27-3 「さっきの龍、お前だろ?」

 東を守護するのが務めであるから、青龍は町の東へ、先ほど九尾の狐と激闘を繰り広げた東雲川の方へと向かった。東雲川は桜花市の境である。それより先に待ち受けている地獄へと、青龍は我が身を走らせた。先の戦いの疲労はすでに忘れ去っていた。


 九尾の狐との戦い――もうはるか昔のことのように思われるのに、同じ夜の出来事なのだ。青龍が一度我が身を忘れかけたのも。自分は一体どこまで自分でいられたのだろう。天上にきらめく星の灯と、地平線に燃ゆる杏子色の帯とが同時に眼をいた時、青龍はほとんど、使命以外を忘れ去っていたかもしれない。それを思い出すと、途端に体の表面が再び冷え冷えとしてくるのを青龍は感じた。しかし、九尾の狐の吐き出した毒の塊がまっすぐ桜花中学へと向かうのを見た時、その時だけは青木翼としての何かが、荒海のごとき獣の衝動のなかに光ったのであった。


(あたしはこの町を守るために戦うって、そう決めた)


 青龍として目覚めた桜花公園の夜を思い出す。あの時、自分が舞に向かって言った台詞を今も覚えている。けれども、この最後の戦いの夜、青龍が戦うのは町のためではなかった。この世界などというあまりに大きすぎるもののために、あまりにも知らなさすぎるもののために戦わなければいけないのだ。


(でも、それでもあたしはもう怯まない。戦うんだ。正義が水のように流れる世界のために)


 黒く澱んで見える川面には水泡だけが芥のように白々と浮かんでいる。川の流れる音だけが静寂を圧するなか、青龍は躊躇なく川面の上へと足を踏み出した。青龍にとってはたやすいことだった。水面を渡ることなど。それを青龍は悟ったのであった。


「おい!」


 水面を駆け渡った青龍の背中に投げかけられる声がある。振り返った。対岸の人の姿は川幅の広さと闇のなかで定かではなかったが、その声には確かに聞きおぼえがあった。はるか昔から。


「翼!」

「恭弥?!なんで……」


 駄目だ。今は一刻たりとも無駄にできないのだ。行かなくてはならない。知らない街の、知らない人を助けるために。ためらいながらも二三歩駆け出した青龍は、恭弥の呼び声と、水がはねるような音とに引き止められた。駄目だ。追いかけてきてはいけない。川を超えたら桜花市ではないのだから。青龍は前を見たまま叫んだ。


「来ないでダメッ!」

「じゃあお前はどこ行くんだよ!」


 怒鳴り声が背中を追いかけてくる。


「知ってんのかよ?!今何が起こってんのか……」

「わかってるわよッ!でもあたし、行かなきゃいけないところがあるの!!」

「はあ?どこ行くってんだよこんなときに」

「どこだっていいでしょ!あんたには関係ないじゃないッ!」


 ああ、いつもこうして喧嘩になってしまうのだ。今は本当にそれどころじゃないのに……!恭弥へのもどかしさのためか掌に爪が食い込むまで拳を握りしめていた青龍は、水をかきわけるじゃぶじゃぶと掻き分けてくる音を聞きつけるなりはっとして、歯を食いしばりながらも身を翻した。今度は水面を渡れることも忘れて、青龍は腰まで冷たい二月の川に浸かって立った。


 恭弥もまた川の水のなかから青龍をじっと見つめていたが、それは見つめているというよりは睨んでいるといった方が正しかったかもしれない。青龍はそこで初めて恭弥がまだサッカー部のユニフォーム姿であることに気がついた。恭弥の髪は風にかき乱され、泥に汚れた頬を陰鬱な川面の波紋がかすかに照らし出されているなかに、眼光だけがめいっぱいの怒りで光っていた。


「関係あるッ!!」


 と子供のように言い捨てて、恭弥は手を差し出した。


「お前なぁ、死にたいのか?おとなしく家に戻れ。おばさんたちも心配してんぞ」

「……知ってるわよ。それでも行かなくちゃいけないんだってば。お母さんたちに伝えてよ、あたしは大丈夫だって」

「全然大丈夫じゃないだろうが」

「いいじゃない。なんで、なんで、あたしに構うのよ……」

「幼馴染だからに決まってんだろ、バカ」

「だから、なんだって今この時に……!」


 他の時だったらどんなに嬉しかったかもしれないのに。タイミングが悪すぎる。バカはどっちなのよ、バカは……!両手で顔を覆って言いたい言葉をぐっと呑み込んでも、最善策が浮かんでこない。追いかけてもこの優しいバカは追いかけてくるだろうし、かと言ってこのままここに立ち尽くし続けているわけにもいかない。戦う前に凍え死んでしまう。もちろん町に戻るだなんて絶対有り得ない。

では、戻るふりをしつつ隙をついて恭弥を失神させるのは?全く気が進まないけれど……


 頭に何かが触れている。それが先ほどまで差しのべられていた手であることに気がつくまでに、青龍はしばしの時間を必要とした。あたしは何されているんだろう?恭弥に頭を撫でられている?いや、これ撫でられているっていうのかな……?ただ置かれているだけの手。


「やっぱり戦うつもりなのか?」


 戦う?そんなこと、あたし一言も……


「さっきの龍、お前だろ?」


 えっ、という声もかすれてしまった。まるで声を失った人魚姫のように。


「バカでかい化け物と戦ってたやつ。よくわかんねぇけど、でも、なんかわかったんだよ、お前だって。お前、戦ってんのな。戦わなきゃいけないんだな」


 ゆっくりと顔を上げると、恭弥の手は青龍の頭から肩の上にとはらりと落ちた。その手で恭弥は青龍の肩をしっかりと支えた。それは彼に恋する乙女が望んでいた所作ではなかった。しかし、戦う少女にとって最も勇気づけられる動作ではあったかもしれない。かじかんだ指の皮越しに、龍の姿を見るなりいても立ってもいられずに駆けつけてきた、少年の逸る心の熱が伝わってくるような気がした。


 腰まで水に浸かった二人の間を小さな川が音を立てて流れている。冬でも日焼けして浅黒い肌の色は薄闇と微妙に溶け合っていて、青龍が懸命に見定めようとしている顔は微笑んでいるようにも思われた。ただひとつ確かなのは、そのまなざしは依然力強くとももう青龍を睨んではいないということだ。浅黒い唇が開いた。


「……帰ってこいよ」

「えっ?」


 からかったのでもとぼけたのでもなかった。ただ、聞き取れなかったのだ。川音に紛れて。


 しかし、恭弥はあろうことか、肩に置いた手でそのまま青龍を対岸の方へと押しやった。


「何でもねぇよ。ほら、早く行ってこい!」


 ちょっと何すんのよっ!と、ちゃんと怒ってから青龍は駆け進んだ。もう負ける気などしなかった。あたしは世界を守れるだろう。絶対に。


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