27-5 「姫さま、どうかお達者で」



 左大臣…………






 町は燃えている。夕餉の支度をする家に魔物が踏み込んだから。魔物を恐れるあまり誰かが放った火が冬の乾いた風によって広がっていったために。魔物に襲われた報道ヘリが墜ちたばかりに。町は燃えている。そこは一面赤と黒の世界である。

 住民たちはすでに逃げ延びたか、あるいは煙のなかで息絶えたかのどちらかなのであろう。人の気配はすでにないが、たとえ助けを求めてどれだけ声を上げようと、音はおろか彼の影までもが炎に呑みこまれてしまうだろう。魔物どもの瞳のない眼や複眼が目敏くそれを見つけて引き裂いても、その刹那には、魔物の身までもが炎に焼き尽くされるのだ。


 しかし、今、そのあり得ない仮定をするとして――すなわち、もし今、この炎のなかに息を潜めている者が、まだ魔物どもに感づかれずに生き延びている者がいたとして、彼はもしかしたら炎の唸りのなかに、たったひとつの物音だけは聞きつけたかもしれない。それはまりに異質な音であったから。何かを引きずるような音、地を引っ掻くような短い音が、不規則に綴られて炎の中を這い進んでいるのである。それは一人の翁が履の底を地に擦って歩く足音であった。



 ……いやはや。


 思えば長く生きすぎた。もっと早く気づくべきであった。妹に、三人の妻に、息子たちに先立たれた時に気づくべきであった。それなのにおめおめと生き永らえて老醜を晒し、その挙句あろうことか現世みらいの世界にまでずかずかと足を踏み入れている。


 異物、とそう呼んだことがある。自分たちはこの世界にとっての異物であると言った時、それを聞いた右大臣は皮肉な笑い方をした。言い得て妙だと。今でも自分は笑う気にはなれない。異物という言葉は今この時、却ってまざまざと、冷たい石のように胸の底を重たくする。右大臣にも死に後れた。本当に、長く生きすぎてしまった。


 しかし、何よりも浅ましく感じられるのは、長く生きすぎたというそのことではない。この無理に引き伸ばされたような人生、異物として生きた日々に、なおも執着している自分に対してである。


 ……いやはや。


 楽しかった――現世での日々は。


 翁は背に赤を負っている。玄武の手によって一度は癒されたはずの傷口が再び開き、狩衣を染め上げている。わかっていたのだ。あの技を食らった時から。あれがただの傷ひとつ負わせてすむはずないと。「藤の影」とそういったか、あの技は呪いなのであると。傷そのものに意味はなく、傷によって身体の中に呪いを植え付けるのだ。「死」という峻烈な呪いを。


 ……いやはや。


 よかった――姫さまをお護りできて。


(姫さま……)


 初めて京姫に拝謁したのは、神饗かむあえの夜であった。あの夜から左大臣は京姫の後見人となったのだ。


 藤枝帝と藤枝の御方との間に生まれた姫君——帝と京姫の間に成された不義の子の、その後見人となったのは、松枝上皇の頼みあってのことであった。上皇は先代京姫に対する我が子藤枝帝の非礼に憤り、藤枝の御方とそして生まれた子への憐憫に涙した。父も母も知らぬ子を、そして幼くして京姫として立たなければならぬその子を、どうか護り愛おしんであげてくれ。その短い人生をせめて豊かなものにしてあげてくれ。それが上皇の願いであった。すなわち、勅命でもあり、友からの頼みであった。


 初めてお会いした時の姫の、頑是なかったこと。首をかしげると切り揃えられた樺色の髪がさらさらとゆれて。灯影のなかに翡翠の瞳をめいっぱいみはって。眠ってはならぬと言われたそばからこぼれたあくびを、小さな小さな、ひいなのような手で隠そうとしていた。いやはや、本当にお可愛らしかった。


(しかし、姫さま、貴女にはどれほど手こずりましたことか……)


 外の世界を見たいと言って脱走を繰り返した姫。子ねずみのようにすばしっこくお菓子を盗み食いしていた姫。勉強中に居眠りしていた姫。四神たちと庭を駆けまわって池に落ちた姫——毎日いたずらをせずに済む日はなくて、何か仕出かしては叱られて拗ねていた。本当にどうしようもない姫君であったけれど……でも、赤くすりなして泣いている顔の愛らしさにはどうしてもかなわなかった。


(成長されてまことに美しく、おぐしも長くなりましたのに、それでも姫さまは変わられませんでしたな)


 その姫が仕出かしたなかで最大の「いたずら」こそ、月宮参りの失踪劇だ。あの時はまるで生きた心地がしなかった。そしてその時、左大臣は、自分がこの姫君なくしては生きられないのだと、まざまざと思い知ったのである。


 ゆえに、左大臣は自刃した。京姫が奪われてしまった世界など、生きる価値がない。ましてこの老残の身であっては。


 ……死の後に何を見たのだろうか。死は夢をもたらしたのであろうか。覚えていない。もし夢を見たとして、それは一つの色の世界の夢であっただろう。あたたかな桜色の世界だ。月の裏側にあるという静謐と安寧に満ちた世界では決してなかった。


 そうして、突然揺り起こされた。見知らぬ世界を風に揺られてさまよううちに、左大臣は見つけた。翡翠の瞳の少女を。


 ――姫様、こちらは常にお持ちにならなければなりませんぞ。命の次に大切なものなのですからな。


 家族に愛され、友人に恵まれ、名前を授かり、自由に恋をして、自由に世界を駆けまわって。生まれ変わった少女はこの上なく幸福そうに見えた。この恵まれた少女を戦いの運命に引き込まなければならない我が務めを左大臣は恨んだ。


 それでも少女の笑顔は絶えなかった。戦いの痛みの底にあっても、前世の罪に打ちのめされても、少女の胸にはいつも希望の花が咲いていた。そう、だから……自分などというものが案ずることはなにもない。ただ祈るだけだ。この戦いの終わりに、そばで見守られなくなったその先に、現世みらいに、京野舞の幸せはあるのだから。


(姫さま、どうかお達者で。たとえ輪廻の巡り合わせがあろうとも、もうお会いすることはありますまい)


 この哀切な祈りの場に、いまわしき乱入者があった。焼け落ちた家の瓦礫の影から、魔物たちが飛び出してきて左大臣に食らいついたのだ。翁の影は崩れかけた。魔物の牙は翁の腕と肩と足とに突き立てられていた。


(四神の皆さまも、どうぞお健やかに)


 それでも左大臣は祈りをやめなかった。その身の内部ですでに待ち構えていた死が、外からもたらされる死と手を結び合って襲いかかるこの時、左大臣は眉を逆立て、噛み締めた奥歯より獅子の唸りを立てた。魔獣の身を引きずりながら踏み出した一歩に、流れ出る血は緋牡丹のごとく広がった。


 吼え声とともに厳かな鈍色の閃きが振り下ろされ、その疾風のごとき一太刀は群がる魔獣どもの首をことごとく切り離した。左大臣はよろめきながらもその首のひとつを踏みつけて、また一歩進んだ。たとえ夜露ほどにも儚くとも、命のあるかぎりは進まなくてはならない。


 されど、その黒目に――炎の熱気に半ば渇きそうして今光を失いつつある眼に、この上なく美しく優しい夢を見たとして誰が責めようか。翁の口元は微笑んだ。


「姫さま……」


 呼びかける声を、どこからともなく吹きつけてきた風がさらって。












「姫さま…………」


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