第四話.色々殺し シーン3

        ◇


 翌日。

 昨夜ゆうべも小説を書くことはできず、ウィキペディアの「三国志の登場人物」のカテゴリーを漫然と眺めていたら寝なきゃいけない時間になっていた。自分に課した宿題が真っ白なわけで、爽やかな寝覚めとは言い難い。

 はゆは昨日以来、母さんや父さんには普通に接しているが、僕のことは無視している。機嫌を取るにしても、もう少し頭が冷えてからの方がいいだろうと、僕も放っておいた。

 そんな半端な気持ちで午前を送ったせいだろうか、昼休み、僕は思わぬ冷水を浴びせかけられた。

「――かげが、怪我をした……?」

「んー、そんな大したのでもなさそうなんだけどね」

 それを教えてくれたのは帆影のクラスメートで、なにかと行動をともにしている酒々井しすいさんという女子だった。今みたいなジャージに短パン姿だと、遠目には男子にも見える、ボーイッシュな人だ。

 帆影が彼女といっしょに歩いている時に何度か出くわして、お互いに面識がある。知り合ったのはまだ一年生の頃で、その時はまだ帆影と付き合ってなかったので「同じ文芸部の新巻あらまきくん」と紹介されたが、今はどう認識されているのだろう?

 そんな程度の関係である酒々井さんに廊下で呼び止められ、何事かと思って振り向くと、弁当箱を突き付けられたのだ。

「今は帆影、保健室で休んでるんだけどさ、暇だったら、届けてやってくんない?」

 話も弁当箱も唐突な上、帆影の負傷という事態に混乱した僕は、にわかに返事もできなかった。しかし酒々井さんはすまなそうに手刀てがたなを立てて続ける。

「ウチが持ってってやるって言っちゃったんだけど、柔道部の昼ミーティングあるの忘れててさぁ」

 ハンカチで奇麗にまとめられた、男の僕から見るとこぢんまりした弁当箱だ。帆影が家から持ってきた昼食だろう。要するに、帆影はまだ教室に戻れないから、誰かが弁当を届けないと昼飯抜きになるということか。

「新巻くん、帆影の友達だよね?」

 トモダチ……帆影は友人に、僕のことを「友達」だと説明しているのか…………いや、帆影のことだから、付き合い始めたなんてわざわざ報告していないだけかも知れないけど。

 ちょっと落ち込んだものの、まさか否やはない。

 僕は酒々井さんから帆影の弁当を受け取って、保健室へと急いだ。


 保健室の前まで来て、ノックしようとしたところで中から戸が開かれた。

 出てきたのは養護教諭の保村やすむら先生で、戸を開けたらすぐ外に立っていた僕の姿にびっくりしたようだった。少し大げさにたたらを踏む。

「え? なにきみ?」

「あの……帆影、さんの、弁当を届けに……」

「ああ」

 保村先生は三十代半ばくらいの女性で、この仕事ももうベテランなのだろう。健康診断以外では初めて訪れる保健室に緊張して性急に用件を切り出す僕にも、柔和な笑顔を見せてくれた。

「あれ? でもさっきは、酒々井さんが持ってくるって言ってたけど……」

「なんか部活のミーティングがあるとかで…………あ、僕は二年A組の新巻です」

 ふと思い出して、あわてて名乗る。いきなり保健室に押しかけて、きょときょとと落ち着きなく女子に弁当を届けに来たと言い出す……これじゃ不審者だ。緊張と情けなさで顔が赤くなった。

 それをどう取ったか、保村先生はふぅん……と息を抜きながら僕の肩を叩き、

「帆影さんは奥のベッドで休んでるから渡してあげて。わたしは用事があって留守にするけど、昼休みが終わるまでには戻ってくるから。

 よろしくね」

 そう言い置いて、言葉通りにどこかへ行ってしまった。白衣を揺らしながら去って行く背中がちょっとカッコイイ。

 ……なにが「よろしく」なのかはよく解らなかったが。

 ともかく僕は、先生と入れ違いに保健室へ足を踏み入れた。少し迷ってから、引き戸を閉じる。

 あまり馴染みのない保健室は、無人を疑うくらいに静かだった。食べ盛りの空腹を癒す生徒たちの声が、遠くから、幾重にも反響して無音の隙間に忍び込んできている。

 節電のためか電気は消えていたけれど、窓から差し込む陽の光だけで、この部屋は嘘くさいくらい真っ白に染まっていた。

 ポスターの中で様々な健康問題を論じる絵本めいたキャラクターたちや、目玉にも似た体重計のメーターからの視線を感じながら、なんとなく神妙な気持ちで奥へ進む。

 ベッドは三つ並んでいたが、カーテンが閉まっているのは壁際の一つだけだった。

「……帆影、いるか?」

「新巻くん……?」

 聞き慣れた静かな声で返事があったことに、予想していたよりも大きなあんがあった。知らない内に溜めていた息を吐き出しながらカーテンを開ける。

 そこで、うっ、と固まる。

 別に、何かおかしなことがあったわけではない。聞いていた通りに帆影が居ただけだ。

 学校標準の体操着と短パン姿で、酒々井さんと違ってジャージは羽織っていない。足を伸ばした姿勢で座っていた。暑いからか、掛け布団は隅っこにたたまれている。

 体操着は汗を吸ったせいもあってか、彼女の凹凸おうとつの大きな体型を従順になぞっていた。短パンから伸びる両脚も、男のそれとは全く違う曲線をくっきり浮かび上がらせるくらいに、白く映えている。

 この格好の彼女を見るのは初めてではなかったが、カーテンの中の狭い空間で、しかもベッドの上に放り出されているのを見ると、全然平気というわけにはいかなかった。

 しかしほうけていたのは一瞬で、すぐに我に返った。帆影の右膝の下あたりにラテックスの氷嚢ひょうのうが載っかっている。体育の授業で脚を痛めて、それで教室に帰れなかったようだ。

「……どうしてここに?」

 カーテンのせいで薄暗い中、いつも通り茫洋とした帆影の瞳だけが光を集めて照り返し、僕に向けられている。暗いので顔色はうかがえないが、特につらそうな様子はない。

 ただ、少し落ち着かなさそうに、額にかかっていた前髪をかき上げていた。

「うん……酒々井さんに頼まれてさ。帆影の弁当、持ってきた」

 答えながら、ベッドの脇にある小さな棚の上に弁当と、途中の自販機で買ってきた紙パックのカフェオレを置く。

「酒々井さんは部活のミーティングがあるんだって」

「そうですか……ありがとうございます」

 帆影は本当に小さく頭を下げてきた。載っかってるだけの氷嚢を落とさないようにバランスを取っているのかもしれない。

「いいって。でも……脚、痛むのか?」

 帆影はゆっくりと、僕から自分の脚へ目を移した。

「転んで打っただけです。大したことはないので痛みが引いたら戻っていいと」

 酒々井さんが割りと平気な顔をしていたので、そんな感じだろうとは思っていたが、直に帆影から聞いて胸を撫で下ろす。

 自分が怪我をするのは我慢すれば済む話だけど、帆影が怪我をしたら、僕にはどうにもできない。それは、ひょっとしたら、つまり他に想像できないという意味で、なによりも怖いことだ。だから、

「よかった……」

 半ば無意識に、声が出る。反応して顔を上げた帆影が、僕の表情かおを見て、それから何度かまばたきした。

 ――彼女が目を閉じて開くだけで、腹の底に水滴の落ちる心地がする。好きな女の子と二人きりでいるというのは、僕にとってはそういうことだった。

 その帆影が、おもむろに上体を屈めて脚の氷嚢へ手をかけた。

「もう、だいぶ痛くなくなりました」

 告げながら氷嚢をずらして見せる。釣られて見ると、確かに傷はなかった。しかし、すぐに見て取れるような青アザになっていた。

 自分でも意外なくらいに狼狽した。思わずのぞき込んでしまう。

「えっ……これ、痛くないのか?」

 対する帆影は小さく首を傾げて、

「触ってみますか?」

 出し抜けなことを言ってきた。顔を見ても平静なもので、例によって、なにを考えているのかよく解らない。

 一瞬、まさか誘われているのかと頭に血が上ったが、話の流れや帆影の性格を考えると、単に僕を安心させようとしているだけな気がする。

 だとしたら、断る理由はなかった。

(い、一応…………恋人同士なわけだし……)

 帆影の脚に手を近付けながら改めて彼女をうかがうが、変わらず委任の眼差しだ。

 音を立てないようにつばを飲み込んでから、ゆっくりとアザになっている部分に触れる。氷で冷やされていた肌が指に吸い付いてきて、僕の方に鳥肌が立った。

「……うん。触った感じ腫れてないし、ホントに――」

 平気なんだな……と、視線を帆影の顔に戻して、言葉を失う。

 …………と目を細めて、口を引き結んでいた。知り合ってから一年以上経っているが、初めて見るじゅうめんだ。まつげが震えているのがちょっと色っぽい……いや、そうじゃなくて。

 慎重に、そっと、手を離した。

「……痛そうじゃないか」

「痛いです……ぶつけた直後ほどではないだけで」

 詰めていた息とともに言って、表情をやわらげる帆影。僕は困惑した。

「じゃあなんで、触らせたりするんだよ」

 帆影はちょっと答えなかった。自分が口の中に用意した言葉が適当かどうか、迷っているようだった。

 それから、いつもよりぼそぼそとした声で答えてくる。

「……喜んでもらえるかと思って」

 ………………まぁ、それは、帆影の体にさわれるのは、正直、当然、うれしい。足を踏まれたり人混みの中でくっついたり手を握り合ったりしたことはあっても、脚にれるのは初めてだからすごく緊張した。ドキドキした。

 でも、なんで患部を? そもそも帆影は、なんで急に僕を喜ばせようとしたのだろう?

 僕は素直に訊いた。

「ええと……なんで、僕が帆影の怪我を触ると喜ぶと思ったんだ?」

 帆影は、とても素直に答えてくれた。

昨日きのう、伊井坂さんが新巻くんはサディストだと教えてくれたからです。そこに折良く打ち身を――」

「いや忘れてくれ! あれは伊井坂の悪ふざけだから!」

 僕の全力の否定に、帆影は「そうなんですか?」というようにぽかんとしている。そういえば昨日、伊井坂の暴言に具体的な否定をしなかった気もするけど……ちょっとショックだ。

「帆影も、なんであんなホラ話を信じちゃうんだよ……?」

「以前にも足を踏まれたり、不意に強く手を握られたりしましたし。そういうのが好きなのかと」

 そう言われると……そんなこともあったかも知れない。でも、ああいうのは精々おふざけのレベルだろう。Sっ気があるとかではない……と思う。

「新巻くん」

 ふと静かな声で呼ばれ、追想への言い訳から引き戻される。見ると、帆影はいつもより少しだけ真剣に見える目をしていた。なんだろう。

 ベッドのそばに椅子がなかったので、少しためらってからベッドに座る。ぎッとベッドのスプリングが鳴いて、その揺れでまた痛んだのか、ソックスに包まれた帆影の足先がきゅっとすぼまった。

 帆影と目線を合わせて、続きをうながす。帆影は神妙に口を開いた。

「わたしはどうも、痛いのは苦手みたいなので加減してもらえると……」

「だから忘れてくれってば!」

 両手をわなわなさせて訴えるが、帆影はまだ疑いを持っているらしかった。

「『英雄たちが一晩中』のように、ワサビは水溶性だからそこにはマスタードを塗り込むべきだ、とか言い出さないということですか……?」

「結局読んだの!? せっかく没収したのに!」

「昨日、電子書籍で買いました」

 しかも買ったのか……まぁ書店で探さなかっただけダメージは小さいかもしれない。

 ちょっとした目眩めまいに額を押さえながら、く。

「なんでまた……そんなに読みたかったんだ?」

「…………新巻くんも、妹さんも、伊井坂さんも読んだ物なので」

 ………………

 取り残されると、思ったのかもしれない。いや、僕はたぶん、自分からは二度と思い出さないと思うし、映も三分の一くらい読んだところで投げ出したみたいだけど。

 そういう問題じゃないのだろう。

 三人で勝手に盛り上がってしまった(?)昨日の態度はちょっと無神経だったかもしれない。反省だ……

「夜遅くに読み始めてしまったので、ちょっと寝不足です」

 ……いや。

「ちょっと待て。まさか、そのせいで転んで怪我したって言うんじゃないだろうな」

「それもあるかもしれません」

 ダメじゃん……

 読書好きは結構だけど、日常の注意力が下がるほどのは困る。これから暑くなるし、これは少し説教すべきか……と口を開きかけた時、帆影が先に続けた。

「でも直接の原因は、考え事をしていたせいです」

「考え事?」

「はい。昨日はまた、妹さんを怒らせてしまったので」

「だから、気にしなくっていいってば。いつものことなんだから」

 帆影は珍しく、かたくなに首を振った。

「いつも…………いつも、わたしはどこで間違えてしまうんでしょう?」

 ……どうも本気で悩んでいるらしい。帆影はいつも超然として見えるし、相手に理解されないことを恐れている様子もなかったけど、少しずつ変化しているのだろうか。それとも、ごく単純に、映と対立することを不利益だと思っているのか。

 なんにしても、それなら僕も考えてみよう。

「……昨日の件で言うと、映は、同性同士で恋愛するのが正当化される理由じゃなくて、人を好きになったら性別なんて関係ない、本人たち気持ちが大切、って答えを期待してたんじゃないかな。あいつロマンチストなところあるから」

「キモチ、ですか」

 帆影は、くさむらに住んでいる虫の名前を聞いたような顔をした。バッタ、カマキリ、コオロギ、キモチ。明らかに要領を得ていない。僕は考え考え付け足した。

「たとえばさ、帆影の言ってたような、人間の性衝動。それをオフにできるスイッチが発明されたとして、オフにした時に人を好きになったら、それが純粋な恋愛である、とか」

 自分で言ってて散臭さんくさいが、映はそんな風に意識しているフシがある。そうでなければ、ああいう欲望に特化したような本を読んで泣き出しはしないだろう。

「難しい話ですね」

 割りとざっくりしたたとえ話のつもりだったのだが、帆影は思いのほか深く考え込んでしまった。

「心というのはつまり、意識的にか無意識的にか『結果的に利益を得た行為』を反復しようとする働きだという考え方があります。

 一番単純な例では、泣くことです」

「泣く?」

「はい。赤ん坊は生理的な欲求で泣きますが、それを繰り返す内に『泣けば世話してもらえる』ことを覚えて、大人になっても、悲しいことや感情が不安定になることがあると泣くようになります」

 なるほど。「助けを求める」状況と「泣く」という行為が、精神的にひも付けされるということか。

 それだけでは端的すぎると思ったか、帆影は例を重ねた。

「たとえば、小さな子供が欲求のままにおやつを食べ過ぎると、晩御飯が食べられなくなって親に叱られたり、次の日の分のおやつが足りなくなったりして後悔したりします。

 そこで逆におやつを我慢してみると、晩御飯を美味しく食べられて親にも褒められ、次の日もほどよい量のおやつを食べられました。そういう環境に育った子供は、『我慢』を『良いこと』とする心を形作るわけです」

 我慢しなくても怒られなかったり、翌日もたっぷりおやつが食べられた場合、「我慢」は「無駄で不利益なこと」として避ける心ができるわけか。

 そんな風に、欲求に沿って利益を得る決断のパターンを「心」と言うなら――

「だから、思春期以降は常に発情期の人間の精神活動には、およそ全てに性的な欲求が関与していると考えることができます。もちろん性的な充足より他を優先する決断も多いと思いますが、少なくとも比較対象として参照して、一挙一動に影響を与えるでしょう。

 そうなると、性衝動を取り除かれた人間は、全く別人のココロになってしまいます。その別人の恋愛は、純粋にその人の恋愛なのでしょうか?」

 ……確かに難しい話になってしまった。性を抑圧すること自体に性が関わってしまう。

 プラトニックな恋愛と言う場合、その定義は「性的でない」恋愛だ。性の概念を使わないと定義できないなら、それは結局、性の話になってしまう。

 生まれながらに性欲のない体質の人同士の恋愛なら、純粋と言えるのだろうか。

 思わず考え込んでしまって、帆影が返事を待ったせいで、沈黙が落ちた。

 昼休みの保健室、空虚に脱力した空気。遠くから聞こえてくる、休息を謳歌する生徒たちの嬌声が、かえってこの場所は寂しいのだと語り聞かせてくる。

 ……校舎の中で帆影と二人きりになるのは、部活で慣れているのだけれど。保村先生だって、すぐに帰ってくるのだろうけど。

 しかし、それでも、同じベッドの上でこんな近い距離に居るというのは、初めてのことだ。意識してしまうと、考え事とは別の理由で声が出なくなる。次になにを言うべきか、言っていいのか、解らなくなる。

 そんな中に、帆影の透き通るような声がした。

「新巻くんは、どうしてわたしと恋人になろうと思ったんですか?」

「どうしてって……」

 決め手になったのは、僕が文化祭の時に書いた小説を読んでくれた姿を見た時だった。他には伊井坂くらいしか評価してくれなかった掌編を読んで、帆影は柔らかく微笑んでくれた。その時に、どうしようもなく惹かれた。

 …………うん? おお、我ながら純粋な好意だ。幻かと思われた「純愛」は、まさか僕の中にあったのか。

 しかし、さらに思い返してみると。

 初めて出会った日、脚立きゃたつを踏み外して、文字通り僕の腕の中に飛び込んできた帆影の体の柔らかさ。そこに好意が発していないと言い切れるだろうか――ノー

 入浴中にフリーズしてしまったタブレットについて相談の電話を掛けてきた時、タブレットの写真といっしょに誤って送られてきた、帆影のあられもない姿。あの、控えめに言って人生で一番魅力的だと思った写真を消してしまったことを、後悔していないと言い切れるか――ノー

 付き合い始めた後、初めて帆影と握り合った手の感触を思い出し、その晩じゅうベッドの中でもだえ転げ回りはしなかったか――ノー

 なぜかいっしょに選ぶことになった帆影の下着。帰ってから帆影の買ったのと同じ物をネットで検索し、意味もなく商品画像を保存しなかったか……――…………ノ……ノー……

 …………ダメだ。僕の恋は欲望にまみれている……て言うか、最後の気持ち悪すぎるだろう! 他の誰かがやってたら唾を吐きかけたくなるくらい最低だよ! クズだっ! 僕はクズ野郎だ!

「どうしたんですか新巻くん。急に頭を抱えて突っ伏して、あまつさえぷるぷると肩を震わせだして」

「いや……自分の不純さに絶望しそうになって……」

 解ったことは、僕は強烈に帆影を求めているが、それを精神的なものと肉体的なものに分けて考えられそうにはないということ。それだけだった。

 自分のゲスさ加減と向き合いながら顔を上げ、きょとんとしている帆影に向き直る。

 深呼吸して少しは落ち着いたが、さすがに、自分の変態じみた部分を告白して「こんな僕でもいいでしょうか……?」と訊く度胸はない。

 だから。

「帆影」

「はい」

「青頭巾、さ」

「え……?」

「『雨月物語』の…………昨日言ってたろ、伊井坂に。ネットで調べたら現代語訳があったんで読んでみたんだ」

 大雑把おおざっぱ に説明すると、ある僧侶が、召使いの少年を愛するあまり少年の病死を受け入れられず、その死体を喰って鬼と化す物語だ。その鬼は、人里に現れては墓を暴いて屍肉を喰らうようになってしまう。

 最後は、青い頭巾をかぶった禅師の教えを受けて成仏するのだが、食人を伴う凄絶せいぜつな少年愛はインパクト抜群だった。確かに、広義にはボーイズラブに当たるのかもしれない。

「あの僧侶が死人の肉を食べるようになったのはきっと、少年を食べたという愛の行為を繰り返したってことだと思うんだ。

 さっきの心の話で行くと、愛する人をということを覚えて、主体を忘れて何度も反復した。

『愛』と『行為』を同一視して、倒錯した心を生んでしまった」

 帆影は黙って聞いていてくれた。彼女の目に宿る落ち着いた光で、話を理解していることがうかがえる。なんだか、いつもとは逆の構図だ。

「極端すぎる話だけど、解る気もするんだ。一度結びついてしまったら、切り離せない」

「……そもそも、寺院の稚児ちごは女人禁制の場で、女性の役割をになったといいます。つまり、僧侶の少年愛は異性愛ので、僧侶が死体を食べたのは少年を食べたことの

 そう言ってしまうと、どこにも本物などないように聞こえる。全ては錯覚だ。

 でも。

「でも、僧侶の愛が偽物だとかって感じはあんまりしない。仏教の話だから最後は執着を捨てて成仏するけど、僧侶のやったことが…………その……、セックスでない分、少年への尽きない愛情をどうにか表現し続ける、ある意味で純粋な想いの話にも思える。

 ただ性的な関係が純粋な愛に変わることもあるだろうし、純真に人を慕う気持ちがシームレスに体の関係につながるかもしれない」

「………………」

「つまり……だから、人を好きになる気持ちは、鬼のように強くて、異常で、死ぬまでどうにもならないくらいだってことだと、思う」

 そこで言葉を切って、帆影の反応をうかがう。

 帆影は納得したのかしていないのか、あるいは話を咀嚼そしゃく中なのか、生真面目な顔をして僕を見ている。

 文芸部で隣り合って座っている時と、距離はそう変わらない。でも、同じベッドの上に座って、体操着の中で彼女の胸が微かに上下して、呼吸しているのが見て取れる。この狭い空間を、伝わってくる。

 また、帆影の手を握りたくなった。けれど、帆影は両手を腹の上に重ねていた。そこから取り出すわけにもいかない。

 だから。

「だから、僕が帆影と付き合いたいと思った理由は……よく解らない」

 言葉をほうった。さっき訊かれたことへの答え。

「見ていたいとか、話したいとか、理解わかりたい、とか…………さ、触りたいとか…………あと、読んでもらいたい、とか」

 あまりの気恥ずかしさに耐えきれず、目をそらした。その刹那に、帆影のが少し大きくなったような気がした。それこそ錯覚かもしれない。

「とにかく、混じって、どうしようもなくなって告白した。あの時、帆影は『よく解りませんが』って言ってたけど、僕も同じなのかも」

 昨日から今日にかけて帆影といろいろ話して、好きってなんなのか、恋ってなんのなのか、以前にも増して解らなくなった。なんか性別の話とか、どうでもよくなった気もする。

 ただ、僕は帆影に強く惹かれている。これは間違いない事実だと信じられる。

 言えることは言ってしまったので言葉が切れた。帆影からの返事は返ってこない。あまりのアバウトさに呆れてしまったのか、単に返すべき言葉がないのか……

 今度は沈黙に耐えきれず、帆影に向き直る。目が合った。真っ直ぐに。帆影は急に振り向いた僕に驚いたらしく、その前にどんな顔をしていたのかは判らなかった。


「それは――」

「それでよければ――」


 次に発した僕と帆影の声は重なって、いち早く口をつぐんだのは帆影の方だった。だから、というわけでもないが、僕はそのまま言い切った。

「それでよければ……これからも、よろしくお願い……します」

 言っている途中で、すごく情けない再告白をしている気がして、声が尻すぼみになってしまった。我ながらダメダメだ。ダメダメな彼氏だ。

 恐る恐る帆影を見ると、彼女は息を吸ったところだった。体操着に包まれた胸がゆっくりせり上がって――それから、帆影にしては珍しいくらい大きな息を吐き出した。

 なにか、恐い物をやりすごしたような仕草に見えた。脚の痛みがぶり返したのかもしれない。

 そんな帆影が、いつも通り小さく唇を開く。

「はい……よろしくお願いします」

 粉雪が溶けるような、張りのない声だけど、聴き取りづらくもない。少なくとも僕の耳は聞き逃さないその声に、僕は胸を撫で下ろした。

 まずはフラれずに済んだようだ。

 帆影も、少し元気になったような気がする。表情が薄いのはいつものこととして、映に言われたことに悩んでいた時のようなうれいが消えている……と思う。

 怪我も、まだ痛そうだけど、先生に診てもらった上で軽いというなら、とりあえずは心配なさそうだ。帰るのが厳しそうだったら相談に乗りたいけど。

 その前に、帆影はそろそろ弁当を食べ始めないと昼休みが終わってしまう。棚に置いた弁当を渡そうと腰を上げて、ふと思い出す。

 不幸な誤解を繰り返さないよう、今度は念入りに言っておこう。

「帆影」

「はい」

 弁当を帆影に手渡しながら、先ほどの会話に追伸を付ける。

「さっきさ、いろいろ、したいことが混ざって告白したって言ったけど……」

「はい」

「帆影を痛めつけたり、傷付けたりするようなことをしたいとは思ってないから。絶対」

 なんで、こんな当たり前のことを強調しなきゃいけないんだろう……逆に怪しくなってる気もするが、全ては伊井坂が悪い。

 と、そこで、弁当の包みを開けていた帆影が、はしの入ったケースを落とした。落としたと言ってもベッドの端に転がっただけだが、怪我している帆影には取りづらそうだ。

「僕は、なんて言うか帆影に――」

 僕は言葉を続けながら箸ケースに手を伸ばして――気付く。同じようにケースへ手を伸ばそうと体を曲げた帆影とぶつかりそうになっていた。ぶつかりそうなくらい、顔が近い。

 互いの息で髪が揺れそうな、その距離。同じく驚きからか小さく開かれた薄い唇に目と意識を奪われながら、口の中に残っていた言葉がこぼれ落ちていく――

「優しく……する、から……」

「…………………………ぁ……」


 シャッ


 ――というのは、カーテンの引かれる音だった。

 僕と帆影の薄暗い世界は切り裂かれ、なに隠すことない光の世界へ瞬く間に呑み込まれる。

 反射的に見やると、カーテンを開いたのは見慣れた顔だった。保村先生ではない。

 後で聞いた話では、廊下でたまたま行き合った酒々井さんから帆影が怪我をした件を聞き、昨日の暴言を少しは反省しないでもなかったし、お見舞いくらいしておこうかと思ったのだという――

 つまりうちはゆだった。

 しかしその形相は、およそ先輩の見舞いに来た優等生のそれではない。

 千尋せんじんの谷底であさましくうごめく無脊椎動物を見下ろすような、冷たく軽蔑的な目で、この兄を見下ろしていた。

 僕は、ゆっくりと、中腰のまま帆影から距離を取り、それから毅然とした声を作ろうとした――

「っ…………っぁ映? ノックくらいしないと――」

「したけど。返事なかったから入ってきたんだけど」

 ……帆影に集中していたせいかカーテンのせいか、気付かなかったようだ。

 それから妹は、僕を見て、それから帆影――ぽかんとしていた――を見て、それからまた僕へ目を戻して、ただ一言、言った。

下衆げす

 そうか、この口調のことを「吐き捨てる」と描写するんだな。それはそれとして、せめて「ケツ」くらいで勘弁してほしかった。

 僕の頭が現実逃避している間にも、映はきびすを返してすたすたと歩き出し、あっと言う間に保健室を去っていた。ちゃんと戸を閉めていくあたりはさすが優等生だったが、その際に振り返ってこちらを見やった目は、ぷるぷると震えて、まるで沸騰しているかのようだった。

 …………一つの誤解が解けたと思ったら、また一つの誤解が生まれた。

 人生、そういうものなのかもしれない。

 溜息をついて振り返ると、帆影はまだ弁当に手を付けていなかった。僕と同じく映を見送っていたということもあるが、一番の理由は単純で、箸のケースをまだ僕が持ってしまっているからだった。

 今の流れでまたベッドに座る気にはならず――そろそろ保村先生も帰ってきそうだし――、立ったままケースを渡す。受け取った帆影は、僕を見上げてぽつりと言った。

「ままならないですね」

「ごめん。帆影まで変な風に思われただろうけど……後でちゃんと言い聞かせとくから」

「いえ……」

 そこで会話は途切れて、帆影はようやく弁当に取りかかった。

 前に聞いた話では、帆影の弁当は帆影と帆影のお祖母さんが二人で用意しているそうだ。全体的に古風と言うか、薄茶色いような色合いだけど、栄養のバランスを考えてかお年寄りは敬遠しそうな肉なんかもちゃんと入っている。

 なんとなく見入ってしまうその弁当に箸を入れて、帆影は一度、動きを止めた。それから僕を見て、目を弁当に戻して、呟いた。

「わたしも、いろいろですから」

「ん?」

 後になにか続くと思ったが、帆影はそれ以上なにも言わずに弁当を食べ始めた。


 結局、昼休みの終了間際まで先生の帰りを待って帆影に付き添っていた僕は、昼食を食べ損ねた。

 こうして、いろいろとぐちゃぐちゃな日々は続いていく。そんなところで。

 本日のライトノベルは、そっとページを閉じる。




The Hokage's L/RightNovel

Episode #4

We can't take off a blue hood.


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