは、伊井坂先輩に
本のタイトルは『現前する
歴史上の人物に関わりのあるアイテムを手に入れた能力者が、そのアイテムに遺された記憶から元の持ち主の分身を顕現させ、勝ち残った者が全知を意味する「地球の記憶」を手に入れられるゲームを行う――というのがあらすじだ。
荒唐無稽な話だけど、それはまぁ、ファンタジーなんだから文句はない。
問題は、全然別のことだ。
「うーん……これも気に入らなかったかい? 幅広い層に人気のシリーズなんだけど」
「おい映、
兄が『英雄列伝』を手に取って、ぺらぺらめくりながら
わたしは兄から『英雄列伝』をひったくると、わたしが問題だと思っているキャラクターのイラストが載っているページを開いて突き出した。
兄と伊井坂先輩、そして帆影先輩がのぞき込んでくる。
「過去の偉人を現代に呼び出すのはいいとして……なんで
一応、ネットで元ネタになった人のことも調べたが、二人ともむさくるしいオジサンだった人だ。魔法少女みたいな格好をして、自分の体より大きな武器を振り回す美少女なわけがない。
わたしの指摘に――しかし三人は明確な反応を見せなかった。帆影先輩はいつもと同じ無表情、兄と伊井坂先輩は「ああ、それね……」的な、
取りなすように口を開いたのは伊井坂先輩だった。
「まぁまぁ。歴史上の人物のエッセンスを抽出して女体化したキャラなんて、昨今よくあることだし。
「これは異説なんてレベルじゃないでしょう。こんなキャピキャピした武将はいるわけないし。そういうのが当たり前に流されるのって、変ですよ」
わたしの至極真っ当な指摘に反応したのは、きょとんとまばたきした帆影先輩だった。
「妹さんは、登場人物が性転換しているのが気になるんですか?」
性転換って……ややこしい訊き方してくるな。
「……いえ、別に性転換が悪いというわけじゃないですよ。性同一性……って言うんですか? そういうので苦しんでる人がいるっていうのも解ります。
でも、この場合は実在したか、したと言われる人物を扱ってるんです。当時の文化や男女観の中で活躍した人の性別を変えちゃったら、ひととなりが歪んじゃうって言うか…………彼らの人生への侮辱になるんじゃないですか?」
そうだ。これを言いたかった。偉人伝に材を採りながら、リスペクトが足らないのではないだろうか。
「まぁ、そう言われちゃうと……」
「否定はしづらいけども」
兄と伊井坂先輩も
「それはどうでしょう、妹さん」
またしても、帆影先輩が余計な口を挟んできた。兄を挟んで向こう側に座っている先輩が、いつの間にかこちらに向き直っている。
「なんですか? 帆影先輩……」
口いっぱいの反感を言葉にして吐き出したつもりだったけれど、帆影先輩は一向に構わず、いつも通りの淡々とした調子で返してきた。
「性別の転換というものは、この世界でそう珍しいことではありません。
たとえばコブダイは、体の小さな内は全ての個体がメスで、体が大きくなるとオスに性転換してメスを率いてハーレムを作ります」
またハーレムか……海の風紀はメチャクチャだ。
「体が小さい時期は成体のオスに守らせて生き残り、自衛できる大きさになった時点で、次の世代のメスを囲って子作りを始める。子供を産むメスと、守護者としてのオスを一個体が兼ねて、変態しながらリレーで行うことで一切の無駄なく一生を過ごせる。
さらに、オス同士は力を競ってハーレムを奪い合うことで競争原理まで発生させ、強者の遺伝子を後に残していきます。
まったく、コブダイの一生には捨てるところがありません。実に合理的な生き物です」
帆影先輩は相変わらず平坦な調子で解説したが、語り終えたところでほぅ、と熱っぽいような息をついた。本気でコブダイの機能性に感心しているらしい。
「あのボネリムシも、性別が未分化の内にメスに接触されればオスに、そうでなければメスになるという性別決定をします。なにもなければメスになるという性質を拡大解釈すれば、ボネリムシもまた、環境に応じて性別を変化させる生き物と言えるでしょう」
またボネリムシの
うんざりしているわたしに気付いた様子もなく、帆影先輩は前のめりに主張してくる。
「ですから、戦争の時代から現代へ来るに当たって、故人の魂が性別を変えた肉体を得るのは、生物界に照らしてそうおかしなことではないと思います」
……何度言ったら解るんだろう、この人は。
わたしは額に手を当て、
「だ・か・らっ……わたしは人間の話をしているんです! 不思議な魚がいるのは解りましたけど、人間にはそんなおかしな性質はありません」
兄が落ち着けとでも言いたげに
「人間……」
帆影先輩はわたしの言葉の一部を切り抜いて舌に乗せ、何秒か味わった後、性懲りもなく話を続けた。
「人間の場合、妊娠の早期にテストステロンという男性ホルモンが多量に分泌されると脳が女性ホルモンを分泌しなくなって、結果として男性になります。逆に、テストステロンの分泌が少なければ女性になります。
――そう、少しボネリムシに似ていますね。初期のまま変異が起こらなければ女性になる。つまり、考え方によっては、人間はおしなべて最初は女性なわけです」
「ということは……男はみんな、母親のお腹の中で性転換して産まれてくるわけか。人間の半数くらいが性転換してるって思えば、そんな大げさに考えることでもない気がしてくるな」
兄が引き取って、ポンと小さく手を打った。
……そんな風にナットクしていいのか兄。自分が最初は女の子だったと認識するってことなんだぞ。
しかし、わたしは兄ほどチョロくない。トカゲ論法に甘々ではないのだ。
わたしも帆影先輩の方へ身を突き出す。逆側から帆影先輩が乗り出しているから、挟まれた兄は居心地悪そうに肩をすぼめた。
「それは、生まれる前で、男も女もない状態から変わるってだけでしょう。性転換とは全然、別の話ですよ!」
帆影先輩は案外にあっさりうなずいた。いや、この人はなんでも、いちいち、こだわりがない。執着することがない。
そういうところが噛み合わない。プログラムを相手にしている気分になる。
「なるほど……しかし、人間にはもっと明確な、自然の性の変化があります」
「な、なんですか、それ?」
わたしが知らないだけで、そういう体質の人とかいるのだろうか……と、不安になってきたが、帆影先輩が言うのはよく知っていることだった。それは、誰でも知っていることだった。
「前に、人間が子供を遺すのは、遺伝子を主体にした脱皮のようなものだと言いました
親という古い細胞の塊から、新しい細胞を持つ子供に乗り継ぐのです」
……そういえば、転生について話した時にそんなことを言っていた。遺伝子が主体ってなんだよって話だけど……
「その考え方で言えば――」
わたしが思い出している内に、帆影先輩は微熱を帯びた声で続ける――
「妹さんは、お父さんが女性化した存在ということになります」
「気持ち悪いこと言わないでもらえます!?」
気が付くと。
わたしは、机に手を突いて立ち上がっていた。全身が悪寒に震えている。
予想外の剣幕だったのか、帆影先輩は目を見開いたまま固まっていた。小動物っぽくて少しだけ可愛いが、容赦の理由にはならない。
いつも通りすっとぼけた先輩へ、わたしは怒りのままに、袖をめくり上げた腕を差し出す。
「なに言ってくれてんの!? わたし史上最大かもしれないくらいのキモさだよ! ほら、これ見てって!」
腕にびっしりと鳥肌が立っていた。……うう、あまりの拒絶感に指先が痺れてきたかもしれない……
「お、おい映。そこまで言っちゃ父さんが可哀想だろ……」
兄の言うことも解る。わたしだって別に、お父さんが嫌いなわけじゃない。嫌いなわけがない。
子供の頃から変わらず、わたしをお姫様のように可愛がってくれる、優しいお父さんだ。
でも、それはそれ、これはこれ。
お風呂上がりに下着同然の姿で歩き回るとか、洗濯物をわたしのといっしょに洗うとか、歯ブラシを並べて立てるとか、絶対的NGを宣言せざるをえない。
だってお父さん、オジサンだし。
無理だし。
ありえないし。
わたしは息を整えながら、改めて思った。やっぱり帆影先輩とは解り合えない。
そうしてそれを、きっぱりと言葉にした。
「――帆影先輩は、おかしいです」
「おかしい……ですか?」
先ほどまでの暴論より勢いをなくして、でもやっぱり無感動な声を出して、帆影先輩はころりと首を傾げた。自覚がない。
「普通の女子高生は、自分をお父さんの女体化だなんて想定する不気味な思考はできません。
なぜなら、なにをどうしたって気持ち悪いからです!」
「いや、だから父さん可哀想すぎる――」
「兄は黙ってて!
……帆影先輩だって、お父さんが入ったすぐ後のお風呂とか入りたくないでしょ?」
お風呂好きだという帆影先輩なら、せめてその気持ちくらいは解ってくれるだろう。そう思っての確認だったのだが。
「はぁ……」
帆影先輩は、やはりピンと来ない、といった風にきょとんとした目をしていた。
ただ今度は、首を傾げるのではなく、小さく頭を下げてきた。
「すみません。わたしには、そういうのがよく解らなくて」
なんだそれ……
「よく解らないって、そんなわけ――」
「映! いい加減にしろ!」
またしても兄が口を挟んできて――今度は、無視できなかった。
声の調子もさっきまでと違っていたし、だから振り向いて見た顔が、思いのほかに真剣だったからだ。
あ……れ……? 怒ってる…………?
ついさっきまでのたしなめる感じと違って、割りと本気で睨んできている。
な、なんだろう? わたし、なにか言っちゃいけないこと言った……? と、帆影先輩を見るが、当人は驚いたような顔をしているものの、わたしではなくて兄を見ていた。
その兄は、なおもわたしへ言ってくる。
「ずけずけしすぎてるぞ、映」
「…………ぅ……」
そう言われると、先輩に対して失礼だったかもしれない。ちょっとタメ口になっちゃったし。普段の……他の人に対するわたしなら絶対にあんな風にはならない。
帆影歩。兄の初めてのカノジョ。わたしの常識の裏側にいる変な人。
この人を認めるといろいろな物が壊れてしまう気がして、どうしても、むきになってしまう。
今も、そうだった。謝らなくちゃと思うのに、厳しい顔の兄を見ても、心なし戸惑っている帆影先輩を見ても、なんでか言葉が出てこなくて。
「もう……いいです!」
床置きしていたバッグを引っ掴んで、また、逃げ出すように文芸部から出ていった。
伊井坂先輩の「あ! またおいでー!」という声だけが背中を追いかけてきてくれて、あなたは漫画研究会でしょうと思いつつ、ちょっとだけ感謝した。
――いつもは百合の花の姿で歩いている廊下を、花壇荒らしのように乱暴に行きながら、考える。
兄が帆影先輩の肩を持つのはいつものことだが、さっきの様子はそれと違っていた。あんな風な強さで怒られたのは、小さな頃に縁日で迷子になって二時間後に見つけられた時以来だ。
ちょっと恐かった……
いつもと違ったのはなんだろう? わたしが帆影先輩の非人間的な物言いを非難するのは毎度のことだ。今日だって途中までは、兄も疲れた顔をしていたけど怒ってはいなかった。
じゃあなんで、急に強い言葉で制止してきたのだろう。さっきの会話でいつもと違うのは…………帆影先輩に、お父さんとのことを訊いたことくらいだろうか?
……そういえば、帆影先輩のプライバシーについてはお風呂好きということくらいしか知らない。
校舎を出て、夕方の空を見上げる。お日様は真上になかったけれど、夕日に灼かれた雲の色が目に
閉じた目に残った光は、無駄に胸の大きな先輩の
「帆影先輩って……なんなんだろう?」
(※)ボネリムシについては角川スニーカー文庫刊『好きって言えない彼女じゃダメですか? 帆影さんはライトノベルを合理的に読みすぎる』第二話を参照。
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