27-7 墜落


「いやはや、そんなところでおやすみなさってはなりませぬぞ!さっ、お目覚めなさいませ。学校に遅刻いたしますぞ!」




 ――そんな声を聞いたような気がして、姫は目を覚ました。視界は二度の瞬きの度にかすんで、三度目の瞬きでようやく形を持った世界が戻ってきた。京姫の目の前にあったのは、青ざめて目をつむる朱雀の顔だった。姫はたちまち飛び起きた。


「朱雀!」


 抱き起こすと、朱雀の瞼は不快げに痙攣し、唇からは低いうめき声が漏れた。姫さま、とその唇がささやいた。姫は自分の手が冷え切っていることも忘れて、朱雀の手を握りしめた。瞳が開く。額に滲んだ血が紅の前髪とその肌との境目を不明瞭にしている。それでも朱雀は姫の姿を認めると、あとは一人でも自分の体を支えられるようであった。


「ここは……?」

「えっと、桜花神社……かな?」


 桜花神社のご神木、桜の樹の陰に二人は佇んでいた。今日の午後、舞と玲子は偶然ここで出くわした。戻ってきたのだ、と姫はふと思った。


 一体なぜ戻ってきてしまったのだろう?天満月媛に思いがけず飛行を阻まれて落下して……でもあの距離から落下して無事で済むはずがない。


「姫、怪我はない?」


 朱雀が庇ってくれたのだ――姫は冷えた指をいっそう強く絡めた。


「うん。朱雀は?」

「問題ないわ。さあ、もう一度行かなくちゃ」


 鳥居の向こうの空は見慣れた夕映えと同じ景色だった。桜の枝が満月媛の姿を覆い隠して見えない今、まるで世界が永遠の黄昏に閉じ込められてしまったような、たったのような気がしてならない。ひとりでに涙がこぼれ落ちるのを、京姫は感じた。体はすでに凍えている。体が震えるその奥から、その震えにまでも圧し掛かってくる、冷たく重い疲労を感じる。もう動きたくもない。疲れた。もう一度飛び立つなんて無理だ。私も、朱雀も。


 それでも、泣き言を言っている場合ではないのだ――京姫は涙を拭って立ち上がり、腰に縋ってこちらを見上げる朱雀に大きくうなずいた。漆のもとへ、再び。

 


『——藤の影』



 死の宣告から二人が逃れ得たのは、もはや本能のおかげというより他なかった。もしくは見えない誰かが姫の背をばんと叩いたのか。京姫は咄嗟に朱雀を抱き上げると、そのまま前方へと大きく飛び跳ねた。冷えた花房のようなやわい感触がほんの一瞬、頬に触れたような気がしたが、しかし、姫は技を逃れた。京姫はすばやくご神木を振り仰いだ。


「漆!」


 本能が知らせたとおり、月の上で待っているはずの男がそこに立っていた。満月媛に代わって京姫を見下ろす漆は、さながら自らが神たることを示すがごとく。冷笑は依然そのままに。


「逃れたか」

「わざわざ降りてきてくれるだなんて、好都合ね」


 京姫の胸元で朱雀がつぶやいた。銃口はつややかにならんで漆へと向けられる。


「それとも、月の女神に振り落とされたのかしら?」

女神あれは死体だ。もっとも小鳥を撃ち落とすことぐらいは容易たやすいかもしれぬが」


 幼児を諭すように微笑みながら漆は言った。京姫はそこに月修院のおもかげを見た気がした。京姫に向かって語りかける時、月修院はちょうど今のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた気がする。あの微笑も軽侮の笑みであったのだと今ならばわかる。


「高みの見物を決め込んだのは失策だったわね。お前の計画は私たちが死ななければならないのだから」

「そう。私が思ったよりもずっとお前たちはよくやっている」


 漆はいよいよ慈愛の目を細めた。


「善戦している。これではあまりにも時間がかかりそうだ。乙女たちが飢餓と疲労と寒さとに倒れ、生きながらにして魔物どもはらわたを貪られ、肉を剥がされ、骨まで噛み砕かれて、そうしてすっかりこの世界からまでには……だから、私は再び降りてきた。最後の人間らしい感情を、憐みを以って」


 直衣の色を闇夜の漆黒と成し、その刃を月の色と冴えわたらせて、漆の手のなかで鎖がかすかに音を立てる。それは獲物を前にして快く戦慄わななく獣のうなりのようだった。無論憐みなどそこにひとかけらも感じられるはずがない。京姫と朱雀は静かに身構えた。


「姫よ、憐みを以ってお前を殺そう。そうして私はお前を忘れ去ろう」


 大丈夫だよ、私が守るから――に京姫はうなずいた。


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