26-6 壊滅

 おかしい。何かが変だ。鋭く異変を感じ取った少年が咄嗟に遠くを見やったのは、愛する少女を案じてのことであった。この胸騒ぎは、彼にとって最も大切な結びつきを脅かすものではないかと疑ったのである。それほどまでに只ならぬ胸騒ぎであった。また、それほどまでにかけがえのない結びつきであった。


「舞……」


 と思わず唇にのぼせたとき、それまで桜の木蔭に顔を伏せていた少年は、初めて頭上に女神の死せる巨躯を認めた。言葉を失ったとき、ポケットのなかで携帯電話がけたたましく鳴り響いた。


「もしも……」

「司、今どこにいるのッ?!」


 司の応答がほとんど無意識だったのに対し、母の声はもはや絶叫であった。


「桜花神社だけど……」

「早く!早く帰ってきて!嫌ッ!!やっぱり動かないで!!お願いだから、じっとしてて……お願い、お願い、お願い……ッ!」

「母さん、どうし……」


 母のすすり泣きの背後に、司は慌てふためくくぐもった声を聞いた気がした。きっとこれはテレビからの声、ニュースの声だ。泣き続ける母にしどろもどろに声をかけて電話を切ると、司はそのままめったに使わない携帯電話のテレビ機能を開いてみた。そして唖然とした。


 ちょうど画面いっぱいに何とも知れぬ赤い飛沫がかかった。悲鳴と共にカメラはひっくり返り、暗転した。次のチャンネルでは幼児向けのアニメ番組を流していたらしいが、かわいらしくデフォルメされた犬のキャラクターはすぐにカラーバーに切り替わった。次のチャンネルは煙の上がるお台場を映していた。次のチャンネルはニュース番組であったが、とめどなくしゃべり続けるアナウンサーの声はスタジオの喧騒に半ばかき消されており、蒼くなったアナウンサーの顔の上には激しくテロップが点滅していた。それは「緊急事態発生」とも「危険!屋内退避!」とも読めた。


「えー、今現在何が起こっているのか……っておりませんが、視聴者のみなさまにおかれましては……えー…………確保して…………身を…………」


 途切れ途切れのアナウンサーの声を必死に聴きとろうとしていた司は、ガチャン!とガラスの割れるような音に思わず飛び上がった。それは画面の向こうから聞こえてきた音声であった。悲鳴のような声が上がった。照明機材が壊れたらしく薄暗くなりかけたスタジオのなかで、何か生き物が、この世のものならざるものが、蝙蝠の翼で以って旋回するのを司は見た気がした。司は本能的にチャンネルを替えた。


 いつも外国のニュース番組ばかりを流しているそのチャンネルでは、ニューヨークの、ロンドンの、パリの、モスクワの、北京の、香港の、変わらぬ様子を流していた。……変わらぬ?否、それはいつもと変わらぬという意味ではない。どこでも変わらぬという意味である。どの国のどの都市も、醜悪なけだものどもの襲撃を受けていた。人間は引き裂かれ、文明は穢され、街並みは犯されていた。どこでも悲劇、どこでも光景――煙、炎、血、悲鳴、肉塊、そして、死。


 携帯電話を取り落とし、拾いかけて、司はそのまま地面に屈みこんで嘔吐しかけた。これは現実か?悪夢ではなくてこれが現実なのだとしたら、だとしたら、自分は今知らぬ世界に紛れ込んでしまったのではないか。到底信じられない。目まぐるしくも温かかった日常と地続きにこんな惨劇が起こり得るだなんて。ああ、舞、舞、舞――!たった今、世界を守るために戦っているであろう少女。いつき姫。「行ってくるね」と言って駆けだしていった強き姫。あの可憐な少女の瞳の前に、世界はこんなグロテスクな自らの内臓うちがわを曝け出すというのか。それはなんと残虐で、悪趣味な……!


(舞、どうしたんだ……ここは君が守る世界ではないのか。僕たちは何のために生まれ変わったんだ……!)


 司は自分と自分の周縁の静寂に気がついて顔を上げた。その時、急に飛びかかってきたものがあった。


「うわあっ!」


 頬に感じる吐息、毛皮、湿った鼻面、あるいはその総体――トビーであった。


「トビー!どこから来たんだ、お前は!」


 引っ繰り返った司は安堵のあまり涙ぐみながら、飼い犬の胸元に顔を埋めた。その間、トビーは賢しげに身を反らしていた。


 犬のにおいという日常の実感が、司の動顛を落ち着かせてくれた。世界中で何が起こっているにせよ、とにかく今この町は、この身は無事であるのだ。舞たちが命のある限り戦い続けるように、司は命のある限り舞を信じ続けるだけだ。それしかできないのであれば、できることを精いっぱいするより他にない――もしかしたら、それは前世で信じられなかったことへの贖罪になるのかもしれない。



 私が絶対にそばにいるから――――



 その時、トビーの鼻先が、地面に置かれた何かを司の膝の方へとつと突き出した。硬く冷たい感触を覚えた司は、名残惜しくもトビーの毛皮を離れて、それと愛犬とを交互に見た。元々ここにはなかったはずのものである。とすると、これはトビーが持ってきたのであろうか。司は戸惑った。


「トビー、なんで……まだ僕にできることがあるとでもいうのか?でも、こんなもので一体なにが……」

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