12/29/2021
年末年始の門土みかどは多忙である。
伝統やしきたりを重んじる職業がら、あいさつ回りの類が多く、大掃除など正月を迎える準備も入念にするためのんびり遊ぶ暇もないのだそうだ。
よって冬休みの間はめったに遭わないのが常態である。みかどなるめんどくさい女と知り合いになった数年間はそれに不自由を感じた覚えもない。
おせちを抱えてやってきたみかどを家に招き入れ、国民的番組をともに視聴したのちに日付が変わると初詣に出かけるという、去年の大晦日から今年の元日に向けての過ごし方が数年のつきあいにわたる中での唯一の例外だった。
はてさて今年はどうしたものか。来年以降数年は会えないことになるというなら去年のように初詣にでも行ってやった方がいいのだろうか――。
そのように考えた直後に湧き上がる、なぜにどうして自分がみかどのために別れを惜しんでやるようなことをしなければならないのかと、逆ギレめいた気持ちを持て余している間にクリスマスは過ぎていた。癪に触ってしかたがないので自分からみかどに連絡をとることを禁じていた。禁じなくてもわざわざみかどに会って話したい要件などは特になかった。
なんだか楽しそうだからという家族全体のノリでフライドチキンとケーキを食べてサンタの存在が半信半疑な央太の枕元にプレゼント置き、日向子には自力で買うには少し難しい欲しいものを直接手渡してもらう程度のクリスマスは行う火崎家だが、大掃除におせちにお雑煮にといった年末年始に纏わる風物詩的な行事は「面倒」「
高等部への内部進学も決まっている日向子は受験勉強からも解放されていた。まるでやることのない冬休み、世間の空気に触発されて大掃除でもやる気になっているところへ珍しくスマホに着信が入る。今から会えないかというメッセージが入っていたが、送信主はみかどではなかった。
メッセージの送り主と学校外で会うのは久しぶりだ。一瞬気まずさを覚えたが、日向子は出かけることにした。大掃除よりは数少ない友達としゃべる方が楽しい時間を過ごせるだろう。
たとえ日向子には理解しがたい趣味を持つ友人だったとしても、だ。
「門土さん、春には異世界に行くんだって?」
シネコンを併設した大型ショッピングモール内のカフェで、烏丸ヒカルは開口一番にそう尋ねてくる。
シンプルなニットに細身のパンツに……という一見何気ない装いでモール内の英国風を気取るカフェのテーブルについているだけなのに自分の周辺だけを雑誌のグラビアかなにかのように変えてしまうという、彼の次元を超越したような美しさに磨きがかかっていた。が、開口一番まずそれか! という思いから日向子は目を半眼にしてしまう。
「なんでそのこと知ってんの? それにそれって休み中にわざわざ人呼び出してまで訊くこと? それって?」
「ごめんごめん。でも、火崎さんには他にお願いしたいことがあったから」
「そのために私の家の近くにあるモールまで来たの? 烏丸くんが親切なのは知ってるけどそういうのはだからちょっと――」
「ここまできたのは観たい映画があったからだよ。ここの近辺じゃここのシネコンしか上映しないようだったから」
「――どうせセーラー服の女子二人が眠たくなるようなことを言いながら学校の屋上で寝っ転がって青空でも見上げるようなやつでしょ?」
ヒカルはきれいに微笑みながら黙ってティーポットから紅茶を注いだ。図星なのだろう。日向子はなんとなくむしゃくしゃする。
「烏丸君の好きなジャンルに限った話じゃないけど、学校の屋上って普通出入りできないよね? うちの学校だってそうだし。だのにどうして映画やドラマだと当たり前に出入りしてるんだろうね」
「リアリズムの追求もいいけれどそれだけじゃ表現できない世界があるんだよ」
クラスが変わって以降、しばらくぶりにあった元交際相手は会わない期間に美貌とともに美意識にも磨きをかけていたようだった。そうやってけむに巻く。それに鼻白みながら、日向子は尋ねた。
「なんでみかどが異世界に行くこと知ってるの?」
「あおい姉さんから聞いたんだ。――門土さんとは一緒に進学できると思っていたみたいだから随分ショックを受けていて――かける言葉もなかったよ」
「――うわあ……」
ちょうどいいタイミングでウェイトレスのお姉さんが持ってきた紅茶のカップを一旦ソーサーの上に下ろし、日向子は頭を抱えた。
烏丸ヒカルの従姉でみかどとは同学年になる高等部の女子生徒、紫竹あおい。品行方正で眉目秀麗、家柄もよくたおやかで優しく学業の成績も優秀なうえに前世は異世界で世界を救ったこともあるお姫様だったという特殊な記憶まで有するパーフェクトなプリンセスでもある彼女はなぜか、同じ前世の記憶を有する仲間として門土みかどの世話をやきたがるという悪癖を持つ人でもあった。
罵られても鬱陶しがられても、どれだけ邪険にされても、持ち前の美しく気高い志からみかどの暗くすさんだ心に一条の光を届けるのをやめようとしないその不屈の姿はまさしく世界を救ったプリンセスの魂の継承者らしき気高いものではあった。しかし、蔑まれて嘲られ恐れられた上に壮絶な死に方をした前世の悲惨な体験からみかどはプリンセスと呼ばれる人種をとにかく憎んで毛嫌いすることにかけては人後に落ちない女子であったところから悲劇は生まれた(ちなみにみかどにそれほどのプリンセスコンプレックスを植え付けたのは日向子の母のマーリエンヌである)。
かつては高等部一のあこがれの存在だったのに、みかど等という厄介な女子につれなくされても構い続ける姿を目撃されるうちに「特定の女子に入れ込んで振られるのに陶酔するマゾっ気のある女子生徒」という悲しくもやや滑稽なキャラクターを背負ってしまうポジションの人に、紫竹あおいは転落してしまったのである。
紫竹あおいの典雅な美しさに心惹かれていたこともある日向子にとってはそれが辛いわ悲しいわで何度となくみかどに鉄拳制裁を加え、みかどとのつきあいには注意しろとあおいに忠告しつづけた。にもかかわらず、二人の関係は全く変化しなかった。みかどはあおいにつれないし、あおいはみかどにつれなくされてもお構いなしに付きまといたがった。
というよりも、皆が言う通りあおいはみかどにつれなくされるのを楽しんでるんじゃないかという疑惑を封じるのが頑丈すぎるが故に繊細さに欠く精神を有する日向子ですら難しくなり、徐々に二人の関係を修正しようとするのを諦めた。
そうして、みかどにあおいが一方的にくっつく形で高等部の校舎や中庭を行き来する様子を教室の窓から眺めながら「これでよかったのだ」と言い聞かせながらちくちく傷む胸を慰める(そしてそれを烏丸ヒカルが観察する)というのが、日向子の中等部二年在籍次の主な過ごし方であった。
そんな日々も過去のものになったかと思ったのに、あおいが強いショックを受けたという報を聞くとやっぱりみかどに説教したい気持ちが一気にふくれあがるのである。
「あいつは本当に……! いくらプリンセスが嫌いだからって飽きもせずあおいさんにしつこい意地悪をする……!」
「そういう形でしか門土さんはあおい姉さんへの感情を表現できない、とか?」
「烏丸君、いいかげんみかどにそんな美意識と文学映えするような高度な感情を期待するだけ無駄って学習しなよ? みかどはね、単にプリンセスが嫌いで性格がねじ曲がってて卑屈で恨み言が多くてめんどくさいやつってだけだよ」
あおいに辛く当たるみかどをツケツケと批判する日向子をどこか楽しげに見つめるヒカルの様子が腹立たしい。サラサラの髪に覆われたヒカルの頭の中にあるかなり優秀な部類であるはずの脳みそは、どういうわけか日向子が日頃口するみかどへの批評や批判をある種の甘い言葉に変換するという日向子からすればバグとしか言えないものに汚染されていた。厄介なのはヒカルにとってそのバグこそが人として生きる為に不可欠な魂を駆動させる何かである、という点だった。
そのせいでヒカルの美の世界に対して何度となく苦情を伝える羽目にはなっても徹底的に批判しつくす闘争心は失せてしまうのだ。こちらに迷惑をかけないなら勝手にしろ、というスタンスを取るようになってはや二年である。
それにしても、あおいがみかどの進路を知って元気を無くしているという状況は穏やかではない。紅茶のカップに口をつけながら、振り返りもしないで先を歩くみかどの後ろを楚々とした足取りでついて行くあおいという、学校でよく目撃した二人の姿を頭の中に思い浮かべて日向子は呟いてみた。
「──あおいさん、みかどの遊学についていったらどうかな?」
「どうしてそう思うの?」
ヒカルは微笑んで日向子に根拠を口にするようやんわりと仕掛ける。二年ほど経って日向子の知らない交友関係も増えたせいか、ヒカルの振る舞いにはそういった余裕めいたものが目立つようになった。優れた容色がそれを後押しするのだからやってられない。
小癪だなあ、みかどに三日間路傍の石にさせられてた癖に……と日向子は鼻じろみつつも語った。
「そこまでショック受けるなら一緒に二人旅でもした方がいいんじゃない? ってだけの話だよ。みかどは当然嫌がるだろうけれど思いやりだのなんだの人として当たり前の感情を育てる人生修養のいい機会になると思う」
「なるほど。画的には悪くないね」
「──この点だけは繰り返し言っておくけど、他人の人生のあれこれを画になるかならないかで判断するのは烏丸くんの良くない所だよ? そういうのは口に出さないで頭の中でだけで収めといて」
日向子が何度も刺してきた釘にヒカルは苦笑しながら、気をつけるよ、と応える。
でもこれこそヒカルを生かすバグの作用なのでなかなか修正が効かないものがあるらしい。だから言った端からこのようなことを白状するようなことを口にしてしまう。
「でも、火崎さんと門土さんの二人旅なら楽しいだろうなって想像するのはやめられない」
「うん、だからね、そういうのは頭の中にだけ留めておいて。馬鹿正直に教えてくれなくていいから」
「ごめん。──火崎さんは普通に高等部に進むんだよね?」
「進むよ? でないとなんのために必死になって中学受験したのかわかんないし。行くならうちの親のこともあるから異世界絡みの勉強が出来るところがいいんだ。あの時何があったのか知りたいし、それに異世界絡みのトラブルはこれからもっと増えてくる筈だから架け橋的な何かになれたらって思う」
塞の山トンネルの向こうで勃発した長い戦争から逃れるようにやってきた無数の人々。こちらの世界で待っていればいつか戦争も終わるだろう、それだけを胸になれない土地で必至に暮らしていた人たちの希望を根こそぎ奪ったのがちょうど一年前に起きたあの不可解な大事故だ。ドラ曰く、今までよく見知った隣人が住んでいた家が、外見はそのままに住民や家具や部屋の間取りまである日を境に一切合切全て変わってしまったような、そんな事態が起きたのだ。
ドラ、そして日向子の両親が塞の山トンネルの件に関わっているためポロポロと情報はこぼれ落ちてくるがそれすらトンネルの向こうで何が起きてるのかを知るには十分ではない。まして心から故郷の情報を求めているはずの人々には一切が伏せられている。
日向子の至って明確で単純で剛直な正義感が、それはおかしい、間違っていると叫ぶのである。
ただでさえ困難な状況にいる人々にさらなる困難を強いるだなんて、この世界の住民として恥ずかしいではないか。
何の力ももたないが、私は勇者と異世界の姫巫女の娘として恥ずかしいマネだけはしたくない。
それが日向子の考えであり、それを語っても笑ったり茶化したり口を挟んだりすることなくまっすぐ耳を傾けられるのが烏丸ヒカルという少年である。
他人の夢や希望を否定しない、それを語る人を馬鹿にしない。不思議な美意識には戸惑うが、ヒカルのこういう気性は好ましいと日向子は感じていた。故に友だちづきあいは切らずに維持している。
「じゃあそのままうちの大学に進むんだ?」
「今の所はね」
日向子の通っている学校の母胎である大学は、今世紀が始まってすぐに異世界学科を立ち上げたという点のみで全国に名を轟かせている。地方の私学だが異世界研究に関しては未だに泰斗といってよい地位を誇っているのだ。最近では王立魔法学院という異世界の名門校とも提携を結ぶようになり、いよいよ力を入れてる感がある。異世界としての「ジャンル」にはそれだけの伸び代があると見られているのだろう。
「烏丸君は高等部のその先はどうするの?」
「僕は、そうだな。おそらく別の大学を受験するんじゃないかな?」
そう言って全国的に有名な大学をいくつかあげてみせた。日向子はそれをふーんと聞き、ヒカルもそれを淡々と受け止める。
「そういう有名な大学が進学先に上がってくる所がやっぱり烏丸君だね。私の中じゃそういう所ってテレビの中でしか聞かないような所っていうか、異世界よりも異世界だ」
素朴に感心したので素朴にその感情を伝える。ヒカルは品良く謝意を伝えた。それでその話題は終わった。
「──所で、私にお願いしたい用事ってなんなの?」
「ああ、そのことなんだけど──」
ヒカルはやや真剣な顔つきになり、自分が発表している小説の感想を聞かせてくれないかと率直に頼んできた。それを聞いて日向子は紅茶を噴き出しそうになった。
ヒカルが己の美意識をぎゅう詰めに盛り込んだ小説をどこかのサイトに発表しているのは聞いていたが、読もうという気には全くならなかった。偶にふりかけられる美の一雫ですら戸惑うのにドバドバと滝のように浴びせかけられるのかと思うと猛禽の類のほか怖いもののない日向子も臆する。
「あのさ、烏丸君も分かってると思うけど私ほど烏丸君の書く世界からかけ離れているやつもいないよ? 小説の批評とかそういうのはもっと別の人に頼みなよ」
「分かってる。だからこそ火崎さんに頼みたい。火崎さんが途中で眠ることなく最後まで読めるものが書けたら僕は将来プロとしてやっていけるという自信を得ることができると思うんだ」
そう言ってヒカルは頭を下げた。
将来、プロ、という言葉に日向子は胸を打たれる。ヒカルはそれだけ本気で物を書くということに取り組んでいたのか、と、熱い感動のようなものが胸に轟く。それに協力してくれと頼まれている己に恍惚が押し寄せているのを自覚する。
だからこそ、日向子はすぐに冷静になった。文字や活字に接するのが嫌いではない日向子であったが読むならノンフィクションを好んだ。文芸や文学とは相性が悪いらしく途中で寝てしまうのである。ヒカル好みの本は素晴らしい睡眠導入剤だった。
その自覚があるので日向子はとにかく辞退しまくる。
「無理だよ。小説の感想って文章の良し悪しだとか構成がどうのとかってそういうのを伝えなきゃいけないんでしょ? 私がそういうこと出来るわけないし」
「さっきも言ったけど、僕がお願いしたいのは火崎さんには最後まで読んでもらうことなんだ。眠くなったらそこまででいい。僕の書くものがそれまでだったって話だ」
「いや、だから──」
ヒカルの本気と覚悟のほどはその張り詰めた表情で分かるが、だからこそ日向子は引き下がらねばならないという気持ち一色になる。
「そんな責任重大な役柄、私には背負いきれないって。私、烏丸君が好きそうな『考えるな、感じろ』みたいな世界が苦手だし──。始まってすぐ主人公の家族が殺されただとか拐われたとか、主人公が冤罪で捕まって牢屋に入れられたとか、そういうことが起きないと寝ちゃうし。あと派手なアクションと銃撃戦と爆発は欲しいってやつだから向いてないって。烏丸君の美意識の世界にアクションと爆発はないでしょ?」
小説ではなく好きなドラマや映画(主に警察やFBIや特殊部隊の戦闘員が登場し銃が出てきて画面が全体的に黒くメタリックなのが特徴)のパターンを述べて説得してみたが、ヒカルは生真面目にメモ帳を取り出してペンで何かを書きつけている。
どうしてヒカルは急に日向子好みなアクションでサスペンスなゴリゴリのエンターテイメントを書こうと志しているのかと戸惑ったその時、視界の片隅で銀色の塊が移動したのに気がつく。ヒカルの頭の向こう、オープンスタイルなカフェの中から見えるモールの通路に見えるそれが銀色の塊がプラチナを溶かしたような長い髪を持つ帰化した異世界人だと気付いて、日向子はあんぐり口を開いた。眩しい銀髪と金の瞳、そして尖った耳を持つ、まるでゲームか何かから抜け出たような美女は父の会社の古株社員で佐藤える子という。その隣にはおなじ社員で柔らかい雰囲気の黒髪のお姉さんもいる。彼女の名前は佐藤美里という。
佐藤さんカップルと火崎家は日向子が物心つくかつかないかのころから家族ぐるみの付き合いをしている。える子に至っては彼女が十代でこちらの世界に来て間もない頃には現在のドラのように火崎家でその身を預かっていたこともある。お陰で彼女らは日向子のことをよく知っていた。
浮世離れどころか地球離れした美貌にそぐわない荷物で膨らんだこのモールやモール内にあるベビー用品店のロゴの入った袋をいくつも肩から下げた銀髪のえる子は、日向子と目が合うなりニヤニヤと笑う。背後にいるアラサー女性カップルに気づいてないヒカルのことを指で示し、口をパクパクと動かす。「彼氏?」と尋ねたのだと理解して日向子はめいいっぱい首を左右に振った。ヒカルが一時期彼氏だった時期は確かにあったが大人たちがそれを知る前に無かったことになった。そうなって二年は経つのに今更誤解をされては困る。
しかしえる子の「皆まで言うな」な表情や、美里の微笑みから、二人が激しく勘違いをしてるのは明白だった。大荷物を抱えた二人はヒラヒラ手を振って歳末のモールを歩いてゆく。きっとスポットをくぐってえる子の故郷である異世界で年を越すのだ。
ぅあっちゃー、どうしよう。えっちゃん達が帰ってきたらすぐにでも誤解解かなきゃ……と、頭を抱える日向子に気がついてヒカルは手帳から顔を上げた。
どうかした? と尋ねられたのに、なんでもない、と答える。ヒカルはえる子と美里のことは知らない。自分は彼のイマジネーションの提供側ではないのだという思いから敢えて伏せているのだった。
日没前には歳末のバーゲンや買い出し客でごった返すモールを後にして帰宅した。
社員である佐藤姓カップルが異世界へ帰省ができるのは、日向子の父が営む異世界トラブルを請け負う会社が昨日仕事納めを迎えられた為である。よってこの年末年始は二年ぶりに両親がいる。
年が改まるからといって特別なことはしないことにしている火崎家ではあるが、零細とはいえ社長という立場である雄馬には切るわけにはいかない浮世のしがらみや縁というものがある。それらを維持する為に欠かせない「年賀状を書く」という呪術めいた作業に忙殺されていて別室に篭っていた。そんな父にも聞こえる声で、ただいまー、というと、おかえりー、と返事がある。 我が家はビーフシチューの匂いで満ちていた。
久しぶりに家にいるマーリエンヌはドラの指示に従ってリビングを片付けていた。去年の暮れは不可解な大事故で多忙を極めた両親も、今年は辛うじて無事に仕事納めを迎えられていることに安心はしているようだった。
モールで佐藤姓カップルとすれ違ったことをさりげなく伝えると、古い漫画雑誌を紐で縛りながらマーリエンヌは応えた。
「えっちゃんのお友達に三人目のお子さんが生まれたんですって。だからお祝いがてら今年は帰るってはりきってたわ。二人目ちゃんが生まれた時はトンネル事故で大変だったでしょう? だからどうしても今年は帰って直接チビちゃん達に会ってくるんだーってすごい勢いで美里ちゃんが呆れるくらいだったんだけど、写真見せてもらったんだけど、ほーんとに可愛いのよ〜。えっちゃんのお友達も旦那様も美男美女だから赤ちゃんなんてそりゃあもう──」
「ふーん、で、二人がこっちに帰るのいつ?」
「二日か三日じゃないかしら? それにしても本当にその赤ちゃん達が可愛くて可愛くて、妖精の国から来たみたいだからスマホの待ち受けにしちゃった。いいわねえやっぱり赤ちゃんて……」
「ママ、とりあえず個人情報の取り扱いには注意してよね」
マーリエンヌの作業の手はすぐに止まり、口ばかりがよく動く状態になる。
よし、とりあえず二日の夜に一度えっちゃんに連絡を取ってみるかと決意した日向子はえる子の友人である美男美女夫妻の赤ちゃんの愛らしさをひたすら絶賛するマーリエンヌの言葉をスルーした。
ドラは台所で鍋を煮詰めている。ビーフシチューの匂いの発生源はここのようだ。おたまを丁寧にかき回しながら、ドラは声を放った。
「ところで奥さん、あの姉さんに土産の一つも持たせたか?」
「──え、お土産……?」
「手前んとこで預かってる雇い人が里に帰るって時にゃあ土産の一つでも持たせるっつうのがおれのいた所での雇い主の習わしだったもんだからよう、つい出過ぎた口を叩いちまった。こっちにゃそういう習慣がねえっつうならそれでいいんだ。気にすんな」
「……ちょっとまってね、ドラちゃん」
いくつになっても、そしていくつもの魔王を倒して過酷な現実を目の当たりにしてきても損なわれない聖堂育ちのプリンセスらしいおっとりした顔に焦りを匂わせ、マーリエンヌは立ち上がる。そそくさと部屋を出る際にはスカートのポケットからスマホを取り出していた。きっと今頃、デキる奥様の美しいマナーや常識について調べているのだ。
日向子の見立ては正解だったらしく、しばらくして年賀状を書いてる雄馬に泣きつく声がする。
「ねえ、ユーマどうしよう〜! 私なんにも用意してなかった〜! ああっ、大事な娘の勤め先のボスの奥様は常識も知らない、あんなとこで働かせて大丈夫かってことになってたら……!」
「ああ、とりあえず饅頭買って渡しておいたから最低限の格好はつくだろ。帰ったらみっちゃんにお礼しろよ。える子の村は大らかで朗らかな人が多いけど念のため……って声かけてくれたんだから」
「! ありがとうユーマぁ、ありがとうみっちゃん〜、でも私あまりにも奥様として情けなくない? 私ったらどうしてこうなのかしら……」
マーリエンヌは別室でユーマにすがる声が廊下ごしに日向子の所まで響いた。娘としてはちょっと情けない母の有様だった。央太がコタツで寝ていたのが幸いだ。
魔王退治のプロとしての能力は図抜けているマーリエンヌだが、しかし実生活では家事その他の能力は人並み以下の正にポンコツだ。特に幼い頃から聖堂と呼ばれる宗教施設で姫巫女をやっていたとかでどの世界でも共通する円滑な社交に不可欠な常識も危うい所がある。そのくせこちらの世界に来てすぐマンガとネットとSNSにいち早く馴染む程度に俗気は強い。よく言えば天真爛漫な母親だった。
こたつでうたた寝している央太を除き、日向子はドラと二人きりになる。
なんとなく居心地の悪い日向子の心を、荒っぽくざっかけな言動に反して何についても聡い同居人の少女は見抜いたらしい。こちらに背を向けたまま、こう声をかけた。
「嬢さん、気にしなさんな。あんたの母ちゃんと父ちゃんは世界をいくつも護ってきた大した方々だ。常識の一つや二つ足んないことなんか瑕ですらねえ。胸張ってな」
「──それは、どうも、ありがとう」
うぐ、と言葉に詰まりながら日向子は答えた。
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