26-7 左大臣、激怒する
「お父さま、お願い……町から誰も出さないで。でも、逃げてくる人は誰でも迎え入れてあげて…………」
電話をする朱雀の声が石段の上からか細く聞こえてくる。それ以外に言葉を発する者はない。皆一様に目を逸らしている。京姫は膝をつき、青龍は顔を両手で覆い、玄武はあらぬ方を見つめ、白虎は腰に手をあててうつむいていた。月の女神の凝視の下にあって、少女たちは押し黙るより他になかった。
(どうすればいいの……)
たった今世界中の人々が魔物どもの手にかかって惨殺されているという。その事実の深刻さは理解できる。だが、それは知っている誰か一人の危機よりももっと漠然としている。その事実は確かに姫の胸を苦しめる。だが、それは知っている誰か一人の危機ほどには姫を苦しめない。
世界中!世界中の命を姫はどのように悼めばよいのだろうか。世界中の命をどのように守ればよいのだろうか。かつてみんなを守ると決意した姫であった。その言葉のむなしさを今、姫はまざまざと感じていた。私に世界の人々は守れない。私はみんなを守れない。私にはそんな力はない。四神たちでさえそうだ。朱雀の篝火でさえも世界中に張り巡らすことはできない。
今世の中で起こっていることの途方もない大きさを理解しきれない代わりに、もはや全てを救うことはできないという絶望感によって、京姫は打ちのめされていた。私は京姫だからと何度も言い聞かせて、戦い続けてきた。しかし、今、京姫であることに何の意味はない。私は何一つできないのだから。
……このままだったらどうなるのだろうか。たった今、路上で喰い殺される人々。窓から引きずり出される人々。扉ごと薙ぎ倒される人々。このままでは世界中の人々が死ぬ。そして、この町にいる人々だけが生き残る。私たちはその時、どこにいるべきなのだろうか――
「何をしておられるのですか、姫さま!」
左大臣の叱咤を受けて顔を上げようとした京姫は、早くも自分と同じ高さまで降りてきた左大臣の目線に射抜かれた。獅子を思わせる大きな眼である。
「そんなところで休んでいる暇はありませぬぞ!漆のやつめを倒しにいかなければ!」
「だって、どうやって……月になんて行けっこないのに……」
「ええい!そんなことで悩んでおられるのですか?!」
再びうつむいた姫の肩を、左大臣が礼儀をかなぐり捨てたようすで揺すぶった。その乱暴さたるや。京姫の首は人形のそれのようにがくがくと揺れ、やがてぽいっと放り出されて、姫は地面に尻もちをついた。すると、左大臣がさっと立ち上がって姫の頬に影を落とした。
「いやはや!姫さまらしくもありませぬな!皆さまも!一体どうしてぼやっとしていられるというのです!月に行く方法が思いつかぬからといって、殺されていく人々をこのまま見殺しにするおつもりですか?」
「だって、数が多すぎるよ……」
抑揚のない声で玄武が呻く。
「あたしたちが何人の命を救えるっていうの?それも世界中だなんて……無理だよ。瞬間移動できるわけでもないし」
「一人だろうがなんだろうが、救える命を救うしかないではありませぬか?!」
左大臣はわめきながら地団太を踏んでいた。
「漆とてそれを見越してこの場を去ったと、この
全く、本来だったらわたくしめがお止めしなければならない立場だったのですぞ。わたくしめはこう申したでしょう。『皆さまだけで、あんな大勢の魔物と戦うなんて無謀だ』と。『漆の策略にかかってはなりませぬ』と。しかし……しかし!不本意ながら、わたくしは申しますぞ。『皆さまだけでも、あんな大勢の魔物と戦わなければなりませぬ』と。なぜならそれが皆さま方のお役目だからです。四神としての、そして京姫として、です!……まだ発破のかけ方が足りませぬかな?いやはや、皆さま方は恥ずかしくないのですか?漆に見越されたほどの温情も勇気もお持ちにならないとは!」
左大臣はさながら獅子舞のように、激しい身振り手振りとともに四神たちひとりひとりに詰め寄った。今や、乙女たちは皆顔を上げて、左大臣を見つめていた。そこには横面を叩かれたようなどこか間の抜けた表情があった。しかし、その瞳は確かに薄明の光を宿しつつあった。
左大臣の獅子舞は、最後に尻もちをついたままの京姫へと近寄ってきた。姫が思わずたじろぐと、左大臣は獅子が幼子の頭を噛むように、がばっと京姫に覆いかぶさり、抱きしめた。
「……行かねばなりませぬぞ、姫さま」
聡明な翁の声で、左大臣がささやいた。
「戦わなければなりませぬぞ、姫さま。姫さまは幸せにならねばいけないのですから……世界中を見殺しにして幸せになれる姫さまではございませぬ」
「左大臣……」
左大臣の腕が幾分か弱々しげながらに、京姫を抱き起こした。ふいに脳裏に蘇った記憶は、前世でまだ幼いころ、左大臣に抱き上げられた時の記憶であった。その時姫は、父親というものはこんな風なのか知れないと、おぼろに思ったものだった。
幼い記憶に付きまとう甘さを振り払うように、左大臣は姫の肩をばしっと叩いた。京姫の翡翠の瞳が再びきらめいた。京姫は大きくうなずいた。
「……一か八か賭けてみましょう」
朱雀の涼やかな声が、目覚めの一同の意識を集めた。朱雀は京姫の視線にだけ応えた。
「姫、私が貴女を月まで連れていくわ。足は動かないけれども、私は飛べる。やってみましょう」
「ならば、私たちは地上であの魔物どもを片づけよう」
玄武と青龍の肩を抱いて、白虎が言った。
「左大臣の言う通りだ。一人でも多くの人を救うんだ。たとえ私たちの手の届く範囲しか救えなくても、私たちは最善を尽くす義務がある。違うかい?」
青龍と玄武は微笑み、共にうなずいた。
出発の前、少女たちは皆で右手を重ね合わせた。それは知らず知らずのうちに儀式となっていたらしい――京姫、青龍、玄武、白虎、朱雀、左大臣、木守の右手が(あるいは尻尾の先が)大きなひとつの花の模様を描いた。
「……行こう!」
京姫の声が明るく響き渡った。
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