雪の申し子
碧木 愁
第1話車中
十二月の中盤に差し掛かった早朝四時、今にでも蓋をしてしまいそうな自身の瞼を必死に堪えながら、俺は旧四号線をひたすらに真っ直ぐ進んでいた。車中は先ほどまで飲んでいたエナジードリンクの危ない香りが残っている。もう残りはない、空だ。
俺は、まずいな、と思った。
眠気を覚ますために買ったエナジードリンクが、体に浸透する前に飲み終えてしまうなんて、今この時間はどう睡魔と戦えばいいのだろう。少なからず、運転をしながら、ホルダーに置かれたドリンクを口に運ぶ作業事態が、俺にとって立派な睡魔を誤魔化す運動になっていた。だから、この無の時間がより厳しい。人間、なにもない時間が一番苦手なのである。
何故だか最近は全てにやる気が起きない、そう考えた時、俺は今年、雪が一切降っていなかった事に気が付いた。冬の代名詞ともいえるそいつと遭遇せずに、もうすぐ世はクリスマスを迎える訳だが、世間は全く気にしていないらしい。まあ、気持ちは分かる。大人になって、雪とは新鮮なものから、鬱陶しいものへと自然に変貌を遂げる。例えば、車を持っている人はタイヤをスタットレスに変えなければいけないし、北に住まう人々になると、毎朝出勤前に雪かきをしなければならない。そういった子供の頃には気にもしなかった手間が、俺らから感動を遠ざけた。きっと、こうして様々なことから鈍くなっていくのだな、と俺は思う。身近に訪れた奇跡を、人はいつの間にか日常の一部へとすり替えてしまう。子供と違って、俺らは記憶力があがって、代わりに感受性が下がったのだから、致し方ないといえば、致し方ないが。
俺は雪が好きだ、理由は町から人が消えるから。そう、具体的には雪の降り注ぐ夜中が好きなのだ。しんと研ぎ澄まされた空気の中、自分が雪で出来た床を踏み抜く音を聞くのが、快感に感じた。この町を支配出来たかのような気がしたからだ。目に映る者も、自分が放つ以外の音も聞こえない、自分のみが取り残された空間を演じてくれるから、雪は好きだ。
だが、今年は降らなかった。毎年最低一回は降って地上の生き物を困らせる癖に、今回は訪れなかった。そして、残り僅かの期間も雪が降ることはないと、何故か俺は感じていた。何故だかは分からない。でも敢えていうなら、これは多分嫉妬だ。雪が降ると期待しながら十二月を迎えたのに、その期待を裏切られたことによる自棄、願望。
俺は少しノズルを捻り、温度を下げた。暖房が利きすぎていて、頬が熱を持っている。
外は依然として、ただただ景色が後ろへと飛ばされていくのみだ。何の面白味もなく、俺になにを伝える訳でもなく、ただ過ぎていく。
ああ、違う。俺が勝手に過ぎ去ってしまっているんだ。
思えば、俺は昔からこの車のようだったかもしれない。勝手に他人に期待して、そして他人が期待に応える間も与えずに見限って、それを他人が自分を見捨てたかのように感じて、人が嫌いになって。そんなことを繰り返していったら、いつの間にか車を運転して運転して、飽きるほど、いや、飽きてしまっていることにも気付かないぐらいの月日が経って、今は十二月の早朝とも呼ぶ深夜を一人、寂しく走っている。
俺は思った。ああ、冬で良かった、と。
もしこれが夏だったら、四時には太陽が昇り始めて、見たくもない感じたくもない夜明けを目の当たりにしなければならなくなる。
太陽は嫌いだ。理由は眩しすぎるから。
俺は生まれてこの方、陰湿な道をずっと歩んできた。それは時を経て少しずつ変化していってはいるが、現状特に大きな変化はなく、ずっとほぼ平行線上の毎日を送っている。
俺はふと、母のことを思った。母は不倫相手と元気にしているだろうか。今日も町外れの目立たないラブホテルで、甘美な一夜を過ごしているのだろうか。俺が二十代を越えるまで、何回も相手は変わったが、その行為自体は一切変わっていない。だが、俺はこのことについて、不思議なほど何も思っていない。むしろ、どこか安心してしまっている自分がいる。どこの家庭にも、生活のリズムがある。星のように順繰り回る日常がある。幼い頃からこうだった俺の家庭は、もはやこれがなければ自分の家庭と思えなくなるほどには、もう既に日常となってしまったのだ。それが例え悪いことだと理解していても、元からある何かを無くすなんて俺はごめんだ。悪いものだと思って取り除いたものが、その他全てを破滅に巻き込むことだって有り得るからだ。例えば俺の家庭でいうなら、俺がこの母の不倫を家庭にバラしてしまえば、確実に家庭は破滅してしまう。母の不倫に気付くこともない、飲んだくれの父も、最近暴走族の彼氏にハマっている姉も、もういつも通りに会うことは出来なくなるのである。
ああ、なるほど、俺って空っぽなんだな、と思った。
今初めて気が付いた。気が付いていない振りから始まって、無視をするように自分を騙して、それでも抱えきれないから仕方なしに妥協して、俺は結局、自分の意志では今まで何もしてこなかったんだ。
ただ、自分を守ろうとする人間的な本能に身を任せていただけ。
真っ直ぐに進むだけの旧四号線。一向に光りさすようなことがないこの道を走っていると、まるで滑り台に乗って、そのまま暗黒渦めく大穴へと滑り落ちていってしまっているかのように感じる。実際、俺の心には徐々に闇が覆い被さってきている。
このままハンドルを横に切ったら、俺はきっと死ぬ。左右の側溝の向こう側には、家や見慣れたラーメン屋、そして明かりが消えて不気味さを帯びた、スーパーがある。それらにぶつかる様子を想像してみた。垂直に地面から生えた真っ白いそれら壁に、めり込む自分の愛車と、その破片で歪に変化させられた、自分のミイラのような顔。そしてそこからあふれ出す深紅の液体と、耐え難い匂いを放つ排泄物。
そんな最後もありだろうか。大して今まで人に迷惑なんてかけたことなんてなかった。それどころか、笑顔で泥仕事を請け負うことの方が多かった。人様に尽くしてきたのだ、最後ぐらい自分の意志で決めても罰は下らないだろう。
そう考えていたら、急にハンドルが重く感じた。真っ直ぐにしか進めないように接続部分を固定されてしまったかのように、びくともしない。ハンドルを握る両手は、微かに汗で湿っていた。
決断を渋っていると、俺の右ポケットが僅かに振動していることに気が付いた。携帯が鳴っている、誰かが電話でもかけてきたのだろう。俺は車を停車させることもせず、そのまま携帯を取り出し、相手を確認した。画面には、藤崎、と表示されている。
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