第二十八話 門
28-1 祈りの詞
新月の夜の凍えた月の
紅炎に巻かれた弾丸が胸元から解き放たれ、風のなかを飛鳥のごとく自在に疾駆して、漆目掛けて突き進む。漆は枝の上に置いた履で一足たりとも
「……遅い」
駆ける姫の前に甘い午後のにおいが満ちて、垂れさがる夥しい藤の花——姫ははっとして足を止めた。同時に、花は燃え上がり、一瞬のうちに黒く朽ちて灰となった。
「姫!足を止めないで」
鎖鎌の刃が耳元を掠めた。朱雀の声が辛うじて姫を庇った。
「朱雀、どうしたらあいつを倒せる?」
やみくもに駆け出しながら姫は尋ねた。自分よりも朱雀の知能に任せる方がよいと考えたのだった。
「より強い浄化と鎮魂の力……それしか思いつかないわ」
「つまり、『桜花爛漫』よりももっと強い技ってこと?」
「漆が遥かなる時を超えたように、貴女の魂も長い時を超えてここに在る。貴女には漆に対抗し得る力があるわ」
「『桜花爛漫』の技を覚えた時……!」
雷光のように閃く鎖鎌をかわしながら、京姫は荒い呼吸のなかで必死に考える。銃撃の音が耳元で炸裂し、頭のなかがキーンと鳴っていた。
「なんで思いつけたんだろう。あんな感じで、新しい技さえ考え付ければ……」
「考えては駄目」
朱雀の声は静かながらに厳しかった。
「頭で考えたものでは太刀打ちできないわ。漆の叡知は私たちを上回るから」
「『桜花爛漫』も頭で思いついたわけじゃ……」
燃え上がる炎に包まれたこの町を、みんなが住むこの町を、ただ守りたかった。その一心が言葉になってほとばしったのだった。
「もっと、私、強い想いで……」
その時、過ぎ去った白い閃きが再び目の前を駆け、腕のなかがふと軽くなった。「あっ」と声を上げたのはようやく何が起こったのか理解できてからのことであった。朱雀がさらわれたのである。
鎖が朱雀の足首に絡んで、桜の枝の下に宙づりにしている。垂れ下がった紅の髪は滝のごとく流れて揺れ、逆さになった杏子色の裳の裾がはためき金色の領巾にもつれた。
「朱雀……!」
細かな
「朱雀!」
「姫、ダメよ!」
再び叱責が飛ぶ。朱雀当人はというと、逆さになった世界で風に揺さぶられながらも銃口を突き出そうとしている。姫もまたその必死な視線に倣わざるを得なかった。朱雀の視線を辿る姫の目は、自ずと弾丸を追う形となった。一発目の銃弾は直衣の袖を掠めた。漆は
はっと振り向いた京姫が朱雀の背後に漆の姿を認めて叫びかけたとき、開きかけた唇は藤の花房のなまぬるく湿った感触に塞がれた。慄き後ずさる肩にも、耳にも、うなじにも、そして脛にも、花房は触れた。死の花の香りがあたりに満ちて、姫は
「朱雀、後ろ!」
叫んだのはもはや恐怖のためといってもよかった――背後の敵の存在を知らせるためではなくて。声は夥しい花弁のなかに吸い込まれた。
『走って!』
朱雀の声が、湯のなかで聞く音のようにくぐもって、どこからともなく降ってくる。警告通りに姫は駆け出した。もはや桜花神社の境内は掻き消えた。天蓋のように押し寄せては姫を閉じ込めようとする藤の波を、銃弾よりも優美で恐ろしい呪いの庭を、蹴り飛ばすように抜けつつ、姫は必死に思案した。強い想いが私に技をもたらしてくれる。でも、一度そう知ってしまったからには新しい技を得るのはいっそう困難に思えてくる。意識してしまったら、想いは不純になってしまう。意識さえも超えるほどの強い想いがなければ…………
『桜吹雪!』
かき分けてもかき分けても、藤は音もなく湧き出でては押し寄せてくる。このままではきりがないと姫の声がほとばしると、濃密な藤の色は散り別れてはらはらと風にさらわれ、あざやかな桜吹雪が姫の足を止めるほどに舞い散った。桜色の幕の向こうに、再び戦いの舞台は現れた。枝から吊るされ漆の額に銃口を突きつけた朱雀と、朱雀の首筋に鎌の刃を押し当てた漆と――漆は今や地に降り立ち、逆さになった朱雀の顔と向かい合っていた。二人の背後にご神木の桜の幹の、赤い空に照らされて不気味にくすんだ樹皮の色があった。
漆は紫紺の目を流して姫の方へと寄越し、口の端で嗤った。
「姫よ、動いてはならぬことはわかっているな?」
「見くびらないで。こっちはいつでも引鉄を引けるのよ」
鎌の刃をあてられている喉元にも増して、鎖に絡めとられた足首が蒼白になって痛々しい。それでも朱雀の声は怖じなかった。
「姫、いつでもいいわ」
「いや、ならぬ……」
漆がつぶやきかけたその時であった。朱雀の短夜が煙を放ち、漆の烏帽子が払われたのは。鎖が引きちぎられ、朱雀の身が麗しき乙女の姿から金色の
『桜……!』
駄目だ。駄目だ。桜吹雪ではない。桜人でもない。
『桜……!』
桜花爛漫。それでは届かないのだ。もっともっともっと、もっと強く。
救いを求めて京姫の目が縋ったのは、宵闇の瞳だった。鳥居の影でずっと見守ってくれていた瞳だった。舞が戦いに赴くのを見送った後も、司はそこでずっと待っていてくれたのだ。舞が帰ってくることを信じて。
否、もっとずっと前から――司の瞳はいつもそばで舞を見守ってくれていた。待っていてくれていた。桜花爛漫の技を授けてくれたのは司だ。螺鈿に立ち向かった夜、司の魂が京姫に力と智慧を授けてくれたのだ。
司の瞳が姫に応えた。その手が放り投げたものを京姫はほとんど反射的に受け取った。仔細に眺める暇もないうちに、京姫はそれが何であったかを、それを手にした今、何になったかを知った。それは柄杓であった。そして、手にした今、仗へと変わった。翡翠の瞳に
くすんだ桜の樹皮の色を背に、消えかけたはずの漆の白い面が月のように浮かび上がる。烏帽子のなかに
京姫の身はふわりと舞い上がる。水晶の玉のなかに輝く桜の花の宝石を胸元に引き寄せ、仗の先を突き出し、京姫は叫ぶべき技の名を、鎮魂の、祈りの
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