火崎日向子の最悪な年越し。

ピクルズジンジャー

12/23/2021

 附属の大学へは進学せず、数年ほど異世界を遊学するつもりである。


 門土みかどからそう聞かされた火崎日向子は言葉を失った。悔しいことに。


「明日からあんた一人になった時のことを考えとけよ」


 みかどは相変わらずスマホでセレブリティなプリンセスのアンチスレッドを覗きながら少し古い漫画を引用してそう言い、日向子も日向子でその漫画に登場するキャラクターのように危うく放心状態で数日過ごしそうになったがすんでのところで我に帰った。


「遊学っ、異世界をっ、なんでまたっ?」

「決まってんじゃん。トンネル開通してからこっちうちの外来業者にパイ食われっぱなしで青息吐息なんだから。外の世界の進んだ魔術呪術の研鑽でもつんどかなきゃねって考えるのが普通じゃないっすかぁ〜? そんなことも簡単なことも分からないんですかぁ〜? 文武両道の日向子ちゃんはぁ〜?」

「……あぁーハイハイ、要は岩倉使節団みたいなもんだね」

「うっわすぐに幕末用語で喩えてくるとかきんもー。偉人がイケメンになってるゲームやなんかに史実の知識でマウント取ってくる日本史オタ女みたいでうっざあー」

「るっさいなあ、つうかこんくらい普通に勉強してたらできる喩えじゃん! この程度でマウント取られたって被害者根性入る方がメンタル弱すぎじゃん!」


 ムカッとしていつものごとく言い返しはしたが、高等部を卒業すると異世界で研鑽を積むなどと真面目なことを言い出すみかどに日向子はショックを受けながら、立派な和風建築であるみかどの家をふらふらと後にした。


 冷静になればみかどがそのような進路を選ぶのはわかるのである。


 みかどはこの世界がなし崩しに異世界間交流を始まる以前、狐狸妖怪悪鬼悪霊魑魅魍魎の類はフィクションにしか存在しないとされていた頃からその手のものと渡り合ってきた呪術師団体を引き継ぐ身なのである。魔法文明の進んだ異世界文明圏の端っこに所属することになって以来、進んだ魔法や呪法を持つ新規団体が流入し、それこそ日本史好きが黒船来航に喩える望んでもないグローバル化に対応しなければならない状態になったのだ。陰険で僻みっぽく悪口ばかり撒き散らすみかどの分際であれでなかなか仕事熱心なことは感心するが、日向子の受けた衝撃はなかなか消えない。


 みかどの癖に将来を真面目に考えている。

 あー良かった、高校受験なんてもの体験しなくていいエスカレーター式の私立に進学して〜……と公立校三年らしき人たちとすれ違う度にこんな優越感を抱いてしまった愚かしい私よりもよほど真面目に将来を考えている! 陰険で卑屈なことを居直って悪口まみれの根性悪なあんなヤツの癖に!


 寒い帰り道を歩きながら日向子の意識はさらに奥へ潜り込む。ここもショックではあったが、認めたくはないが本当にショックなことは他にあった。


 来年の春休みにはみかどは異世界へ旅立つ。

 ということは来年の四月から自分はどう放課後を過ごせばいいのだ?

 うちの付属大にそのままストレートに進学しても、他大学に進むにしてもどうせみかどのことだから友達作りに失敗するんだろうし、コンパだとかサークルだとか噂に聞く大学生の社交を全部無視して新生活を満喫しようとしている同級生たちをスマホ覗いてアルフォートを食べながら呪いまくるような日々を続けるに違いない。やれやれ、高等部になってもこういう日が続くのか……。

 ──等、とうんざりしていた癖にその未来がまるで違うものになるよと現実をつきつけられると、「やれやれ」なんて余裕めいた態度を維持できなくなっており、そしてそんなことに動揺している自分への戸惑いを隠せないのだ。


 これではまるで、みかどがいなくなって寂しいみたいじゃないか!

 あり得ない! この私が! 

 世界を救った勇者と聖なるプリンセスの娘であるこの私が!

 あんな尋常じゃなく僻みっぽくて卑屈で自分は世界の底辺にいて特に前世では酷くて惨い目に遭わされたからこそ世の中に反撃し幸福に生きている人々を恐怖と絶望の淵に叩き落とす権利を天から授かっていると信じて疑わない悪の軍勢みたいな思想を有する異常にめんどくさくて手のかかる三つ年上の女がいなくなるから寂しさを感じるだなんて!

 

 自宅マンションへと続く土手の道をフラフラと歩いていたと思えば突然猛ダッシュを始めて犬を連れた通りすがりのご老人を驚かせる等、茫然自失状態はそれから小一時間ほど続いた。明日から冬休みという日の午後である。クリスマスも何もあったものではなかった。



 頭がぼんやりしたまま自宅ドアを開き、ふらふらと廊下を歩いてリビングを覗く。室内はゲーム音で騒がしい。先に帰った弟の央太がいつものように夢中になっているのだ。姉の帰宅にも気付かず、あー、クソ、このっ、この、と劣勢になってるのも明らかな声を出している。ここ数か月一緒に暮らしている同居人とゲームの対戦中なのだ。

 央太とはコタツを挟んで向かい合わせに座り、冷静にコントローラーを動かしている同居人の少女の方が日向子の帰宅に気づき、低く掠れた声をかける。


「嬢さん、お帰り。不景気な面さらしてどうかしたか? あの呪い屋と喧嘩でもしたか?」


 雄羊のようにくるんと渦を巻いた角を側頭部に生やした異世界難民の風変わりな少女はこのようにざっかけな口調で話しかけてくる。これが彼女の普段の喋り方だから日向子は構わない。ただほんやりと口にする。


「みかどが来年、異世界に行くとかほざいてる──」

「へえー。まあとりあえずよう、先に手ェ洗って喉をガラガラってしてくんのが先じゃねえのかい? 奥さんの言いつけだぜ」


 彼女なりの言葉で手洗いとうがいをしろと言いながら、コントローラーを的確に操作してゲームでは勝利を決めた。んがー! と、央太は大げさにテーブルに突っ伏して敗北を嘆き、角を生やした少女に再戦を申し込む。


「もう一回! ドラちゃんもう一回だけ! おなっしゃす!」

「ダメだ坊ちゃん、さっきのが泣きの一回だ。おれにはおめえさんの宿題を見て、そっから飯を作るっつう仕事がある」

「そこをなんとかぁー、お願いだからぁー」

「そういう坊ちゃんの素行を奥さん旦那さんの耳に入らなきゃっつうのもおれの仕事だ。よく知らねえがこの世界、冬至の時期にはおめえさんみたいな甘ったれたガキにおもちゃだなんだ分不相応な高級品だもしくは金銭だを渡してつけあがらせるロクでもねえ行事が控えてるって聞くぜ? いいのかい、おれの報告一つでおめえさんの査定がかわっちまってもよう?」


 ──本名はカサンドラというがドラと呼んで欲しい、と名乗った異世界難民の少女のごく自然な口調はこれである。最初は一様に面食らった火崎家面々だったが次第に慣れていった。口調がざっかけなうえに遠慮せずに何につけてもズケズケ言う子だがその分裏表のない性格だったところが、基本的に色々と雑な火崎家の家風とマッチしていたのである。

 自分の素行が年末年始のお愉しみに響く聞いて、央太もそれ以上無理強いしようとしなかった。ぶつぶつ言いながらも冬休みの宿題を放り投げたランドセルから取り出す。日向子も洗面所で手洗いうがいを済ませてから、とりあえずいったんリビングのこたつに入った。外は結構寒かったのである。



「で、嬢さんはどうしちまったんで? 帰ってきたそうそう腑抜けちまって、まあ」

 

 央太が計算ドリルに取り組んでいる間に、ドラはこたつの天板につっぷす日向子に尋ねた。


「――さっきも言ったけど、みかどが四月には異世界で遊学するとか言ってる――」


 えっ、マジでミカっちゃん異世界行っちゃうのっ? とドリルを放って食いつく央太の足をこたつの中で蹴り飛ばすことで「黙れ」という命令に換え、日向子は魂が抜けた状態で呟いた。

 ドラはというとそんな日向子を不思議そうに見つめながら、テーブルの上に広げていた本日のおやつの個包装をむき出した。ブルボン製菓のホワイトロリータだ。ドラにおやつの買い物を頼むと必ずこれを購入するのである。


「はーん。んならあの呪い屋の娘っ子に言っといてもらっても構わねえかい? 異世界遊学は結構だが賽の山トンネル使うのだきゃあやめときな。今あっこを使うとまず間違いなくおっ死ぬぜ、けたくそ悪いドンパチがおっ始まってるからようってな。まあおれからの餞別だ」


 ホワイトロリータをかじりながらドラは言う。彼女にホワイトロリータを布教したのがブルボン製菓の支持者であるみかどである。右も左もわからぬ異世界にきて安くてうまい菓子の存在を教えてくれた人物として、ドラはみかどに一定の恩義を感じているらしく、このような形で気遣うことがあった。


「――あー、やっぱりあのトンネルの向こうって何かまだ変なこと起きてるんだ。パパもママもあんまり詳しいこと教えてくれないけど」

「まあな。嬢さんみたいな血の気は多いけど何の技も力もたねえガキが聞いたところで頭に血ぃ上ってカッカカッカするだけでなんにもなりゃしねえ、余計な心配かけるだけだってことで伏せてらっしゃるんだろうさ、お二人とも。賢明だぜ」


 ドラの裏表のない言動を気に入っているからといっても、日向子もそれなりに年相応の感受性というものを持つ身ではあるので「なんの技も力もないガキ」などと本当のことをズバリと言われるとまっすぐに傷つく。みかどの傷つけてやる気まんまんの嫌味であればまだ対処もできるがドラのようにありのままただ事実を口にしただけという口調だとやはり堪える。


 日向子は地球産勇者と異世界産姫巫女の間に生まれた子供だが、魔法が伝えたり伝説の存在のみがつかえるような特殊でファンタジックな能力は一切ない。ただ、父親そっくりの赤毛であるという特徴を有するだけである。

 小四段階でその時の担任を法曹界まきこんだガチバトルの末に退職に追い込むような異常な戦闘力をもつガキなんて、魔法がつかえたり前世の記憶があったりするよりよっぽどレアでファンタジーだから安心しろよと、そのあたりの繊細な悩みをそれとなく口にするとみかどはこういう。馬鹿にしてるのか励ましてくれているのかわからないどっちつかずな発言にムッカー! と腹を立てて言い返す。これがみかどと日向子の二人の空気なわけである。

 だからドラのように淡々と事実を指摘されると対処ができないのである。

 

 それでもドラの話は、異世界事情に関して尽きぬ興味を抱いている日向子の好奇心をくすぐるのだ。


「自衛隊だとか米軍だとかがトンネルに出入りするようになったのってつい最近だったよね。今何やってるの、何が起きてるの? トンネルの向こうで」

「だからさっき言っただろうが。嬢さんが真相知っても頭に血ィ上るようなことしか起きてねえってよう。知らねえ方が賢いぜ?」


 手に持ったカップの中の番茶が冷えたことが気になったのか、ドラは手元をじっと見つめる。それだけでカップの中からほわほわと湯が立ち上った。息を吸うが如く平然と魔法を使ってみせたドラは自力で温めた茶をすする。


 賽の山トンネルの向こう側にある異世界からやってきた難民のドラは、このような魔法が使える。いともたやすく使いこなしてみせる。

 日常生活に重宝するささやかな魔法だけでなく、どうやらとんでもなく大層な魔法も使えるらしい。本人はあまりひけらかさないが、落ち着く先が出来るまでわが家にいなさいとドラを連れ帰った両親の態度や隠しきれない会話などから察するにそう判断するのが妥当だ。


 ひけらかさないのは今までの境遇についても同様だ。今年の年明け、昨年末に起きた塞の山トンネルの事故の調査から一時帰宅した両親が「あけましておめでとう」の一声とともに連れ帰ったのがいかにも着の身着のままなボロを一枚纏ったきりのドラである。その際には、戦争が起きているトンネルの向こうで難民になった子で行先もないとのことだから我が家で保護することにしたとだけ説明されただけだ。

 その後、両親が政府の異世界担当部署の役人とやりとりする様子や、ドラ本人が塞の山トンネル事故をあつかう専門部署に所属するという立派なスーツの人たちに直接召喚されてしぶしぶ出かけていく様子などが気になった日向子の直撃取材で、塞の山トンネルの向こう側にあった異世界でなんらかの政治犯として収容されていた過去を持つことを知ったのだ。異世界からこちら側に向けてツルハシでトンネルを掘り続けるという強制労働に従事していたとも聞く。

 それを知った時の日向子は、自分と同い年くらいに見える子供がそのような過酷な目に遭っていたなんてと大いに持ち前の正義感を炸裂させて怒ったのだが、本人はいたってケロリとしていた。少なくとも日向子の目にはそう見えた。


「まあ、どのみちおれを豚箱に放り込んだ連中ごと根こそぎあの世界ごとふっとんじまったからよう。――だからあんな魔法ロクなもんじゃねえっつったのに」

「? 世界ごと吹っ飛ぶ……?」

「おれの世界にいたものを知らない馬鹿が欲深の馬鹿と手ェくんで危なっかしい魔法を育てた挙句ろくでもねえ悪霊呼び寄せた結果、世界そのものぶち壊しやがったのさ」

「?? でも、トンネルの向こう側は今でもあるんなじゃないの? パパもママもまだしょっちゅう調査の手伝いに呼ばれてるし」

「トンネルの向こう側はある、ただその出口が、こっちじゃ爆発だ事故だなんだって呼ばれてる騒動がきっかけでおれのいた世界とは別の世界にすげかわっちまったんだよ」

「??? トンネルの向こうがわが別の世界につながったってこと?」

「いんや、だれが住んでるのかどんあふうに暮らしてるのかよおく知ってる家の戸を開けて入ってみたら、全然見たことも聞いたこともない連中がそれまでと全然違う部屋の配置の中で暮らしてたような事になっちまったのさ。その上、前に住んでた連中はどこに言ったのかって聞いても『おれたちゃ昔っからこの家に住んでた、何を寝ぼけたことぬかしてやがる』の一点張りでさっぱり要領を得ないっていう、めんどくさいことになっちまいやがってるのが今の状況だ。――もうこれ以上嬢さんには教えらんねえぞ。機密だし、そもそも魔法と世界に関するカンと知識のねえあんたにわからせるにはこの一見は難しすぎる。言っても無駄だ」


 いともあっさりドラはそう言い切り、日向子をショックで黙らせたのだった。

 ショックを受けたままいじけてむくれるようなタマではないので、そのまま意地になり新聞やニュースに目を通し、賽の山トンネル関連の情報には多少詳しくなった。

 それでもドラに言わせればまだまだということらしい。ドラ曰くこちらの世界ではこの件に関して緘口令がしかれているから詳しいことはわかるわけがないときっぱり断言する。一緒に暮らすようになって数か月経つが、ドラは日向子には賽の山トンネルに関してそれ以上詳しいことを語ろうとはしない。


 今回は、自力で熱くした茶をすすりながらみかどの遊学について見解を語りたがる。

 

「で、嬢さんはあの呪い屋がどっか行っちまうのが寂しいっつうのかい?」

「違う! 違いますー! そんなことないですぅー!」


 天板から体をおこして子供っぽく反論する日向子へニヤニヤ笑いでつっかかるのが央太だ。


「無理すんなよねえちゃん。だって姉ちゃんミカっちゃんしか友達いねえじゃん。寂しくなるのも当然――……ってぇ!」


 こたつの中で央太の脛近辺を蹴とばし、成長するごとに生意気になってゆく弟の口を封じる。ドラはというとホワイトロリータを食べ番茶をすすりながらなんでもないことのようにつぶやく。


「だったら嬢さんも呪い屋の遊学についてったらどうだい? 異世界の見分広めること自体は悪かないと思うぜ、おれは? カガクっつうもんはこれでなかなかおもしれえが、時間遡行も死者蘇生も当分むずかしいっつう今みたいな段階だと文明圏っつうところの連中と戦争でもおっぱじまったらひとたまりもねえぞ? どっかの悪徳業者と手ぇ組むっつうなら話はちがうがよう? それにしたって向こうさんの法事情っつうもんを知らねえとむしり取られるばっかってことにならあ」


 日向子がドラという異世界から来た少女を一目も二目も置いてしまうのは過酷な経歴や魔法を使えるということだけではなかった。

 いかにも正規の教育をうけていなさそうな無学な言葉で何気ない調子でつぶやく言葉からにじみ出る知見に圧倒されるところがあったためだ。学校には一度も通ったことがなく、弟子として気難しい師匠から魔法の手ほどきを受けただけと本人が言うのが信じられない。

 こちらの世界での数字を理解するや央太の算数ドリルの採点やつまづいた問題の説明もできるようになったし、仮名文字で簡単な漢字の読み書きができるようになれば母のマーリエンヌが買っては放置する料理本片手に美味しい一皿を作って見せる。知識の吸収率と実践力が高すぎるのだ。火崎家に来たばかりのときは首をかしげてしかめっ面をしながらむきあっていた央太のテレビゲームも驚異の速度で腕前をメキメキあげて、オンライン対戦のランカーになっていたりする。それらすべてのことを本人はそれをさもなんでもないことのようにさらりとやってみせる。驕りもエバりもしない。


 ――この子やるな……と、日向子は異世界出身の異形の少女を仰ぎ見ずにはいられない。

 が、それはそれである。


「いやいや、ありえない! ありえないからみかどと一緒に異世界旅するとか! あのなにかっていうとぐちぐちうるさいやつと年がら年中一緒にいるとか絶対いやだからそんなの! 第一せっかく私学に通わせてもらってるのに高等部に行かないなんてあり得ないし!」

「ふーん、ま、それもありなんじゃねえか? おれにはよくわからねえ」


 央太がみせた算数ドリルに赤鉛筆で丸をつけ、間違っているところには簡潔に説明してからドラは立ち上がった。

 ボタンダウンのシャツにカーディガン、そしてスカートという装いだった。側頭部の角のほかに身体的に特徴のあるドラは身に着けられる衣類に制限がある。ドラの両脚はかぎづめの生えた爬虫類か猛禽のような形状をしている。膝下から徐々に生え始めた鱗はつま先に近づくほど岩のようにいかつくなる。普通のパンツ類は穿けないのだ。

 こたつから出るとぶかぶかのムートン製ルームシューズを履く。そのしぐさをみるといつも日向子の胸がちくっと傷むのだ。

 

 ドラが初めて火崎家にやってきた日、どうしても恐怖が克服できない猛禽のそれによく似た脚を見てついうっかり恐怖からひきつった声をだしてしまったのである。人の外見的特徴を見てあんな声を出してしまうなんて火崎日向子一生の不覚だ――という思いはいまだ消えないから、ドラへはこう声をかけてしまう。


「ねえ、無理して履かなくていいよそんなの」

「無理? 妙なこと言いやがるな。今日みたいな陽気だと水回りは冷えるし、おれの足だと床に傷ついちまうから履いてるだけだっつうのによ」


 ドラはエプロンを手早く着ける。そろそろ夕食の準備にとりかかるの合図だ。


 火崎家に身を寄せるようになってからしばらく経ち、驚異的な速度で簡単な読み書きをマスターしたドラが初めて取り組んだのが料理だ。初心者向けの家庭料理本からオーソドックスな和食を人数分作って火崎家の皆に振る舞い、絶賛された後にこれから自分に料理を作らせてほしいと談判したのだ。ただ保護されている状況が心苦しいので何かしらお役に立ちたいと、あの口調で伝える。

 日向子の父の雄馬も母のマーリエンヌも、自分たちはお手伝いさんがほしくてドラを保護したわけでは無いからとその申し出をしきりに断ったのだが、ドラは食い下がった。どうしても自分が食事を作ると言い張って譲らなかった。火崎夫妻が遠慮ばかりすると業を煮やしてこうまで言って、料理係の座を奪い取った。


「世話になってる手前、これはいいたくなかったがよう。奥さんは飯を作らない方がいい。教本に書いてある手順に従って飯作るってだけの作業がどうしても出来ねえっつうならおれがその係買ってやるってだけの話だ。遠慮もなんにもいらねえ。奥さんは旦那さんと一緒にトンネルの後片付けに専念しなさった方がいい。何、人間に向き不向きがあるのはどうしようもねえっつうだけのことだからよう」


 ――これを聞いた瞬間、火崎マーリエンヌは有名な少女漫画のように白目をむいて硬直した。


 とはいえ、もともとお姫様だったマーリエンヌが家事を不得意としているのは本人も家族も承知している事実だった。基本的に大雑把な火崎家の家風も手伝い、ものの数日で火崎家の家事の引継ぎは完了した。そのため現在マーリエンヌは数えきれないほどの魔王を倒してきた経歴をもつ異世界の元姫巫女としての知識経験を活かして夫とともに異世界がらみのトラブル処理に従事している。


 そういえば――と、台所にたつドラの後ろ姿を眺めながら日向は思い出す。


 ドラから料理を作るのを禁止されたのを知ったとき、マーリエンヌへ強い恨みを抱き執着しているみかどはそれはそれは愉快そうに爆笑したのだった。腹を抱えてけらけら、からからと。ヒイヒイ喉を震わせながら、ドラちゃん最高~……っとドラの行動を褒めたたえた。


 門土みかどが他人を褒めたたえる。その異常事態に日向子の脳は追いつかない。


 底意をごまかすための営業用の笑いや、大嫌いな人間が失敗したときにあびせる嘲笑、人を皮肉る時にはすかさず鼻で笑って見せるなど、陰気で陰湿であったがみかどは結構よく笑う女子ではあった。しかしあれほど底抜けで純粋な爆笑をみせたのは日向子が知る中ではほんの数回しかない。


 みかどと大爆笑という組み合わせのみょうちきりんさにおののいて、自分の母親が笑われているという事実に対する抗議の気持ちが湧き出るのに時間を少々必要としたものだった。


 そんな記憶をうっかりよみがえらせてしまった自分に腹立ちながら、日向子もコタツから出て立ち上がる。そろそろ制服を着替えなければ。

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