第四話.色々殺し シーン2



「ホンっっっトにごめん、ハユユン!

 新刊があんまり面白かったから、感想を話し合う仲間が欲しかったんじゃよ……」

 僕とかげはゆが並んで卓に着き、対面に座った伊井いいさかがテーブルにひたいこすり付けて謝っていた。

 あの後、トンプソン機関銃もかくやの早口でなされた僕の釈明を、帆影はとした無表情で聞いて、それから「はぁ」と、やはり素っ気なくうなずいた。

 怒っているから無愛想になっている……のだったら解りやすいのだが、帆影はいつもこんな感じの女の子だ。活発で感情表現の激しい映とは正反対の性格をしている。

 ふわりと柔らかく、少しクセの付いた髪。うつむくと前髪に隠れる眠たげな目。顔立ちは整っていると思うけど、人によっては存在感に欠けると言うかもしれない。物腰がスローで静かなせいか、周囲の気配に沈み込むような印象があった。

 体付きの方も映とは対照的で、ほっそり伸びやかな映とは逆に、起伏の大きいプロポーションをしている。

 それが僕の恋人カノジヨ、帆影あゆむだ。

 二人だけの文芸部の片割れ。彼女はいつも通り僕の右隣に座り、伊井坂が映に謝り倒すのをぼけっとして聞いていた。僕が伊井坂に迫っていた(ように見えただろう)ことに怒っている様子はない。

 事情を解ってくれたから……ならいいのだが、そもそも気にならないのだとしたら少し寂しい。我ながら、身勝手すぎる感情を持て余す。

 ……いや、今は帆影のことより、映だ。

 昨夜ゆうべは初めて歌を聴いた戦闘種族の如くカルチャーショックを受け、僕に『英雄たちが一晩中 男殺しねん魔之地まのじごく』を預けた後、半泣きのまま寝込んでしまった妹。

 今朝は平気な顔をして、朝食も昨日の残り物の焼き鳥(タレ)と生卵を御飯茶碗にぶち込み、適当にかき混ぜて平らげていた。朝からダイエットなんてクソ食らえとでも言いたげな健啖けんたんぶりだが、あれで太った姿を見たことがないのだから、たぶん野犬のような本性を隠して優等生でい続けるのにカロリーを消費しているのだろう。

 今も、頭を下げ続ける伊井坂へ遠慮がちに手を振っていた。

「い、いいんですよ伊井坂先輩。ああいう内容だって知らなかったから、ちょっと驚いちゃっただけで……あと、そのハユユンて言うのやめて下さい」

 最後の一節だけ声がカミソリめいていたが、ともかくも伊井坂は顔を上げた。僕の説教が効いたのか眉をハの字にして、映の機嫌をうかがうような、殊勝な顔だ。

「でもハユユン、あの美にふける華麗な描写の数々に魂の在り方を翻弄されて泣いちゃったってシャケ先生が……」

 がッ!

 テーブルの下で僕の足が思いっきり踏まれた。言うまでもなく、左隣の妹の仕業だ。自分の弱みを外の人間に知られるのがそんなに我慢ならないのか。

 反射的に映を見やるが、こちらには視線もくれず善良そうに苦笑いしている。

「そんな……泣いてなんかないですって。なんで、そんなウソを言ったりしたんでしょうね、このあには」

 困ったように言いながらも僕の足の甲を踏みにじってきている。……なんでこんなリアルタイム二重人格みたいな妹に育ってしまったんだろう。

 伊井坂はまだ、この妹の凶暴な本性を知らない。僕への私刑には全く気付かず、映にゆるしをい続けた。

「あたしもね、これがニッチな趣味だというのは解ってるんだよ……でも、純粋にラノベを学びたいと言ってくれたハユユンなら、もしかしたら理解してくれるんじゃないかって……そんな、はかない希望にすがってしまったのだよ」

「え? ……あー……あぁ…………」

 そういえば、そんなだったっけ――と、続ける映の声が聞こえた気がした。

 もともと、この妹はオタク文化全般を激しく毛嫌いしている。そんな映が文芸部室を訪れるようになったのは、ライトノベルを書いてネットで発表していた親友を理解するためだった。

 最初に相談を受けたのは僕だが、ライトノベルにはあまり詳しくなかったので、隣の漫画研究会に所属しライトノベルも読み込んでいる伊井坂に助言を求めたのだ。

 そんな行きがかりから、伊井坂は映が本当はオタク嫌いであることは知らず、ただ純粋にライトノベルに関心のあるビギナーオタクだと思い込んでいる。

 問題となった映とその親友とのトラブルは、なんやかやあって解決した。なのに映は、数日に一度は文芸部室に顔を見せる。それはたぶん惰性で、まぁ要するに暇なのだろう。

 あるいは、もしかすると、僕と帆影を二人きりにしたくないのかもしれない。相性の問題か、いもうと帆影カノジヨを苦手にしているようだから。

 押しの強いオタクである伊井坂も映の苦手なタイプではあるが、自分の嘘を疑いもせず信じている先輩を冷たくあしらえる妹でもなかった。

 遠慮がちに、こちらこそ……と頭を下げ、卓上の『英雄たちが一晩中』を見やる。

「ごめんなさい先輩、わたしにはこれ、ちょっと合わなかったかも……」

 お断りを入れつつも相手に悪印象を与えない、如才じょさいのない困り顔だった。中学時代はこのはにかみ顔で全校生徒をだまくらかし、圧倒的人気で二年連続生徒会長を務めたのだ。

 家での雑な生活ぶりを知っていると、未来の詐欺師さぎしのようにしか見えないが。

「ぅ~ム……ハユユンはBL嫌いかのぅ」

「いえ……同性愛はともかく、ええと……内容が前衛的すぎて……」

 ボーイズラブと同性愛は同一視していいのだろうか? ちょっとニュアンスが違う気もする。が、僕も詳しくないのでよく解らない。

 いずれにしても、あの本の問題はBLだからというものじゃないだろう。具体的に言うと、猫じゃらしのローション・フォンデュにまさかあんな使い方があったとは……――と、テーブルの上をながめて、ふと気付く。

 今回の罪体である文庫本が消えていた。

 反射的に部室中へ目をさまよわせるとすぐに見つかった。帆影が読み始めていたのだ。

 ――って!

「ダメだ帆影! そんな物を拾って読んじゃ!」

「そうだよ先輩! 早くペッペして!」

 僕に続いて映まで椅子を蹴って帆影を制止する。普段静かな部室に響き渡った大声に、本に目を落としていた帆影はびくっと肩を跳ねさせた。超然としているようで、こういう仕草は小動物めいている。

「ぅぅ……兄妹そろって、あたしの愛書を毒キノコかなにかみたいに……」

 無念げに両の拳を震わせる伊井坂はさておき、ゆっくりと僕の方を向いた帆影は、不思議そうに小首を傾げた。

「そんなに問題のある本なんですか?」

 帆影の物言いは、一応彼氏であるところの僕に対しても丁寧だ。と言うか、誰に対しても敬語で話す。相手によって態度を変えるのが面倒、という理由だという。

 そんなミもフタもないところがむしろ落ち着くくらいに、僕は帆影歩にらされてしまっている。

 僕と映が返答に困っている間に、伊井坂が目を輝かせてテーブルへ乗り出した。

帆影ホカちゃんっ! もしかしてBL……男子同士の愛に興味があるのかい!?」

「はぁ……『げつ物語(ものがたり)』の青あおきんの話などは興味深いと思います」

 帆影はとりあえず文庫本を閉じながら、ほんのかすか、熱を帯びたように答えた。他の人間には判らない程度の本当に小さな高揚なのだが、高校入学から一年以上も帆影を見続けてきた僕には判る。

 でもって、たぶん、この場合の「興味」は伊井坂の言う「興味」とはだいぶ意味が違う。いや、雨月物語とか読んだことないけど。伊井坂も知らないだろう。

 しかし伊井坂が詳しく話を聞こうとする前に、テーブルに頬杖を突いた映が、挑むような声を出した。

「それはちょっと意外ですね。帆影先輩のことだから、

『子供の産まれない恋愛なんて無意味です』

 とか、ロボットみたいなこと言い出すかと思いましたよ」

「おい映……」

 やはりと言うべきか、帆影に対する映の態度はむやみに攻撃的だ。果穂かほちゃん――映の親友だ――の件では帆影も解決に協力してくれたというのに、恩を仇で返す気か。

 映はとがめる僕の声をいつも通りに無視した。僕を挟んで座る帆影の方へ、ジトッと細めた半眼を向けている。

 帆影は帆影でこたえない。映の言葉を生真面目に受け止め、ふるふると首を横に振った。

「そんなことは言いません。むしろ同性同士の恋愛は、人類にとってとても合理的な習慣となるかもしれません」

 ――まただ。

 また帆影の発想の飛躍が始まった。

 何度かその突飛な思考を経験した映はおそれるような、あきれるような顔をしたが、僕は先をうながすように帆影を見つめた。

 なぜなら、こういう風に考えを膨らませて語る時、帆影はとても活き活きして見えるからだ。

「つまり『良いこと』ってことかい?」

 伊井坂にも勢い込んで訊かれて、帆影はこくんとうなずいた。

「はい。根本的な意味で、世界平和につながる道と言えるかもしれません」

「「「世界平和に」」」

 コーヒーに溶ける粉砂糖のように薄甘い声で宣言された、あまりに壮大な主張に、期せずして僕と映、伊井坂の声が重なる。

「どうして同性同士で恋をすると、世界平和につながるんだ?」

 映と伊井坂がどう反応していいか困っている中、二人よりは帆影に慣れている僕が聞き返す。帆影は僕に向き直って、始まりの数字を表すように指を一本立てて見せた。

「そもそも、戦争という行為はどうして生まれたのでしょう」

「どうしてって……」

 あごに手を当てて考えてみるが、咄嗟とっさには答えられない。そもそも戦争の定義から考えないといけないし、理由にしても複雑すぎて、

「一言で言えることなのか?」

 帆影は「はい」と、あっさりうなずく。すぐ隣に座っているので、さらりとそよいだ髪から良い匂いがした。

 帆影は本を読むことと同じくらいに風呂が好きで、朝風呂も欠かさないらしい。だからなのか、しよの迫る今の季節もいつも清潔なたたずまいだ。

 そんな物理的に清楚な彼女が、戦争の根本こんぽんを本当に一言で答えてくれた。


「セックスが、止まらないからです」


 …………………………

 僕も、映も、伊井坂も。

 どう反応していいか解らず、ただ硬まっていた。

 帆影が平気でこういうことを言うと解っている僕と伊井坂はともかく、映などは少しずつ頬を紅潮させていっている。

 そしてその赤い血が脳に達したか、ばんっ!とテーブルを叩いて帆影へ指を突き付けた。

「だから! どうしてそういう単語を平気で口にするんですか!? 男子もいるんですから、少しは恥じらいを持って言葉を選んで下さい!」

「性行為が、止まらないからです」

「素直に言い直されてもなんかムカッつく…………っー!」

 外面を取り繕うのも忘れてぶんぶんと拳を振り回して怒気を放熱しようとしている妹はいつものこととして、今日は伊井坂も珍しく帆影をたしなめた。

「ハユユンの言う通りだよホカちゃん。この男――」

 と、立てた親指で僕を示しながら、

「うっすい色の草だけ食べて生きてますって顔して、その実体はとんだサディスト野郎だよ。見たろ、さっきの追い込み。きっとホカちゃんにもよからぬことを考えてるぜ」

 とんでもない濡れ衣を着せてきた。

 帆影は絶句する僕に平板な視線を向け、「そうなんですか……?」と問いかけるように小さく首を傾かせる。

 僕は、あわてた。

「あれはただ、妹がセクハラで泣かされたから注意しただけって言うか――」

「泣いてないってば!」

「セクハラは酷くないかい!? あたしはただ、純粋な愛の物語をいっしょに楽しみたくてだねぇ……」

「いえ、あれは普通にセクハラでした」

「ええ…………」

 映と伊井坂はなおも言い合っていたが、この話題を引っ張りたくない僕は急いで話をレールに戻した。

「そ、それで帆影っ。どうしてセッ…………イ行為が戦争になるんだ?」

 帆影は少し、僕の顔を見ていたが、伊井坂の発言には特に触れず、質問に答えてくれた。

「人間には性衝動があります。無いと子供を作らず、滅びるのですから、当然あります」

 まぁ、それはそうだろう。

「人間のグループが性衝動に従って子供を作っていると、人数が増えます。人数が増えると、全滅しにくくなる代わりに多くの食料が必要になります。

 人数が少ない内は、動物や魚を狩ったり木の実を採っても、そうそう尽きることはありません」

 動物も植物も、人間と同じように繁殖して数を増やすから、元々の規模が人間を上回っていれば全滅することはなく、いずれは再配置リスポーンされるわけだ。そういうスポットを巡回することで、原始人たちは生きてきたのだろう。なんかロールプレイングゲームの素材集めみたいだ。

 僕が卑近な感覚で理解をする間にも、帆影の話は続く。

「ところが人間の数が増えすぎると、グループの行動半径の食料が足りなくなってしまいます。農耕や文明をひらくことで問題は緩和されますが、それでも結局、人が増え続ければ食べ物は足りなくなります」

 帆影の言わんとすることが、なんとなく解ってきた。

「増えた人間を養おうとすれば、さらなる採取・生産のための領域を得なければならなくなり、その候補地にすでに人間が住んでいれば争いになります。

 土地ごとに養える人数が決まっているなら、自分のグループ全員を生かすために他のグループの人数ないし密度を減らさなければならないからです」

 まごうことなき侵略戦争だ。しかし、帆影のように淡々と流れを説明されると、利己的ではあるけれど、いわゆる悪という概念以前の、なにか化学的なシステムのようにも思えてくる。

「そうならないように子供の数をしぼれないもんなのかね」

 伊井坂が素朴な疑問を口にした。帆影もまた、素朴に返した。

「人間には人生の大半の間、性欲がありますから。その強制力はなかなか強力です。

 子供を産む数を抑制と、その子供が死んでしまった時の危険が大きくなりすぎます。ちょっとしたアクシデントで家系が断絶してしまいますからね。

 遺伝子というのは冷淡なもので、絶滅のリスクを負うくらいなら、余るほど子供を増やした後で、余った分を処分するようにわたしたちを設計しています」

「処分って……」

 不穏当な表現に眉をひそめる映に、帆影はこともなげに答える。

「餓死や栄養不足での衰弱死、そして養いきれない赤ん坊を殺してしまうことです。産まれすぎた赤ん坊がそのまま死んでいく状況は、つい近世まで各国の大都市でも続いていたそうです」

「なんでそういうこと平気な顔で言えるんですか……?」

 映はうげっと喉を鳴らしそうな顔をして帆影に抗議した。薄気味悪そうな上目遣いで帆影を睨んでいる。

 映の言いたいことも解らないでもない。けれど、そういう風に、いろいろなものと距離を置いた話し方も帆影の個性だ。

 だからか、映の険しい視線を受けても帆影は動じず補足する。

「性教育の普及や、コンドームなどの避妊具が産業革命とともに世界中へ広まったこともあって、現代ではだいぶ状況が改善されていると言っていいでしょう」

「なんでそういうこと平気な顔で言えるんですか!?」

 映は一転、顔を赤くして平手で机を叩いた。コンドームくらい保健の授業で習う単語だろうに、こういう方面の話には妙にウブなところがある。

 それはさておき、僕にも帆影の言いたいことはおおむね解った気がした。

「つまり……以前に比べれば子供が死ににくくなっている現代なら、同性愛みたいに子供の産まれない恋愛も、むしろ人口にバランスをもたらすってことか?」

「そういやそんな話をしてたんだったね」

 伊井坂がポンッと手を打った。

「でもって、ヒトが資源の再生速度に対応した少なさになれば、戦争とかも起こらなくなるわけかい」


 人間には絶滅を回避するための強い性衝動がある。

 しかし人口が増えすぎると資源を巡って戦争が起きる。

 それなら、子供の生まれない恋愛で性衝動を満足させればいい。


 本当に、を見た理屈の上の話では、そうなるのだろうか。実際にはもっと雑多な要素が絡んで、そう単純な話にはならないだろうけど。

 BLや百合が世界平和につながる、という発想の意味は解った気がする。

 異性同士、男同士、女同士――その恋愛形態がバランス良く鼎立ていりつすることによって、性衝動を満足させつつ人を増やしすぎない均衡きんこうてん三分さんぶんけいが成るわけか。

「もちろん、急に出産が減ってしまうと前の世代を物理的・経済的に養うことができなくなったりするので、無責任に奨励するわけにもいきません。それによって生活水準や治安が悪くなっては本末転倒ですから。

 なまじ長寿の時代、一度増えてしまった人口を減らすのも大変です」

 聞きようによってはのろいめいたことを、心なし悩ましげに語ったところで、帆影の話は区切りが付いたようだった。

 しかし今回も、映がノックアウトされたBL小説からずいぶんと飛躍した展開になった。

 人類の設計上、性の欲求は抑えられないし、抑えられてしまうとしゆが絶える。しかし文明が発達し、死亡率が下がっていく中で自然の欲求に従えば、人の数が増えすぎて資源が不足する。そうなれば、弱い子供、老人から順に死んでいく。

 そうじゃなければ、戦争だ。もちろんその前段に諸々もろもろの政治はあるだろうが、究極的には自分のグループの数を保ち増やすために、他のグループの数を減らすことが求められる――求められて、しまうのだろう。

 避妊は効果的だろうが、そうそう徹底できるものではないし、育てられる環境がない者にほど知識や避妊具が行き届かないという悪循環もある。

 それらの認めがたい事情を認めた上で、人が幸福な生活を送りつつ人口の限界を超えないためには、愛欲の対象を同性に求める人が一定の割合に達すればいい…………………………

 そこまで考えて、頭を抱えてしまった。これは……この考え方は、倒錯している。

「帆影先輩は、やっぱりおかしいです」

 僕はびくりと背をすくめた。僕の考えをなぞったようなタイミングで映が口を開いたからだ。

 帆影は目顔だけで映に聞き返した。と言うと?

 映は席を立ち、僕の頭越しに帆影の静かな視線を見返す。

「人が人を好きになるっていうことを、そんな打算で話さないでください。

 先輩の言いようは、『子供ができないから同性愛はおかしい』と言ってるのと同じことです。ロボットみたいなこと、言っちゃってるじゃないですか」

「………………」

 帆影は答えなかった。返答を求められていないからかとも思ったが、帆影は、唇が微かに開いたまま固まっていた。

 いずれにせよ、映が続ける方が早かった。帆影がなにも反論しないことに焦れたようにも、見えた。

「異性にしろ同性にしろ、子供が増やせるから好きになるとか、子供の数を抑えられるから好きになるとか、そんな話はないんです。……いや、昔はどうだか知りませんけど、今はそんな時代じゃないはずですっ。

 その人といっしょに居たい、その人に幸せでいてほしい、その人と結ばれたいって、そういう……気持ちで、心で、恋をするんです。

 帆影先輩の言うことには、人間らしい意志や気持ちが全く感じられません!」

 長々と言って、映は息を切らしたようだった。そうでなければもっと言いたいことがあったかもしれない。

 帆影は、やはり答えない。無反応なようにも、ぽかんと呆れているようにも見える。

 代わりに、僕が口を開いた。

「落ち着け、映。

 帆影はお前が最初に言ったような『子供の産まれない恋愛は無意味』という意見は持ってないと言って、その通りのことを話しただけだ。帆影は意見のと言って、お前は意見のだと言ってる。話が噛み合ってない」

「そんなこと、解ってるけど……」

 本当に解っていたかは怪しいが、めんどくさいから信じたふりをしておいた。

「けど、じゃない。解ってるなら、帆影にからむんじゃない。先輩だぞ」

 反射的になにか言い返してきそうになった映の機先を取って、額にぺしっとチョップを入れる。

 映はおでこを押さえて息を詰まらせたような顔になって、パイプ椅子に座り直した。それから何秒かむっつりとしていたが、つと立って(ガタンッ)、鞄が床に置きっ放しなことに気付いてまた座って(ガタッ)、鞄を掴んで、また立ち上がった(ガタンッ)。

 そのまま、きッと刀を横薙ぎにするような一瞥いちべつを僕へ向け、

「用事を思い出したので帰ります。

 失礼します、先輩がた

 切り口上に言い捨てて、文芸部室から出ていってしまった。大きく反らせた小さな背中が、ぴしゃりと引き戸に遮断される。

 取り残された二年生せんぱい三人みたり、しばし無言でそれを見送って。

「いかんなぁ、オニイチャン。カノジョばっか贔屓ひいきして。ハユユン拗ねちゃったじゃん」

 いかんと言いつつ、伊井坂はにやにやと口のを笑わせていた。

「別に。いえの中じゃ、いつもあんな感じだよ」

 自然と溜息が出る。あんなかんしやくだまでもクラスでは落ち着いて頼りがいのある美少女で通っている――少なくとも中学ではそうだった――というのだから、ある意味、我が妹は大変な努力家と言えるだろう。そこは積極的に評価したい。パッとしないオタクの兄とは大違いの、出来た妹だ。

 その出来たところを帆影にも向けてくれれば、僕の生活も落ち着きそうなものなのだが。

「……帆影もごめんな。映の奴が好き放題言って」

「いえ」

 帆影は小さくかぶりを振って、自分の膝の方向へ吐息を落とした。音のしない、薄くてむなしいような息だった。

「わたしが、妹さんの言いたいことを解らなかっただけです」

 帆影が机を見つめていたのは、それから数秒のことで。

 おもむろに手を伸ばして『英雄たちが一晩中 男殺し粘魔之地獄』を読み出そうとする彼女の腕を、僕はそっと押さえた。


        ◇


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る