27-2 「気をつけてね、奈々ちゃん」

 玄武は北へ、青龍は東へ、白虎は西へ。前世の分掌を引き継ぎ、四神たちは戦場へと赴いた。皆で共に行動する方が危険は少なかったが、今は一人でも多くの人々を救うことが先決であると少女たちは断言した。


 気高い少女たちに敬服して、左大臣は朱雀の代わりに南へ赴くこととなった。老練の剣士とはいいながら四神たちのように特別な力を持たぬこの翁を案じて、玄武は木守を共に行かせようとした。が、左大臣は固辞した。固辞しながらもそう見えぬように呵々と笑って、左大臣はこう言ったものだった。


「心配ご無用!この翁、四神ではありませぬが神さび方は随一ですからな。木守殿も老人の伴ではなんとも不憫ですぞ」


 玄武は不安げに左大臣の顔を見やったが、それ以上議論をしている時間はなかった。ただ、必ず生きて戻るという約束を目で交わして、四神と左大臣とはそれぞれ駆けだした。



(お兄ちゃん……)


 兄のいるスコットランドはまだ朝のはずだった。冬の朝日のなかに現れた醜悪な魔物たちを人々は何と思っただろうか。永すぎる悪夢かと思っただろうか。


(お願い、無事でいて……!)


 世界中が今、漆の魔の手に襲われているという。でも、今玄武に見える気色は山越しの隣町の変わり果てた姿だけだ。魔物を薙ぎ、道を拓く木守の後を追いながら、矢を続けざまに放ちつつ玄武は混沌の街並みを前進していく。少しでも遠く、一人にでも多く、この矢が届くように。


 前世でも同じように玄武は町を駆けた。玄武門を閉ざし、京を守らんとして。否――本当に玄武が駆けつけたかったのは兄の家であった。玄武が誰よりも救いたいのは兄であった。


 ただ押し流されるだけの人生、他人に圧迫される人生を生きてきた少女は、何の準備も覚悟もなく結婚し、夫と死に別れ、やがてやはり何の準備も覚悟もなく四神となった。現世でも、黒田奈々はすぐに戦う決意ができなかった。身近に危機が迫ってようやく戦う決心がついたのだ。ボロボロになって戦う友達の姿を見て、ようやく自分の責任を知ったのだった。


(あたしは弱い。前はもっと弱かったし、今も弱い。あたしはいつも自分と大切な人のことしか考えられない。今だって、もしかしたらお兄ちゃんを助けたい気持ちで戦っているのかもしれない。ううん、きっとそうだ。このまま突き進んでいけば、お兄ちゃんのところに行けるような、そんな気がしているもの。でも……)


 玄武がこの町に至るまで空を埋め尽くしていた黒雲のごとき魔物の影は、どうやら欲望の赴くままに散ったらしい。滑空して次なる獲物を求める貪欲なその眼を、玄武は射抜いた。


(でも、今、四神として戦いたい。あたしは黒田奈々ひとりの気持ちだけじゃなくて。京の人々だろうが、世界の人々だろうが、苦しむ人たちを助けるために戦いたい。護るために戦いたい。それが玄武の務めだから――四神であることが、四神みんなで一緒に戦っていることが、あたしの誇りだから)


 敵は地上をも這いもとおっていた。幼い子供を連れた若い男性の背に飛びかかる魔物の赤い口腔に、玄武は矢を放った。子供を抱きかかえたまま転びかけた男性を、玄武は咄嗟に駆け寄って支えた。男性は見開いた目に恐怖をまだ浮かべたまま、それをいくらかの当惑で薄めて、玄武を見上げた。


「逃げて!」


 玄武は叫んでいた。


「桜花市の方へ!」


 男性は一言たりとも返せぬまま、それでもよろめきながらも立ち上がって、玄武の指し示す方へと走り出していった。その後ろ姿を見守り再び進みだした玄武が、若い父親の肩に顎を載せていた男児がちょうど弟と同じ年ごろであることに気がついたのはしばらくしてからのことだった。子供は青白い顔で泣きもわめきもせずに、呆然と玄武を見つめていたのだ。大きな黒い目で。


 突如として、住宅街の細い小路から女性が飛び出してきて、玄武と衝突した。どすんという衝撃を胸に受けて、玄武は女性を抱き止める形で尻もちをついた。その頬に、獣の黒い影がかかった。



『葦垣!』



 アスファルトの地面を割って現れた力強い植物の蔓が、抱きしめている女性の髪にかかりかけている凶悪な爪と牙を宙に捕らえた。光沢ある蔓の色は獣の被毛を覆い、やがて押しつぶした。


 危ない危ない、と息をついたところで、すすり泣きに縋りつかれて、玄武は目を落とした。まだ若い、大人の女性である。ひとつに束ねた黒髪のふさやかさが玄武の胸と女性の胸との間にやわらかく挟まっているのを感じる。ふと、玄武はその女性を知っているような気がした。


「凛さん?」


 女性が顔を上げた。やはり――桜花市にあるアクセサリー屋の店主、凛の泣き濡れた瞳がそこにあった。凛はゆっくりと目をしばたいた。


「奈々ちゃん、なの?」


 そうだよ、と言いかけて、玄武は果たしてそう答えてよいものかと迷った。しかし、すばやく涙を拭った凛は、もうすっかり玄武を奈々だと認めてしまって微笑さえ浮かべてみせた。凛は再び込み上げてくる涙を押し隠そうとしてか、玄武の胸に顔をうずめた。


「よかった、奈々ちゃん……!ひとりで怖くて仕方なかったの。奈々ちゃんが助けてくれたのね」

「あたしも凛さんのこと助けられてよかった。よかった……本当に、無事で…………」


 普段は年上の女性として(そして奈々の才能を見出した人として)姉のように温かく見守ってくれる凛に、幼女のように縋りつかれている不思議を覚えながらも、玄武は安堵と恐怖が入り混じった虚脱感に襲われていた。護るべきものが兄の他にも桜花市の外にもあって、自分は今それを危うく失いかけたのだ。


 しかも、玄武はここで立ち止まるわけにはいかないのだ。まだ進まなくてはならない。一人でも多くの人を救うのが、四神としての使命なのだから。妹たちを寝かしつけるときのように凛の頭を撫でていた手はそのままに、玄武はおもむろに背後を振り見た。あの親子連れが駆けていった方角——そこにも魔物の影が見え隠れしている。


 同じ言葉で、玄武は凛を押し出せるのだろうか。「逃げて」などという軽々しい言葉で。玄武は呆然とした。


(凛さんを桜花市まで送れば……でも、あたしが凛さんひとりに係りきりになってる間に一体何人の人が犠牲になるというの?)


 すでに人気ひとけのなくなった住宅街では家々の窓の奥に光はなく、どれも一様に女神の膚の色に染められている。静寂の向こうに遠く誰かの悲鳴を聞いた気がした。


(あたしの玄武の力は、黒田奈々のためだけにあるわけじゃないんだ)


 わかっている。けれども、使命に従うのがこんなにも痛く苦しいだなんて。


(あたしはやっぱり、進まなくちゃ)


 玄武は凛を一度強く抱きしめると、その手を取って立ち上がる。玄武の素早い動きにつられて立ち上がった凛の表情は、恐怖のためか安堵のためかぼんやりと靄がかっている。この靄を払った先に何かを見出さねばならぬことが辛い。でも。


「凛さん」


 玄武は胸の前で凛の手を強く握りしめた。


「ごめんなさい、凛さん。今は一緒にいられないんです」


 そう言って片方の手で背後をまっすぐに指さした。


「大丈夫、まっすぐに走って。そうしたら桜花市に着けるはず」

「桜花市に……?」

「そう。市内に入っちゃえば大丈夫だから」

「でも、奈々ちゃんは……?」


 再び凛の目に涙が滲みだす。玄武はそれを拭いたい手を伸ばせなくて、ただ握った手に力を込めた。


「あたしは行かなきゃいけないところがあるの」


 そう呟いたとき、玄武の胸は千々に乱れた。玄武は凛に止められるものと思っていた。凛はいよいよ泣き、玄武を離さないものだろうと思っていた。だからこそ、凛の冷たい痩せた指の感触が痛かった。


 しかし、凛は微笑んだのである。頬の微かな動きで涙を一つ落としながらも、それをすぐさま拭ってみせたのである。


「わかった。気をつけてね、奈々ちゃん」


 たったそれだけの言葉が、諦めでも絶望でもなく、心からの情愛を込めて放たれたのであった。あまりに十分なほどの情愛が、労りが、優しさが、信頼が、祈りが、そこに込められていたので、そっと手を離すという凛の所作にさえ、玄武は不安ひとつ感じるでもなかった。やわらかく駆けだした凛の姿が消えるまで見守ることもできず、玄武は再び歩みだした。玄武は知らない。なぜ凛が駆け出すことができたのか。それは手の中に握られていた実蔓さねかずらの花のためである。また、それは不意に凛の頭の中を横切った、記憶と呼ぶにはあいまいでしかし切実な何かのためである。



『雪乃はもう一度御方さまのお傍で……』



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る