第2話日常から逸脱した、非日常と呼ぶには遠い何か

 「こんな時間になんであいつから」

 藤崎とは高校の頃、同じテニス部だった頃の付き合いだ。基本的に何でもそつなくこなす彼女は、その有無をいわせぬような雰囲気が不幸を呼んで、その頃から異性との関係が良好でなかった。最近に至るまで、よく彼女の相談にのってやっていたが、今更なんの用だろう。この間の年上男性とのいざこざは、とうに解決した筈だが、まさかもう新しい問題を抱えているとでもいうのだろうか。

 「もしもし」

 警察がいれば、俺は即サイレンの餌食になることだろう。だが、車を止める気にはならなかった。まだ、先ほどの決意は残っている。携帯片手に運転していた成人男性が、運転操作を誤り死亡、うん、中々それらしい死に方ではないか。大袈裟でもなく、すぐに忘れ去られそうな理想の死に方だ。

 携帯から、落ち着いた声が発せられる。向こうもいった、もしもし、と。

 「一体この時間になんの用だ、また問題か?」

 「いえ、今回はその」

 「なんだ」

 沈黙。相当な用があったからこその電話なんだよな、と俺は不思議に思った。自分からかけておいて、すぐに黙りはないだろう。せめて言いづらいことなら事前に頭の中で纏め上げておくべきだ。

 「あのなー、こっちは運転中なんだが」

 「ごめんなさい、すぐに済むことだわ。お願いだから電話を切らないで」

 携帯越しに、藤崎の激しい動悸が聞こえた気がした。理由は分からないが、切羽詰まっている、のだろうか。

 「大丈夫か、少し落ち着けよ」

 俺がそういうと、藤崎は、え、ええ、といって深呼吸を何度か繰り返した。やがて落ち着いたのか、ゆっくりとだが話し始める。

 「私が初めて男性と交際した時のこと覚えてる?」

 「ああ、小森純だったな。俺の親友の」

 「あれ、嘘なの」

 「はあ!?」

 いやいや、ちょっと待て。衝撃的過ぎて全く持って頭が追いつかない。あいつは今なんといったんだ。

 「待て待て、いきなり過ぎる。ちゃんと説明してくれないか?」

 「えっとね、実は私別の好きな人がいて、その人に近付くために小森君に協力して貰ってたの」

 「あー、確かにお人好しのあいつなら請け負いそうだな。でもなんでそんな回りくどいことを?直接告白でもしちまえば良かったのに。お前の面ならイチコロだと思うぜ?大抵の男なら」

 「本気でいってる?」

 あれ、なんか怒らせたか。こいつ怒らせると面倒なんだよな。

 「あー、すまない」

 「なにについて謝ってるの?」

 「怒らせたことについて?」

 「なんで疑問系なのよ、絶対分かってないでしょ」

 俗に言う、女性と付き合う上での絶対ルールか。女性を怒らせた場合、女性の気を損なわせずに、女性の繊細な心を読み解かなければならないという。

 ため息は、喉の奥で制止させた。もしここで吐き出してしまえば、更に面倒なことになる。

 「流石に長時間電話はまずい、早く本題に入ってくれないか?」

 俺は露骨に話を逸らした。きっと、このことに関して後で再度突っ込まれるだろうが、まあ、その時はその時だ。

 幸い、藤崎はそんな俺の考えも知らず、少し焦ったように、咳払いで無理矢理空気を変えた。

 「ここまでいえば、分かるわよね」

 「だーかーら、何が?」

 「この間の相談も、その前の相談も、その前の前の相談も、嘘って事よ」

 「いやいやいや、じゃあ今までのお前に付き合ってきた時間は何だったんだよ!?俺は何のために相談のってやってたんだ?」

 そこまでいった時に、さっきいっていたこいつの、本命の存在、ってやつがちらついた。まさか、俺は駒にされていたのだろうか。本命に近付くために。

 ああ、なんだろう。そう考えたら余計死にたくなってきた。俺、藤崎のこと好きだった面もあったしな。よくあるやつだ、最初はただの親切だったものが、だんだんとエスカレートして本気になってしまう。相談、は俺と藤崎を唯一繋げてくれるワードだったのだ。勿論、その頃は本気で藤崎に男がいると思っていたから、隙を伺っていたのだが、こうも簡単に裏切られるなんて、やはり俺はツイテナイ。

 ハンドルには、俺の手のひらの跡が染み着いていた。絶え間なく衝撃が襲いかかってきたせいで、全身も湿っぽかった。

 俺はぬめりがあるハンドルにうなだれた。決意は固まった。俺はこのまま壁にめり込んでその一部になろう。そうして今朝のニュースに取り上げられて、その無様な様を藤崎にお見舞いしてやるのだ。お前のせいで一人の男が亡くなったんだぞ、と。

 「勿論、本命のためだよ。健君」

 「だよなー」

 「んーと、もしかして伝わってない?」

 「十分伝わったっての。もうお腹一杯だ」

 「嘘、絶対伝わってない」

 なんなんだこの女は、なんて思っていると、電話越しに、すうっと空気を吸い込むような音が聞こえた。俺はてっきりでかい声で何か叫ぶのか、と思い、少し携帯電話を耳から遠ざける。

 「わ、わたしは、あなたのことが、すき、だ、です」

 「あれ、ごめんよく聞こえなかった。もう一回たの、」

 携帯電話から雑音が一切止んだ。俺は不振に思い画面を覗くが、そこにはただただ目の前の景色と同じ暗黒があるだけだった。

 俺は携帯電話を助手席に放り投げる。そして再度、ハンドルにうなだれた。しかし、今度はさっきのような感情ではない。実際、俺は少しニヤケていたかもしれない。

 「ばかやろう、あんだけ声張りゃ流石に聞こえるよ」

 心が浮き立つのを感じた。ふわふわと浮かんで、そして車の天井にぶつかっては、何度も俺の胸に帰ってくる。

 なんだよ、悪いことばかりじゃないじゃないか、人生。

 壊したくなかった日常が、壊れてしまった。だが、悪い気は一切しない。むしろ良い、と思う。あれだけ待ちこがれた女性に告白されるなんて、夢にも思わなかったからだ。

 だがなんだろう、この無気力感。さっきから感じている浮遊感。

 俺の中で、もう一つの思考が俺に何かを諭そうとしている。そいつはさっきまで抱えていたネガティブな心だった。

 お陰で、死ねなくなった。死ぬ動機を失った。

 でもその声を聞いて俺はこうも思った。ああ、結局依然として俺は、他人に手綱を握って貰わなければ行動出来ないんじゃないか、と。

 自分の意志で最後を迎えようと俺はしていた。それが自分なりの死の理想だった。だが、こんなにも発展した世の中で、完璧に自分の意志だ、と呼べるものが幾つあるのだろう。人は移り変わる。その日その日の人との僅かな接点が、俺らの思考を数ミリ程度歪ませてしまう。そしてその歪んだ意志や思想を、自分だけで作り上げてきたものだと錯覚して、人はどんどん鈍感な大人になっていってしまう。

 俺が藤崎を想うこの気持ちは、一体誰の意志だろう。自分の意志であることを仮定するなら、じゃあ誰に変化させられたものだろう。いや、答えはもう分かり切っているか。

 思い返せば、藤崎の俺に対する接し方というものは、ただの友達からはほんの少し逸脱したものだった気がする。些細なやり取りも、電車内での距離感も。そうした藤崎の想いに感化されて、俺も藤崎を好きになっていたのではないだろうか。まあ、もし本当に藤崎があの頃から嘘をつきまくっていたのなら、だが。

 ノズルで調整したはずの温度が、今度は逆に寒くなっていることに気が付いた。しっかり前を見据えれば、若干の日の出と、若干の粉雪。ああ、しっかり今年もこの地に降り立った。俺と同じ、嫌われ者の冷たい奴。明日になったら次は一体どんな景色を見せてくれるのだろうか。実に楽しみだ。

 カーブミラーからは、薄く引き延ばされた雪の絨毯に、早速つけられた俺の愛車のタイヤ痕が、永遠と真っ直ぐに敷かれていっているさまが確認できた。

 今日の日の出は、明るかった。それは雪が光を増幅させたからだろうか、それとも、君のせいだろうか、藤崎。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の申し子 碧木 愁 @aoki_39

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ