26-5 絶望

 桜の花の最後の一片が溶けて消えるまで、誰一人身じろぎひとつするでもなかった。桜色の幕が引き、聳え立つわざわいの塔の姿が失せているのを目視してもなお、誰一人声を発するわけではなかった。こんな呆気ない結末を誰が信じられただろう。


 その長い数秒間を誰もがということを注視するために使ったのだ。勝利でも消滅でさえもなく、ただそこに何もないとということを見定めるために使ったのだ。京姫も、青龍も、玄武も、白虎も、朱雀も、左大臣も、木守さえもが。長らく空虚を、残照と思しき光線を含んでおぼろになった闇を、見つめていた京姫は、何を思うでもなく夜空を仰いだ。そして、女神の瞳と出会った。


「満月媛が消えてない!気を付けろ!やつはまだ生きてる!!」


 白虎が吼えた。満月媛の恨めしげなまなざしのもと身構える京姫たちにも、嘲りの低い笑声が漏れ聞こえてくる。石段の上から青龍が示した。


「みんな、上ッ!」


 皆が一斉に見上げた。直衣の色も新月のごとく冴え冴えと、まがつ人の姿がそこにあった。


「だから言ったであろう、姫よ。進歩がない、と」

「うそ……」


 動揺に、姫の声はかすれた――私の技が届かなかった……当たらなかったわけではない。この目で漆が桜の花弁に覆われる様子を確かに見たのだから。効かなかったのだ。京姫の浄化と鎮魂の力が漆の魂には届かないのだ。


 京姫と同じ衝撃が四神たちの顔色にもありありと浮かんできた。しかし、真の絶望の王たるものはいつも用心深く影武者を先行させて訪れるものなのである。


 漆はもはや鎖鎌さえ持っていなかった。


「時に、姫よ、恋人の少年は無事なのか?」


 京姫は訳もわからず瞬きひとつしてただ漆を見つめ返した。


「案じているのだ、私は。今この時、私のしもべどもが、否、僕と呼ぶのも厭わしいけだものが、この地を蹂躙しはじめているというのに」

「お生憎あいにくね」


 漆の言葉が姫に理解されるより早く、木守にもたれかかった朱雀が投げ返した。


「この町は護られているわ。私の虫篝むしかがりの技がくまなく巡らせてある。お前の僕は息をしたそばからことごとく焼き殺されるわ」

「なるほど、少しは進歩はあるな」


 わざとらしい感嘆のそぶりで、漆は言った。それが四神たちの警戒を呼び覚まさなかったわけがない。


「姫よ、安堵するがよい。お前の愛する者たちは護られた。今や地獄に囲まれてこの町だけが唯一の安息の地であるという」

「どういう意味だ?!」


 玄武の声に、肩をすくめる。


「姫よ、私は一夜にしてかつて京を滅ぼしたのだ。こんな小さな町ひとつに何の執着があると思う?私はこの世界を創り変えようとしているというのに」


 漆の遠まわしな言葉の意味がようやく呑み込めた時、京姫は思わず「ああ!」と叫んだ。その途端に一斉に群れ成し飛び立つ羽音が、やかましい喚き声が、忙しなく駆けまわる足音が、遠い波の押し来るようにこの静かな聖域にも伝ってきた。東京中?国中?いや、世界中かもしれない。今このひと時、何事もないのはこの桜花市だけなのだ。追いすがる魔物の牙にその脛を引き裂かれ、向かい来る鉤爪に腹を破られ、飛来する嘴にその頭を潰される不安のないのは、ただこの町だけなのだ。硫黄を吐きかけられ、酸を撒かれて、炎を吹きかけられて、悲鳴をあげずとも、命乞いをせずとも、逃げ回らずともよいのは、京姫たちのごく身近な人々だけなのである。


 自分が悔し涙を滲ませているというそのことが、姫をいっそう怒らせた。その怒りは半ばは漆に向けられているものではあったが、半ばは姫自身に向けられたものであった。こんな弱々しい不様な姿を見せて漆を悦ばせてやる義理はなかったのに。漆は勿体ぶって憫笑を垂れた。


『青海波ッ!』


 青龍の叫びに突き動かされたように、乙女たちの憤激が乱れ飛んだ。野分、葦垣、紅葉狩、走井——けれどもやはり漆には届かない。漆は初めて声高く嗤った。世を包むおぞましい唸りをその声はつんざいて響いた。


「漆を仕留めなきゃッ!」


 怒りと興奮のために青龍の声はほとんど裏返っていた。


「絶対、絶対仕留めなきゃいけないのに……それなのに……ッ!」


 そうだ、青龍の言う通りだ。漆さえ仕留められれば災厄は止むのであろう。しかし、それができないのだ。京姫と四神たちに漆を倒す力はない。


 天高く佇む漆は、今や姫たちよりも女神の裸身に近づきつつあるように思われた。そうして漆は、最後の絶望を姫たちに振りかけた。


「姫よ、四神たちよ、私は月で待っている」


 漆はめがみを指した。


「私を倒したければ縋ってくるがよい……できるものならな」

「……待っ……!」


 漆の姿が、月の黒点となりたちまち掻き消える――その時、姫は見た。うごめく黒い群雲を。それは我が物顔で夜を飛び交い、不運にも朱雀の虫篝に触れたものどもは宙にてたちまち焼かれ、黒い灰とともにその身が火の雨のように地上に降り注ぐ。椨の森の向こう、おちこちに煙が上がっているのが見える。屠られ、なぶられ、犯される弱きものの甲高い悲鳴が、さながらひとつの音響効果のように、一定の間を置いて聞こえてきた。この地獄がいま、京姫たちを取り巻いて果てなく広がっているという…………


 京姫は膝を折った。


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