第二十七話 月へ

27-1 星群れる空

 頬を切る風が凍えるほど冷たいので、京姫は紅の羽毛にぴたりと身を寄せている。朱雀の羽毛は内に炎を抱えているように温かく、柔らかく、どこか日向のようなにおいがする。向かい風になびく羽毛はさながら焔の草原だ。星も吹き飛ぶほどの速度で夜空を翔けているから、羽毛の先に宿り流れていくきらめきのひとつひとつが、死せる星々の手短すぎる葬送かと思われた。


 ……つい先ほどまで町から上がる黒煙が、同じ空に棚引いていた。悪鬼どもは遠くから姫たちの姿を見つけるや否や飛びかからんとして、朱雀の篝火によって焼き滅ぼされた。空にさえ何かが焼け焦げるにおい、砂塵のにおい、そして血のにおいが充満しているようだった。吐き気をこらえて見下ろす地上の灯りが、ある瞬間に、吹き消されたように一斉に消えた。悲鳴が上がった。地平線に至るまで、姫が認められる光は、火事と思しき赤い揺らめきと、動かなくなった車のヘッドライト、そして女神のはだの照りを返す川のおもてだけであった。


 「寒くなくて?」と、朱雀が訊いた。「ううん」と答える姫の鼻先は冷えきって声は涙ぐんでいた。姫は思わず涙ごと顔を羽毛に埋めた。


「みんなは大丈夫かな?」


 羽毛に唇をくすぐられながら、京姫はつぶやいた。白虎の風の力もこんな上空には届かない。私たちはもっと上に向かおうとしている。空の彼方、宇宙、そして月へ――ああ、本当に私たちは月にたどり着くのだろうか?


 「信じるしかないわ」という朱雀の短い返事は、姫のつぶやきへの返答とも思われ、また姫が胸に抱える疑いへの返答とも思われた。風の轟音だけが支配する沈黙に耐えかねて、姫はまたしても言葉を紡いだ。


「月でも息ができるの?」

「姫、私たちが向かっているのは月であって月ではないのよ。つまり、天体としての月ではなくて信仰世界の月なの。私たちの、玉藻の国の人々のなかでの月は、天満月媛であるわけでしょう?私たちは天満月媛の体に降り立つのよ。宇宙飛行士たちが目指す月ではないわ」

「そうなんだ……」


 難解な回答の意味はよくわからなかったが、京姫は理解したふりをした。とにかく大丈夫ということなのだろう、と信じて。


 しかし、無事にたどり着いたとして(そして呼吸もできるとして)、どのように漆を倒したものであろうか。京姫の技は漆には届かなかった。まして月の上では?月は漆の領域だ。天満月媛は、月修院に桜の花を植えることさえ厭ったとされる。そんな話を、かつて月当が話してくれた。そうだ、あれが芙蓉であったのだっけ。


 ――だとすれば、あの桜の大樹は一体どんな奇蹟であったのだろうか?月修院の森に孤高に咲き誇っていたあの桜の木は。京姫と紫蘭が出会ったあの桜の木は。あるいはあの桜の木は呪いであったのだろうか。満月媛にとっては。天つ乙女は創造神らしい無邪気な傲慢さで、月の女神の領域にまで手を伸ばしたのであろうか。月の巫女であった藤尾を、京姫として選んだように。それとも、あの桜の木は天つ乙女の贖いであったのか。満月媛の胸に芽生えかけた赦しのしるしであったのか……


 京姫は満月媛の顔を見上げた。もはや女神の眸は間近にある。その眸に映る虚空に呑み込まれそうに思われるほど。ここまで近づくと、姫に向けられているように思われた女神の注視も、眼球の巨大さのあまり散漫に見えてくるほどだ。


 その散漫な注視のなかで京姫ははっとした。もしあり得るならば漆の企みを退けられるかもしれない、そんな考えが、ちょうど飛び行く鳥が一瞬影を落とすように、姫の頭を掠めたのであった。しかし、その考えは抽象的であったから、十四歳の少女の頭からはすぐに蒸発してしまった。ただ、姫は胸のなかで女神にこう呼びかけていた――私を赦して、と。


「……姫、こんな時に言うのはどうかとも思うのだけれども」


 朱雀の声の振動が温かい羽毛越しに伝わってきたので、京姫は物思いからふと醒めた。朱雀の声色は口にした言葉通りに逡巡を示していた。


「なあに?」

「柏木が死んだわ……言い損ねていたから」


 京姫は思いがけぬ報告に驚きながらも、一方でどこかでそれを察していた自分に気がついた。確かに先ほどからずっと柏木の姿はどこにも見えていなかったではないか。京姫はせり上げる苦しさに胸が詰まりそうな気がした。


 柏木との個人的な思い出はほとんどないに等しい。姫の覚えているかぎり、柏木はいつも玲子の隣にあった。前世でさえもそうであったように思われる。前世からの仲間のなかではたったひとり異質な存在だった。四神たちも左大臣も京姫を慕っていたからである。しかし、柏木の関心は、いつでも玲子にのみ寄せられていた。そうだ、柏木がたった一人異質であったのは、四神たちが皆転生した姿であるのに対し(左大臣に至ってはテディベアに憑依した姿であるのに対し)、前世の肉体のまま現世を生きていたからだ。一体どのような原理でそれが可能だったのか姫には今でもわからないが、容易なことではなかっただろう。それでも柏木がそれをやり遂げたのは、並大抵ならぬ玲子への想いがあったからではないか。その想いが忠誠心以上のものであることを、舞は知っていた。


それにも関わらず……


 柏木は京姫を庇った。朱雀は何も言わないけれども、柏木はあの時の負傷が原因で亡くなったに違いない。もちろん柏木の立場として姫を見殺しにできなかったのはわかる。けれども、姫のために命をなげうつ必要はなかったはずだ。だって、その命は玲子のためにあったのだから。


 朱雀は柏木の最期を知っているのだろうか。あの時はまだ意識がなかったはずだから……京姫は口を開きかけたが、とても言葉にならない気がして黙り込んでしまった。一体何と言えばよいのだろう。悲しむ暇もなかったはずのこの友に。


「柏木は貴女を庇ったのでしょう?」


 朱雀は何気ない口ぶりでそう言った。


「自分を責めないで、姫。柏木は自分の役割を果たしたのよ」

「でも……!」


 姫は急に泣き出したくなってきた。なくしものを探す幼子のような焦燥に襲われて、必死に言葉を探した。


「でも、柏木さんは……!」

「貴女を現世ここに連れてきたのは柏木よ」


 朱雀の低い声が京姫の口をつぐませた。


「地獄の業火に焼かれていた貴女と結城司を、私は連れ出した。地獄の扉の前で、柏木に貴女たちを託したの。現世で再会した後で、柏木が話していたわ。そこはまるで……道のようだったと。梯子を横に渡したような道が続いていて、木枠のひとつひとつを覗きこむと、そこ見知らぬ世界が広がっていたと。そのひとつに柏木は貴女たちの魂を放ったの」


 耳元で風が鳴っている。それはあまねくこの天空をうしはく静寂である。


「姫、わかるでしょう?私が貴女を託したから、貴女を守ることが柏木の役割だったの」

「でも、柏木さんは生きたかったんじゃないの?玲子さんのために……」


 幼子のような焦りのあとで、幼子のようなさびしさで姫は泣いていた。絞り出した声がどれほどか細い声であったとして、決して掻き消されなかったはずだが、朱雀は何も答えなかった。


 もはや風も鳴らなくなった。真空のごとき静寂と朱雀の沈黙が長らく溶け合わぬまま拮抗していた後で、朱雀がようやく赤い夜に降った。「柏木は……」とまで京姫の耳に聞こえて、その後ははっと息を呑む音にたちまち覆われてしまった。


 満月媛は信仰なきこの世界に触れて死んだのだと、漆は言った。京姫たちが仰いでいたものは紛れもなく女神の屍であった。しかし、今、女神の屍は確かに動いたのである。その眸が姫を見つめなおし、そこを彩る感情をつややかに滲ませて新たにした。唇がかすかに動き、吐息は朱雀の両翼を煽った。


「ああっ!」


 悪鬼に蹂躙される世界を抱擁しようとするごとく広げられていた女神の両の腕の片方が、うつろな表情に伴う動きで京姫と朱雀に向かって伸ばされた。避けようとする朱雀の動きはわずかに遅れた。巨大な女神の指先が京姫をかすめ、姫の身は朱雀の背からはらりと剥がれ落ちた。


 遠のいていく――満月媛の顔が。姫を追って急降下してくる朱雀の嘴が。耳を捥ぎ取らんばかりに風が鳴りわめいている。痛い。


 朱雀を呼んで腕を伸ばした時、京姫の姿は、奇しくもまだ姫に向けて手をぶら下げたままにしている女神の姿と対象を成した。そこに求めあう巫女と女神とがあった。




 あ ま つ お と め ――




 満月媛のささやき声は遅れて京姫を訪った。が、姫の体はいよいよ加速して、女神から離れていく。墜ちる――

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